ブリキの洗濯板を首から下げて彷徨った先には
概要
ブリキの洗濯板をぶら下げた男が牡蠣と白ワインを食べている姿がちょっとユーモラスで
30年も彷徨っていたと思われる男の不思議な行動
楽しく読ませていただきました
聴くっショ!
「あなたの朗読を無料で動画にします企画」参加作品
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語り手: harlequin moon
語り手(かな): はあれくいん むーん
Twitter ID: harlequin_moon
更新日: 2023/08/22 14:15
エピソード名: クレセントの夜
小説名: クレセントの夜
作家: おのえ桜子
Twitter ID: toastykenney
本編
男は飛行機を降りると、早速荷物を広げられる場所を探した。到着ロビーまで来るといくつか空席があったので、持っていたスーツケースを青い背もたれの椅子に置くと、やおらそれを開いた。中から白いタオルに包まれた電話帳ほどの小さなブリキ製の洗濯板を取り出し、取り付けてある紐を首にかけた。洗濯板の木製の枠はもうかなり朽ちており、塗装が剥がれて所々白木の肌が見えていた。
空港を出るとすぐにタクシーを拾った。男が行き先を告げると、運転手は、また来たのか、と男が首から下げた物を確認してからアクセルを踏んだ。タクシーは夕闇の幹線道路へと抜けた。
男は窓から滲んで見える町並みを眺めながら呟いた。
「今回はうまくいく気がするんです」
運転手は前を向いたまま「じゃ、今回の旅を最後にしろよ」とくわえていたタバコを窓から投げ捨てた。タクシーは半時間足らずで宿泊先に到着した。
それでも男は長期戦を覚悟して、付近でも比較的安いホテルを予約していた。ホテル入り口で一旦足を止め、二階の美しい鋳鉄のバルコニーを眺めた。安ホテルとはいえ、ヨーロッパ風情の外観にはため息が出る。黒塗りのフロントへ近づくと、フロント係が、お待ちしておりました、と笑顔で迎えてくれた。
クレオール美人のフロント係は宿泊の手続きを済ませると、今晩から始めるのか、と男に尋ねた。彼が答えると、「そのお姿では当然でございますね。では、お部屋の鍵です」と、二階の部屋の鍵を男に渡した。
部屋はフロントとは違い、白塗りの、どこかプランテーション時代の使用人の部屋を思わせる小さなものだった。男は荷物と洗濯板をベッドに置くと、洗面所で顔を洗った。成田から乗り継ぎも含めて十五時間以上のフライトはさすがに疲れる上に、日本との時差が十五時間あるため、ちょうど睡魔が襲って来る頃だ。
再び首に洗濯板を掛けると、一階へ降りた。フロントに向かって今から川沿いの遊歩道へ行ってみようと思う、と告げた。
「今の時間でしたら、『バンジョーのジョー』が演奏中でございましょう」と微笑んだ。
男はホテルを出ると、セント・フィリップ通りを川の匂いがする方向へ曲がった。ディケーター通りに出ると右に折れ、そのまま川沿いの遊歩道を目指した。そこへたどり着くまでの間、トランペットとサックスの音が、時に物悲しく時に軽快に男の鼓膜を震わせた。
12月のニューオーリンズは東京よりも暖かいイメージだが、アメリカ南部の湿地帯であるがゆえに、じめっとした寒さがある。
遊歩道のベンチの一つに腰掛けた。目の前の下手なバンジョーの響きが、ミシシッピー川のさざ波とセッションしていた。遠くにクルージングを楽しむ乗客を乗せた蒸気船が見える。バンジョーを弾いていた初老の黒人男性が、強い南部訛りで話しかけた。
「またあんたけ」
男が演奏の感想を述べると、「あんただけだぁ、そう言ってくれんのは」と、男が知らない曲をまた歌い出した。再び男が問うと、「おらが作った」と、さっきより高らかに歌い、川に向かってバンジョーをかき鳴らした。
「それを持ってるってこたぁ、あれだろ?」
バンジョーのジョーと呼ばれるその黒人ストリートミュージシャンは、男が首から下げている物を指差した。
「オレのバンジョーと合わせろや」と、ジョーがペグを触ってチューニングし直そうとすると、男が洗濯板をさすりながら返事をした。
「いつも付き合いの悪いやつや」
と、男に背を向け、意味のわからない歌詞で歌い出した。「ほな、早よあそこに行けよ」と、爪が割れんばかりにバンジョーを弾いた。
