【聴く小説】桜の樹の下で/朗読カリエ エリカ

概要

いとうかよこ様の短編小説「桜の樹の下で」を朗読させていただきました📖 


遠い遠い日に交わした約束。
それは、叶うかどうかもわからない不確かな約束。
彼女は忘れてしまっただろうか、あの約束を。
彼は覚えているかしら、あの約束を。

恋人たちの約束を知っているのは。桜の樹だけ…。     【聴くっショ!より抜粋】

作:いとうかよこ様/@kotobaya
朗読:カリエエリカ/@lovebeel2

語り手: カリエ エリカ
語り手(かな): かりええりか

Twitter ID: lovebeel2
更新日: 2023/06/02 21:46

エピソード名: 桜の樹の下で

小説名: 桜の樹の下で
作家: いとうかよこ
Twitter ID: kotobaya


本編

あの恋人たちは、今宵、私の元へ戻ってくるだろうか。
あの日交わした約束を忘れずに、ここで、私の元で、もう一度、笑顔を見せてくれるだろうか。

私は、あまり目立たない場所にひっそりと立っている。小さな、名もない丘の上にぽつんと一本だけの桜の樹。
知る人ぞ知る存在どころか、ほとんど誰にも知られていない。
だから、一年に一度だけ、春の僅かな時間に多くの注目を浴びる仲間たちを尻目に、静かに穏やかに過ごしている。
多くの人に晴れの姿を見てもらえないことを淋しいとは思わない。むしろ、賑やかすぎる仲間たちの境遇を、少し気の毒に思っているくらいだ。
それでも、誰も訪ねて来ないわけではない。ごくたまに、私の存在を見つけてくれる人もいる。あの恋人たちもそうだった。

あの頃、まだ私は若く、細く頼りない存在だった。
けれど、まだぽつりぽつりとしかピンクに色付かない私を見つけ、彼と彼女は本当にうれしそうに笑い合った。

「私たちだけの、秘密の桜だね」

そう言って、私よりずっと美しい桜色を頬に灯して微笑む彼女は、妖精のように愛らしく、彼も私も、思わず見惚れてしまうほどだった。
そんな彼女をチラリと横目で追いかけ、私の身体にそっと触れながら彼は言う。

「来年の春も、ふたりでこの桜を見に来よう。その次の春も、そのまた次も、ずっとずっと、春になったら一緒にここで桜を見るんだ」

まるで、プロポーズのような台詞を贈られた彼女は、少し恥ずかしそうに、けれど、幸せが隠しきれない顔で、コクリと頷いた。
見ているこちらが赤面してしまうような、甘い甘い出来事。
それが、すぐに苦く塗りつぶされてしまうことなど、その時は私も、もちろん、恋人たちも知る由はなかった。

そして、次の年の春のこと。恋人たちは約束通り、再び私の元へやって来た。
けれど、あの日のような笑顔はどちらの顔にも浮かんでいなかった。
ふたりの間に空いた微妙な距離。それが何を意味するのか、私にはまるでわからない。
それでも、悲しみを纏う彼女と、苦しさに絡め取られた彼の姿に、暗い予感を覚えずにはいられなかった。

「ごめん…」

そう言ったきり黙り込んだ彼。彼女は零れそうな涙をこらえるように、何も言わずに私を見上げている。
言葉をなくした恋人たち。時が止まったようなふたりの間を強い風が吹き抜け、桜色がはらはらはらりと舞っている。
どのくらい、そうしていただろうか。永遠にも思える長い長い沈黙を破ったのは彼の方だった。

「僕たちの想いを、今は、結び合うことはできない。悔しいけれど、それを覆す力は、僕らにはない」

そう言って、彼はひとつ、ため息をこぼした。
しかし、ほんの僅かにためらった後、それを打ち消すように俯いていた顔を上げ、まっすぐに彼女へと視線を移して言う。

「でも、時が経てば、今は手放すしかないこの想いを、取り戻すことのできる日が来るかもしれない。たとえば30年後、僕たちがひとつの役目を終え、何にも縛られない立場になれたとしたなら…」

彼女を励ますように、自分に言い聞かせるように、彼は必死になって言葉をつないでいる。彼女は沈黙を守ったままだ。
それでも彼は、言葉を止めない。

「もし、もしもその時にまだ、僕たちがこの場所を覚えていたら、もう一度、この桜の樹の下で逢いたい。そしてもし、許されるのなら、その時はこの気持を、ふたりの想いを結び合いたい」

そこまで言うと彼は、彼女へとゆっくり近づいていく。
どうやら、ふたりの恋には大きな障害が立ちはだかり、違う道を歩むことが決まってしまったらしい。
互いに心を残したままの別れ。そんな運命がふたりから笑顔を奪ったのだと、ようやく私にも理解ができた。

彼に決して視線を向けず、相変わらず私を見上げたままの彼女は、ついに耐えきれず、ぽつりと涙をこぼした。
悲しみを湛えた透明な雫は、私の足元に落ち、一旦、土に染み込んだ後、ゆっくりと私の中に吸い上げられていった。
じわりじわりと、彼女の悲しみが私に染みこんでいく。
まるで枝の先々に、小さな花びらのひとつひとつに刻みつけるように、彼女の悲しみが、私の中に満ちていった。
その時の痛みを、私は今も忘れられない。
あの一瞬、彼女と同化したように、私は感じるはずのない痛みを、確かにこの身に感じていたのだ。

悲しみに濡れる彼女の頬へと手を伸ばしかけ、そこに届く前に留まった彼は、もう一度、静かに言った。

「30年後、この桜が満開になった時、もう一度、キミに逢いたい」

それは、途方もなく遠い約束。そして、守られる望みのない約束。
それでも彼女は、見上げていた私から視線を外し、彼の瞳をじっと見つめて、たった一度、コクリと頷いた。
去年と同じ仕草で、去年とはまるで違う表情で、彼と果てない約束を交わしたのだ。


今宵は、あの恋人たちが交わした遠い遠い約束の日。
あの日以来、彼も彼女も、私の元を訪れることはなかった。
それぞれが誰と一緒に、どんな暮らしをしているのか、私には知る術はない。だから、思うのだ。
あの恋人たちは、私の元に戻ってくるのだろうかと。あの日交わした約束を覚えているだろうかと。

若かった私も歳を重ね、たくさんの桜色を豊かに咲かせるようになった。
その姿を、あの恋人たちに見てほしいと思う。
他の誰に知られずともいい。せめてあのふたりに、私の晴れの姿を見てほしいと願う。
だから、私は待っている。あの恋人たちを。あの約束が果たされる日を。
苦く塗りつぶされた想い出が、もう一度、幸せな色に染まることを夢見ながら。

その時、ゆっくりと丘を登って来る人影が見えた。
ーーあれは、誰?
彼ならば、彼女ならば、いいのだけれど。
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