朗読【馬車に揺られて】
概要
望まない結婚から逃げるために屋敷を抜け出し、恋人の待つイルブークの町を目指す。
ガタゴトと揺られる馬車の荷台から見る朝日は、とても……とても美しかった。
ガタゴトと揺られる馬車の荷台から見る朝日は、とても……とても美しかった。
語り手: 白河 那由多
語り手(かな): しらかわ なゆた
Twitter ID: nayuta9333
更新日: 2024/04/04 12:50
エピソード名: 馬車に揺られて
小説名: 馬車に揺られて
作家: 紫月音湖(旧HN/月音)
Twitter ID: saigonotukikara
本編
「お嬢様、私です」
皆が寝静まった深夜、手筈通りにメイドがノックもせずに部屋へ滑り込んできた。ちょうど私は身支度を終え、仕上げに結い上げた髪を帽子の中へ押し込んでいる最中だった。けれど慣れない手つきに、はらりと髪が滑り落ちる。
「失礼しますね」
自分の髪と悪戦苦闘している私を見かねて、メイドが私の髪を優しく手に取った。
「お嬢様の髪を結うのも、これが最後ですね」
そう言って鏡越しに笑った顔は、切なさに耐えるように微かに口元が震えていた。
「……無理を言って、ごめんなさい」
「もうそれは言いっこなしです。お嬢様が幸せになるお手伝いが出来て、私はとても幸せですよ」
「ケイト。……ありがとう」
「さぁ出来た。本当にお嬢様の髪は綺麗ですね。最後に私から花を贈らせて下さいね。……どうぞ、お嬢様が幸せになれますように」
綺麗に結い上げた髪の後ろに、ケイトが一本の赤い薔薇を飾ってくれた。庭園から摘んできたばかりなのだろう。瑞々しい薔薇の香りに鼻腔をくすぐられ、うっとりと瞼を閉じそうになった私を覚醒するかのように、用意していた帽子が頭に深く被せられる。
薔薇の香りが遮断され、同時に一瞬で現実に戻った私の胸がどくんと鳴った。
「さぁ、行きましょう」
薄暗い屋敷の廊下を、ひっそりと息を殺して歩いて行く。屋敷の住人に見つかれば終わりだと思うと、私の胸が痛いくらいに早鐘を打つ。そうなってしまえば、私はもうこの屋敷からは逃げ出せない。囚われたまま、望みもしない相手の元へ嫁ぐ道具となるのだ。
私には恋人がいた。
従兄弟のウィリアムとは幼馴染みで、側にいるのが当たり前になるくらいずっと一緒だった。彼と結婚するものだと思っていたし、彼もまた同じように思いを返してくれていた。
それなのに、私の結婚相手は親子ほども年の離れた男だと告げられたのだ。
――可哀想なお嬢様。私がウィリアム様とご一緒になれるよう、お手伝い致しましょう。
そう言ってケイトが準備をしてくれてからひと月ほどが過ぎた今日、私はウィリアムと駆け落ちする為に屋敷を抜け出そうとしていた。
「屋敷の裏に幌馬車を用意してあります。野菜などを運ぶ小さなものですので乗り心地はよくありませんが……」
「ううん。ここまで良くしてくれて、本当にありがとう」
「街道沿いを行くと見つかる危険性があるので、道は悪いですがルガス山道を通ってイルブークの町へ行くよう御者に頼んであります。ウィリアム様は宿屋にてお嬢様をお待ちですよ。途中お腹も空くでしょうし、簡単なものですが用意して参りました。朝食にでもお召し上がり下さい」
飲み物とパンの入った籠を受け取る前に、ケイトにしがみ付くように抱きついた。一瞬驚いたのか身を固くしたケイトが、やがて子をあやすように優しく背中をさすってくれた。
「さぁ、早くしないと気付かれてしまいます」
「……そうね」
目元に滲んだ涙を指先で拭って、精一杯の笑顔をケイトに向ける。
