身近にある幸せ

概要

退職記念に旅行した主人公。ふと立ち寄った場所でそうめんを注文。
店主の優しそうな雰囲気を表現しようと頑張りました。主人公は無気力な感じを表現してみました。

語り手: すー
語り手(かな):

Twitter ID: kanemoti0504
更新日: 2023/06/02 21:46

エピソード名: そうめん

小説名: そうめん
作家: 江山菰
Twitter ID: Petalodepersiko


本編

 仕事を辞めた。 次の仕事に就くあてはない。



 この島へ、私は船でやってきた。

 退職記念旅行というか、破れかぶれの一人旅だ。

 軽い船酔いを感じながら、陸へ上がる。

 向こうの波止には釣り人 と、上がっては飛び込み、を繰り返している日焼けした子どもたち が見える。



 波がたぷたぷと防舷《ぼうげん》のタイヤを叩く音を聴きながら、旅行かばんを引っ張って民宿まで歩くことにする。

  ふと、だしのいい匂いが流れてきた。匂いをたどると、港の脇に 小さな一膳飯屋に行きつく。

 さっそく、一息つこうと入ってみる。

 お昼どきはとっくに過ぎて、客は私だけだった。

 店に入ると、品のいい女性がにっこりと微笑んだ。ここの店主らしい。私より少し年上のようだ。厨房は暑くてたまらないだろうに、野葡萄を染めた夏きものに白いエプロンと襷《たすき》をつけている。



「いらっしゃい」



  店主が麦茶を出してくれた。

  茶を飲みながら、何を頼むか考える。宿の夕食を思えば、今重いものを食べるのは気が引ける。私は壁の古ぼけたお品書きの札を見 た。丼物や定食、うどんなどの麺ものが並んでいる。そして、一番 端っこにおあつらえ向きのひと品を見つけた。



「そうめん、お願いします」



 しばらくすると古いデザインのガラス鉢の中、氷水に泳がせたそうめんが運ばれてきた。きゅうりの薄切りとプチトマトもぷかぷか 浮いている。だしは揃いのガラスの小鉢に張られ、薬味皿にはねぎ と生姜、ミョウガとしそがついていた。ごくごく当たり前のそうめんだ。

 さっそく口に運ぶ。

 いいそうめんを使っているようで口当たりも味も良い。

 茹で加減も、出汁の味も上々。

 狭い店内で、独りきりでそうめんを啜る音はよく響いた。カウンターの向こうにいる店主が私に声をかける。



「おいしいでしょ。おそうめんには自信があるの」

「おいしいです」

「よかった。おそうめんを頼む人って少ないのよ。地元の人はみんな自分の家で食べるから」

「たしかに、外食でそうめんって食べたことありませんでした」

 

 店主はにこ、とほほ笑んだ。寂し気な華がふっとこぼれた。



「私、おそうめん好きなの。冷たいのも温かいにゅうめんも。売れないけど、こうやってたまに頼んでくださる人がいると、うれしいわ」



――ああ、そうだ……。



 そういう気持ちを、私はすっかり忘れていた。

 好きで、楽しんでやれていた仕事が、いつの間にか、数字がすべてになっていた。

 数字を追って、人を人と思えなくなっていた……私も、私のまわりの人々も。



 遠くから汽笛が聞こえた。 白い入道雲と真っ青な空と海。

 かもめが鳴いている。

 来てよかった、という思いがじわじわと身に沁みてくる。 オフィスの閉鎖空間が遠い世界のことのように思えてきた。



――何やってたんだろう。

――私は、本当に、何をやってたんだろう。



 そうめんを啜りながら、私は涙が出そうになった。




   *了*
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