男はジョーの足元にあったトマトソースの空きカンに五ドル札紙幣を突っ込むと、フレンチクォーターの方向へ歩き出した。
バーボン通りまで戻って来ると、そこで適当なバーを見つけて入った。平日のせいか、店の中には客が二人だけ座っている静かなバーだった。客の一人はビールを飲みながら生牡蠣をつまんでいた。もう一人は、店の隅の席でウィスキーのロックを片手に、タバコの煙を天井に向かって吐き出していた。
マホガニーの薄汚れたカウンターに座ると、バーテンダーがコースターを男の前に滑らせながら注文を訊いた。
「牡蠣を食べたいんだが、腹も減っているんだ。ここだとバーボンがお決まりだろうけど、ウイスキーは苦手でね」
バーテンダーは、それならボリュームもあるオイスターロックフェラーと白ワインにしてはどうか、バゲットを余分につけるが、とロンググラスを磨きながら言った。じゃ、白ワインはピノ・グリージョで、と男は答えた。バーテンダーはオーケーと言って男の注文を準備し始めた。
男は注文が来るまで、ポケットに仕舞い込んでいた物を取り出し、眺めた。見慣れてはいたが、見る度にあの当時のことを思い出して、耳の奥がじんわりする。
注文した白ワインと、ほうれん草のピューレとパン粉が程よく焦げた、熱々のオイスターロックフェラーが男の前に並んだ。スライスされたバゲットも供された。バーテンダーはレシートをテーブルに置くと、もしその洗濯板が邪魔なら、テーブルの上に置いても構わないが、と隣の席を指差した。
「いや、これは僕からの合言葉みたいなものなんだ。掛けていたい」
男は今度は愛おしげに洗濯板をさすった。
「やはりあなたでしたか」と、バーテンダーは大振りの生牡蠣を五つ皿に盛り、バーから のおごりだ、と彼の前に置いた。
グラスの中のよく冷えた薄い麦藁色の液体で喉を潤した後、生牡蠣の一つにホースラディッシュをのせ、一口ですすった。乳白色の滑らかな身が自然の塩味と共に流れ込む。口に合わない機内食を残した後の飢えた胃袋に、これほどのご馳走が他にあるだろうか?
生牡蠣を全て平らげ、ロックフェラーをバゲットにのせてしばらく堪能してから、男は先ほど眺めていた物をバーテンダーに見せ、訊ねた。バーテンダーは質問を予期していたかのように、男に答えた。
「私が知る限りここ数年は、同じ場所で演奏していますねぇ。ただ、彼女がいるかどうかは、私もわかりかねます」
男は支払いを済ませて店を出た。首に紐が少し食い込み始めて不快だったが、決してその洗濯板を首から外そうとはしなかった。あの場所へ行かなければならない。今回の旅できっと見つけ出さなければ。
ロイヤル通りとピーター通りの角に近づくにつれ、時差ぼけの疲労感とは引き換えに、自分でどう処理していいかわからない高揚感が溢れ始めた。今回が初めてではなかったが、男は毎回これが最後だと思ってここへ戻って来る。片手にビール瓶を持った数人の観光客とすれ違ったが、その誰もが彼の洗濯板に目を遣り、ある者は納得した顔で頷き、ある者は見世物小屋に来たような顔をして通り過ぎる。
ロイヤル通りとピーター通りの角には、かつて男が泊まったホテルがあった。今そこは観光客相手のコンビニと土産物屋を兼ねた店になっている。男はその角に、今夜もストリートバンドの存在を認めた。棒が突き刺さったポリバケツに穴を開け、そこに紐を通しただけのベース、大小様々の空き缶のパーカッション、ペットボトルで作ったマリンバのような楽器が、トランペットやサックスに混じって演奏されていた。
男はしばらくそのバンドの演奏を人混みに隠れるようにして聴いていたが、曲と曲との合間を見計らってバンドの前へ立った。彼は持っていた写真をバンドメンバーの一人に見せ、訊いた。野球帽と無精髭のバランスが全く悪い白人のベース奏者は、「あんた、今日はラッキーだ」と、スーパーの沿道に腰掛けている背中の曲がった女性に向かって顎をしゃくった。男は礼を言うとその女性に近づいた。彼女は、男が首から掛けている洗濯板にすぐに気付き、腰をさすりながらゆっくりと立ち上がった。
「あれからもう何年だい?」
「30年です」
「もうそんなに?」女性はほとんど白髪の肩まである髪をかき上げた。「腰も痛くなるわけだ」
女性は、その写真に写っている二十代半ばの女が自分で、演奏している洗濯板は今男が持っているものに違いない、と言った。