「本当にありがとう、ケイト」
「お嬢様。……お幸せに」
同じように泣きそうな笑みを浮かべたケイトに手を振って、私は馬車の荷台に乗り込んだ。
暗い夜の道を、逃げるように走る馬車。新しい門出に不安がないと言えば嘘になるが、いつまでも手を振ってくれたケイトの優しさが胸に染みこんで、それは温かい希望の熱となり私の心を包んでくれた。
ルガス山道のでこぼこした悪路を過ぎて、馬車はようやく見通しの良い場所に出た。そこは山肌に沿うように延びた道で、片側が崖になっているから見通しが良いだけの細い道だった。ただ景色はとても綺麗で、ちょうど昇り始めた朝日に照らされて崖下に広がる鬱蒼とした森が朝露をきらきらと反射させている。
「わぁ……綺麗」
美しい景色と、これから始まる愛する人との生活。屋敷が遠のく度に希望に満ちた未来への期待が膨れ、それは同時に私の空腹をも呼び起こした。
そういえば別れ際にケイトが食べ物を用意してくれていた。思い出すと体は正直に反応してお腹を鳴らし、御者と自分しかいないのに私は少し照れたように笑ってしまった。
籠の中には瓶に入ったレモン水と、ケイトが作ったサンドウィッチが入っていた。有り難くサンドウィッチをひとつ手に取ると、その下に一枚の紙が入っているのが見えた。
『お嬢様へ』
そう書かれた手紙を開くと、そこにはケイトの美しい文字が紙面いっぱいに綴られていた。
『今頃はルガス山道を抜け、朝日に照らされた崖の細道を進んでおいででしょうか。無事にそこまで辿り着く事ができて、本当に良かったです。そこからイルブークの町まではまだ少し時間がかかるので、退屈しのぎに私の昔話にお付き合い下さいませ。
お嬢様は、私が結婚していたことをご存じでしょうか? 夫は流行病で亡くなってしまいましたが、私に一人息子を授けて下さいました。名前はケヴィンと申します。夫によく似た栗色の髪に蜂蜜色の瞳をした、それは可愛い、可愛い一人息子です。親馬鹿と言われても構いません。夫を亡くし、私の生きがいはケヴィンだけだったのですから。
ケヴィンは屋敷の庭師のダグの元で働くようになりました。植物が好きなケヴィンは毎日楽しそうに仕事に出かけていきました。庭師のダグとも仲良くなり、私の仕事が忙しい時はよく面倒を見てもらっていたものです。
そんなケヴィンは、今年で十歳になるはずでした。
その日ダグは体調を崩し、庭園の手入れは幼いケヴィンに任されました。植物の状態を観察し、水をやり、手の届く範囲で剪定する。ケヴィンは約束を守る子でしたので、自分に許された道具以外は一切使いません。その日も自分専用の小さな剪定鋏で赤い薔薇の生垣を手入れしていました。
――そう、屋敷に旅芸人の一座が招待された、あの日ですよ。
ケヴィンはきっと薔薇の生垣の手入れをしている時に、その影で一座の旅役者と密会しているあなたを目撃したのでしょう。慌てたあなたはケヴィンから鋏を奪い取り、あの子の柔らかい肌にそれを突き刺した。
事故に見せかけるために脚立と刈込鋏を持ち出して、高い場所の剪定中に落下した状況を作り上げましたね?
あなたは二度も、あの子の胸に鋏を突き立てたのです。
あの子は、さぞ怖かったことでしょう。痛かったことでしょう。
なぜあの子がこんな目に遭わなくてはいけなかったのか。私はその理由が、今でも分からないのです。
お嬢様。どうか私に、その理由を教えては頂けないでしょうか?
己の欲望を満たすため|一時《いっとき》の快楽に溺れた、浅ましいお嬢様。私の可愛いあの子が死なねばならない理由は何だったのでしょうか?