「僕をバンドのメンバーにしてください」
これを言うのに何十年もかかった。
女性は、青い目で男の顔をじっと見つめた。彼にはそれが永遠に思えたが、彼女は黄ばんだ歯を見せると、いいわよ、と言ってハグをした。
「みんな、やっと彼が私を見つけてくれたよ。そしてこの洗濯板を取り返してくれた。今日から彼は、あんたたちのメンバーだ」
女性は、沿道に座り直すと生成りの布カバンからタバコを一本抜き取り、火を点けた。彼女が吐いた煙はニューオーリンズの闇に消えゆき、隣の通りから聞こえる別のバンドのトランペットの軽快なリズムと共に踊っているように見えた。
(了)
空港を出るとすぐにタクシーを拾った。男が行き先を告げると、運転手は、また来たのか、と男が首から下げた物を確認してからアクセルを踏んだ。タクシーは夕闇の幹線道路へと抜けた。
男は窓から滲んで見える町並みを眺めながら呟いた。
「今回はうまくいく気がするんです」
運転手は前を向いたまま「じゃ、今回の旅を最後にしろよ」とくわえていたタバコを窓から投げ捨てた。タクシーは半時間足らずで宿泊先に到着した。
それでも男は長期戦を覚悟して、付近でも比較的安いホテルを予約していた。ホテル入り口で一旦足を止め、二階の美しい鋳鉄のバルコニーを眺めた。安ホテルとはいえ、ヨーロッパ風情の外観にはため息が出る。黒塗りのフロントへ近づくと、フロント係が、お待ちしておりました、と笑顔で迎えてくれた。
クレオール美人のフロント係は宿泊の手続きを済ませると、今晩から始めるのか、と男に尋ねた。彼が答えると、「そのお姿では当然でございますね。では、お部屋の鍵です」と、二階の部屋の鍵を男に渡した。
部屋はフロントとは違い、白塗りの、どこかプランテーション時代の使用人の部屋を思わせる小さなものだった。男は荷物と洗濯板をベッドに置くと、洗面所で顔を洗った。成田から乗り継ぎも含めて十五時間以上のフライトはさすがに疲れる上に、日本との時差が十五時間あるため、ちょうど睡魔が襲って来る頃だ。
再び首に洗濯板を掛けると、一階へ降りた。フロントに向かって今から川沿いの遊歩道へ行ってみようと思う、と告げた。
「今の時間でしたら、『バンジョーのジョー』が演奏中でございましょう」と微笑んだ。
男はホテルを出ると、セント・フィリップ通りを川の匂いがする方向へ曲がった。ディケーター通りに出ると右に折れ、そのまま川沿いの遊歩道を目指した。そこへたどり着くまでの間、トランペットとサックスの音が、時に物悲しく時に軽快に男の鼓膜を震わせた。
12月のニューオーリンズは東京よりも暖かいイメージだが、アメリカ南部の湿地帯であるがゆえに、じめっとした寒さがある。
遊歩道のベンチの一つに腰掛けた。目の前の下手なバンジョーの響きが、ミシシッピー川のさざ波とセッションしていた。遠くにクルージングを楽しむ乗客を乗せた蒸気船が見える。バンジョーを弾いていた初老の黒人男性が、強い南部訛りで話しかけた。
「またあんたけ」
男が演奏の感想を述べると、「あんただけだぁ、そう言ってくれんのは」と、男が知らない曲をまた歌い出した。再び男が問うと、「おらが作った」と、さっきより高らかに歌い、川に向かってバンジョーをかき鳴らした。
「それを持ってるってこたぁ、あれだろ?」
バンジョーのジョーと呼ばれるその黒人ストリートミュージシャンは、男が首から下げている物を指差した。
「オレのバンジョーと合わせろや」と、ジョーがペグを触ってチューニングし直そうとすると、男が洗濯板をさすりながら返事をした。
「いつも付き合いの悪いやつや」
と、男に背を向け、意味のわからない歌詞で歌い出した。「ほな、早よあそこに行けよ」と、爪が割れんばかりにバンジョーを弾いた。
男はジョーの足元にあったトマトソースの空きカンに五ドル札紙幣を突っ込むと、フレンチクォーターの方向へ歩き出した。
バーボン通りまで戻って来ると、そこで適当なバーを見つけて入った。平日のせいか、店の中には客が二人だけ座っている静かなバーだった。客の一人はビールを飲みながら生牡蠣をつまんでいた。もう一人は、店の隅の席でウィスキーのロックを片手に、タバコの煙を天井に向かって吐き出していた。
マホガニーの薄汚れたカウンターに座ると、バーテンダーがコースターを男の前に滑らせながら注文を訊いた。
「牡蠣を食べたいんだが、腹も減っているんだ。ここだとバーボンがお決まりだろうけど、ウイスキーは苦手でね」
バーテンダーは、それならボリュームもあるオイスターロックフェラーと白ワインにしてはどうか、バゲットを余分につけるが、とロンググラスを磨きながら言った。じゃ、白ワインはピノ・グリージョで、と男は答えた。バーテンダーはオーケーと言って男の注文を準備し始めた。
男は注文が来るまで、ポケットに仕舞い込んでいた物を取り出し、眺めた。見慣れてはいたが、見る度にあの当時のことを思い出して、耳の奥がじんわりする。
注文した白ワインと、ほうれん草のピューレとパン粉が程よく焦げた、熱々のオイスターロックフェラーが男の前に並んだ。スライスされたバゲットも供された。バーテンダーはレシートをテーブルに置くと、もしその洗濯板が邪魔なら、テーブルの上に置いても構わないが、と隣の席を指差した。
「いや、これは僕からの合言葉みたいなものなんだ。掛けていたい」
男は今度は愛おしげに洗濯板をさすった。
「やはりあなたでしたか」と、バーテンダーは大振りの生牡蠣を五つ皿に盛り、バーから のおごりだ、と彼の前に置いた。
グラスの中のよく冷えた薄い麦藁色の液体で喉を潤した後、生牡蠣の一つにホースラディッシュをのせ、一口ですすった。乳白色の滑らかな身が自然の塩味と共に流れ込む。口に合わない機内食を残した後の飢えた胃袋に、これほどのご馳走が他にあるだろうか?
生牡蠣を全て平らげ、ロックフェラーをバゲットにのせてしばらく堪能してから、男は先ほど眺めていた物をバーテンダーに見せ、訊ねた。バーテンダーは質問を予期していたかのように、男に答えた。
「私が知る限りここ数年は、同じ場所で演奏していますねぇ。ただ、彼女がいるかどうかは、私もわかりかねます」
男は支払いを済ませて店を出た。首に紐が少し食い込み始めて不快だったが、決してその洗濯板を首から外そうとはしなかった。あの場所へ行かなければならない。今回の旅できっと見つけ出さなければ。
ロイヤル通りとピーター通りの角に近づくにつれ、時差ぼけの疲労感とは引き換えに、自分でどう処理していいかわからない高揚感が溢れ始めた。今回が初めてではなかったが、男は毎回これが最後だと思ってここへ戻って来る。片手にビール瓶を持った数人の観光客とすれ違ったが、その誰もが彼の洗濯板に目を遣り、ある者は納得した顔で頷き、ある者は見世物小屋に来たような顔をして通り過ぎる。
ロイヤル通りとピーター通りの角には、かつて男が泊まったホテルがあった。今そこは観光客相手のコンビニと土産物屋を兼ねた店になっている。男はその角に、今夜もストリートバンドの存在を認めた。棒が突き刺さったポリバケツに穴を開け、そこに紐を通しただけのベース、大小様々の空き缶のパーカッション、ペットボトルで作ったマリンバのような楽器が、トランペットやサックスに混じって演奏されていた。
男はしばらくそのバンドの演奏を人混みに隠れるようにして聴いていたが、曲と曲との合間を見計らってバンドの前へ立った。彼は持っていた写真をバンドメンバーの一人に見せ、訊いた。野球帽と無精髭のバランスが全く悪い白人のベース奏者は、「あんた、今日はラッキーだ」と、スーパーの沿道に腰掛けている背中の曲がった女性に向かって顎をしゃくった。男は礼を言うとその女性に近づいた。彼女は、男が首から掛けている洗濯板にすぐに気付き、腰をさすりながらゆっくりと立ち上がった。
「あれからもう何年だい?」
「30年です」
「もうそんなに?」女性はほとんど白髪の肩まである髪をかき上げた。「腰も痛くなるわけだ」
女性は、その写真に写っている二十代半ばの女が自分で、演奏している洗濯板は今男が持っているものに違いない、と言った。
「僕をバンドのメンバーにしてください」
これを言うのに何十年もかかった。
女性は、青い目で男の顔をじっと見つめた。彼にはそれが永遠に思えたが、彼女は黄ばんだ歯を見せると、いいわよ、と言ってハグをした。
「みんな、やっと彼が私を見つけてくれたよ。そしてこの洗濯板を取り返してくれた。今日から彼は、あんたたちのメンバーだ」
女性は、沿道に座り直すと生成りの布カバンからタバコを一本抜き取り、火を点けた。彼女が吐いた煙はニューオーリンズの闇に消えゆき、隣の通りから聞こえる別のバンドのトランペットの軽快なリズムと共に踊っているように見えた。
(了)