あぁ、けれども、きっとその答えを私がお嬢様から聞くことはないのでしょうね。
最後にひとつ、謝罪させて下さいませ。
イルブークの町にウィリアム様はおりません。僭越ながら、庭園での密会を詳細にお伝えして参りました。ひどく憤慨されており、事件については私に慰めのお言葉を下さるほどでした。ウィリアム様はとてもお優しいお方ですね。お嬢様がお慕いするのも分かる気がします。
昼を過ぎる頃にはイルブークに到着するでしょう。
世間知らずのお嬢様。新しい第一歩に、私から花を贈らせて下さいませ。
お嬢様の髪に飾った、赤い薔薇。あの庭園でケヴィンが最期に手入れしていた、美しい薔薇です。
――お嬢様。どうか、お幸せに』
皆が寝静まった深夜、手筈通りにメイドがノックもせずに部屋へ滑り込んできた。ちょうど私は身支度を終え、仕上げに結い上げた髪を帽子の中へ押し込んでいる最中だった。けれど慣れない手つきに、はらりと髪が滑り落ちる。
「失礼しますね」
自分の髪と悪戦苦闘している私を見かねて、メイドが私の髪を優しく手に取った。
「お嬢様の髪を結うのも、これが最後ですね」
そう言って鏡越しに笑った顔は、切なさに耐えるように微かに口元が震えていた。
「……無理を言って、ごめんなさい」
「もうそれは言いっこなしです。お嬢様が幸せになるお手伝いが出来て、私はとても幸せですよ」
「ケイト。……ありがとう」
「さぁ出来た。本当にお嬢様の髪は綺麗ですね。最後に私から花を贈らせて下さいね。……どうぞ、お嬢様が幸せになれますように」
綺麗に結い上げた髪の後ろに、ケイトが一本の赤い薔薇を飾ってくれた。庭園から摘んできたばかりなのだろう。瑞々しい薔薇の香りに鼻腔をくすぐられ、うっとりと瞼を閉じそうになった私を覚醒するかのように、用意していた帽子が頭に深く被せられる。
薔薇の香りが遮断され、同時に一瞬で現実に戻った私の胸がどくんと鳴った。
「さぁ、行きましょう」
薄暗い屋敷の廊下を、ひっそりと息を殺して歩いて行く。屋敷の住人に見つかれば終わりだと思うと、私の胸が痛いくらいに早鐘を打つ。そうなってしまえば、私はもうこの屋敷からは逃げ出せない。囚われたまま、望みもしない相手の元へ嫁ぐ道具となるのだ。
私には恋人がいた。
従兄弟のウィリアムとは幼馴染みで、側にいるのが当たり前になるくらいずっと一緒だった。彼と結婚するものだと思っていたし、彼もまた同じように思いを返してくれていた。
それなのに、私の結婚相手は親子ほども年の離れた男だと告げられたのだ。
――可哀想なお嬢様。私がウィリアム様とご一緒になれるよう、お手伝い致しましょう。
そう言ってケイトが準備をしてくれてからひと月ほどが過ぎた今日、私はウィリアムと駆け落ちする為に屋敷を抜け出そうとしていた。
「屋敷の裏に幌馬車を用意してあります。野菜などを運ぶ小さなものですので乗り心地はよくありませんが……」
「ううん。ここまで良くしてくれて、本当にありがとう」
「街道沿いを行くと見つかる危険性があるので、道は悪いですがルガス山道を通ってイルブークの町へ行くよう御者に頼んであります。ウィリアム様は宿屋にてお嬢様をお待ちですよ。途中お腹も空くでしょうし、簡単なものですが用意して参りました。朝食にでもお召し上がり下さい」
飲み物とパンの入った籠を受け取る前に、ケイトにしがみ付くように抱きついた。一瞬驚いたのか身を固くしたケイトが、やがて子をあやすように優しく背中をさすってくれた。
「さぁ、早くしないと気付かれてしまいます」
「……そうね」
目元に滲んだ涙を指先で拭って、精一杯の笑顔をケイトに向ける。
「本当にありがとう、ケイト」
「お嬢様。……お幸せに」
同じように泣きそうな笑みを浮かべたケイトに手を振って、私は馬車の荷台に乗り込んだ。
暗い夜の道を、逃げるように走る馬車。新しい門出に不安がないと言えば嘘になるが、いつまでも手を振ってくれたケイトの優しさが胸に染みこんで、それは温かい希望の熱となり私の心を包んでくれた。
ルガス山道のでこぼこした悪路を過ぎて、馬車はようやく見通しの良い場所に出た。そこは山肌に沿うように延びた道で、片側が崖になっているから見通しが良いだけの細い道だった。ただ景色はとても綺麗で、ちょうど昇り始めた朝日に照らされて崖下に広がる鬱蒼とした森が朝露をきらきらと反射させている。
「わぁ……綺麗」
美しい景色と、これから始まる愛する人との生活。屋敷が遠のく度に希望に満ちた未来への期待が膨れ、それは同時に私の空腹をも呼び起こした。
そういえば別れ際にケイトが食べ物を用意してくれていた。思い出すと体は正直に反応してお腹を鳴らし、御者と自分しかいないのに私は少し照れたように笑ってしまった。
籠の中には瓶に入ったレモン水と、ケイトが作ったサンドウィッチが入っていた。有り難くサンドウィッチをひとつ手に取ると、その下に一枚の紙が入っているのが見えた。
『お嬢様へ』
そう書かれた手紙を開くと、そこにはケイトの美しい文字が紙面いっぱいに綴られていた。
『今頃はルガス山道を抜け、朝日に照らされた崖の細道を進んでおいででしょうか。無事にそこまで辿り着く事ができて、本当に良かったです。そこからイルブークの町まではまだ少し時間がかかるので、退屈しのぎに私の昔話にお付き合い下さいませ。
お嬢様は、私が結婚していたことをご存じでしょうか? 夫は流行病で亡くなってしまいましたが、私に一人息子を授けて下さいました。名前はケヴィンと申します。夫によく似た栗色の髪に蜂蜜色の瞳をした、それは可愛い、可愛い一人息子です。親馬鹿と言われても構いません。夫を亡くし、私の生きがいはケヴィンだけだったのですから。
ケヴィンは屋敷の庭師のダグの元で働くようになりました。植物が好きなケヴィンは毎日楽しそうに仕事に出かけていきました。庭師のダグとも仲良くなり、私の仕事が忙しい時はよく面倒を見てもらっていたものです。
そんなケヴィンは、今年で十歳になるはずでした。
その日ダグは体調を崩し、庭園の手入れは幼いケヴィンに任されました。植物の状態を観察し、水をやり、手の届く範囲で剪定する。ケヴィンは約束を守る子でしたので、自分に許された道具以外は一切使いません。その日も自分専用の小さな剪定鋏で赤い薔薇の生垣を手入れしていました。
――そう、屋敷に旅芸人の一座が招待された、あの日ですよ。
ケヴィンはきっと薔薇の生垣の手入れをしている時に、その影で一座の旅役者と密会しているあなたを目撃したのでしょう。慌てたあなたはケヴィンから鋏を奪い取り、あの子の柔らかい肌にそれを突き刺した。
事故に見せかけるために脚立と刈込鋏を持ち出して、高い場所の剪定中に落下した状況を作り上げましたね?
あなたは二度も、あの子の胸に鋏を突き立てたのです。
あの子は、さぞ怖かったことでしょう。痛かったことでしょう。
なぜあの子がこんな目に遭わなくてはいけなかったのか。私はその理由が、今でも分からないのです。
お嬢様。どうか私に、その理由を教えては頂けないでしょうか?
己の欲望を満たすため|一時《いっとき》の快楽に溺れた、浅ましいお嬢様。私の可愛いあの子が死なねばならない理由は何だったのでしょうか?
あぁ、けれども、きっとその答えを私がお嬢様から聞くことはないのでしょうね。
最後にひとつ、謝罪させて下さいませ。
イルブークの町にウィリアム様はおりません。僭越ながら、庭園での密会を詳細にお伝えして参りました。ひどく憤慨されており、事件については私に慰めのお言葉を下さるほどでした。ウィリアム様はとてもお優しいお方ですね。お嬢様がお慕いするのも分かる気がします。
昼を過ぎる頃にはイルブークに到着するでしょう。
世間知らずのお嬢様。新しい第一歩に、私から花を贈らせて下さいませ。
お嬢様の髪に飾った、赤い薔薇。あの庭園でケヴィンが最期に手入れしていた、美しい薔薇です。
――お嬢様。どうか、お幸せに』