人魚の絵
概要
不老不死の力を得るという、人魚の肉に関する記述は幾らでもあるのに、実際に不老不死を得た人間の話は一切出てこない。
確かにその通り。実際に不老不死の力を得ることなどできるのでしょうか?得た人はどんな人生を送るのでしょうか?
不老不死を願った人々がこぞって求めた、人魚の絵の力とは…?
確かにその通り。実際に不老不死の力を得ることなどできるのでしょうか?得た人はどんな人生を送るのでしょうか?
不老不死を願った人々がこぞって求めた、人魚の絵の力とは…?
語り手: 青木双風
語り手(かな):
Twitter ID: aoki_sofu
更新日: 2023/06/02 21:46
エピソード名: 人魚の絵
小説名: 人魚の絵
作家: 紫月音湖(旧HN/月音)
Twitter ID: saigonotukikara
本編
「これが、呪われた人魚の絵……ですか」
目の前に一枚の古びた紙がある。茶色く色褪せた紙は皺だらけで、保存状態はお世辞にもいいとは言えない。それでもそこに描かれている人魚は、長い年月を感じさせないほど鮮やかな色彩を保っていた。
波打つ長い金色の髪。ふっくらと丸みを帯びた乳房は、見ただけでその感触が分かるほどに生々しい。色情を呼び起こす赤い唇はぽってりと厚みがあり、かすかに開いた隙間から舌が見えるのではないかと見入っていた自分にはっとする。
「美しいでしょう? 絵を少し傾けてご覧なさい」
絵の持ち主である古美術商の男が、片眼鏡(モノクル)の向こうに光る目を細めて上品に笑った。言われた通りに絵を傾けてみると、淡いブルーで描かれた人魚の下半身が光を反射して極彩色に変化する。
「これは……?」
「詳しくは分からないのですが、どうやら染料にすり潰した鱗を混ぜているようでしてね」
「鱗? まさか人魚の鱗とでも言うんじゃないでしょうね?」
「さぁ、どうでしょう。私に分かるのは、この絵を食べた者が死に至るということだけです」
人魚の肉を食べた者は、不老不死を得る。
そんな話がまことしやかに囁かれ、人魚を求めて海に出る者も過去には多くいたと言う。
どこそこの海域には人魚の住まう国があるだとか、南の海で捕れる人魚の方が肉質は柔らかいだとか、昔の文献には人魚にまつわる記述が幾つも載っている。それが真実かどうか知る術はないが、この人魚の絵が残っていると言うことは、この地に人魚と不老不死を結び付ける風習があったと言うことなのだろう。
「はるか昔、不老不死を求めた人間によって人魚は乱獲され、現在はもう絶滅したと言われています。それでも人魚の肉を求めて止まない人間が、苦肉の策として作り上げたのが――その人魚の絵なのですよ」
手元の絵に目を落とせば、美しい人魚が妖艶に笑った気がした。
「手に入らない肉の代わりに、人魚の絵を食べる……と?」
「おかしいでしょう? それほどまでに妄信していたのでしょうね。人魚の肉に関する記述は幾らでもあるのに、実際に不老不死を得た人間の話は一切出てこない」
確かにそうだ。
人魚の肉を食べたとしても、不老であることを実感するのは難しい。すぐに分かる方法と言えば不死の方だが、勇気ある者が試したところでそれはただの命の無駄遣いだ。
ならばおそらく人魚の肉を食べた者の多くは時間の流れに身を任せ、自身が不老不死である事を信じながらも人魚の肉を食べ続けていたのだろう。
自分は不老不死だと信じ続け、寄る年波に怯えて再び人魚の肉を口にする。
その行いはやがて人魚の乱獲につながり、そして歪んだ妄信は人魚の絵にまで及んだ。
「この絵を描いたのが誰なのかは分かっていません。ある時から爆発的に広がり、人魚の肉を求めていた人間たちはこぞってこの絵を食べました。――そうして、ひとり残らず死に絶えた」
片眼鏡(モノクル)に隠された瞳が、意味深に揺らめく。一瞬の静寂に、お互いの呼吸さえかき消されていくようだ。ごくりと生唾を飲む音が、やけに耳に残って緊張する。
暫しの沈黙の後、古美術商の男が私の手から人魚の描かれた紙を抜き取った。
見れば見るほど、その美しい姿に心奪われる人魚の絵。
かさりと揺れる振動で、艶やかに煌めく極彩色の鱗。色褪せた紙の海を、泳ぐように揺れている。
「ひとつ、面白いことをお教えしましょう」
そう言って、男が胸のポケットからルーペを取り出した。
「これで人魚をよくご覧なさい」
受け取ったルーペを覗き込んだ瞬間、驚愕と恐怖に私の体が硬直した。
波打つ長い金色の髪。
ふっくらと丸みを帯びた乳房。
滑らかな曲線を描く下半身に、びっしりと敷き詰められた極彩色の鱗。
そのどれもが、呪いの文字で描かれていたのだ。
どうやって書いたのか分からないほどの小さな文字。人間に対する恨みや殺意は呪詛の言葉として綴られ、その文字の羅列が人魚の姿を描き上げている。
あの妖艶な美女として描かれた人魚の元が、激しい怨嗟にまみれた文字の集合体だったとは。
震える喉に、言葉が詰まって息が出来ない。
「人間に殺されていった仲間を思い、最後に残った人魚が復讐として描いたのだと……そういう説がありましてね。自身の血や鱗を混ぜて、何十枚もの絵を描いたとか。そのほとんどは失われ、現存するのは今のところこの一枚だけです」
それまで紳士的だった男が、口角を上げて卑しく笑った。
「どうです? あなたにぴったりだと思いませんか?」
ぎくりと体が震えた。瞠目する私の手に再度人魚の絵を握らせて、一歩後退した男が恭しく頭を下げる。
「お買い上げ、ありがとうございます」
「……私は」
言葉の続きが出てこない。
絵を突き返すことも出来ず、ただ呆然と艶やかな人魚を見つめている。
紙を持つ手がかすかに震え、色褪せた紙の中で人魚が泳ぐ。
カサカサと鳴る紙の音に紛れて、遠く潮騒の音が聞こえたような気がした。
この人魚の絵を再び口にすれば、私は漸く死ねるのだろうか。
それとも……。
目の前に一枚の古びた紙がある。茶色く色褪せた紙は皺だらけで、保存状態はお世辞にもいいとは言えない。それでもそこに描かれている人魚は、長い年月を感じさせないほど鮮やかな色彩を保っていた。
波打つ長い金色の髪。ふっくらと丸みを帯びた乳房は、見ただけでその感触が分かるほどに生々しい。色情を呼び起こす赤い唇はぽってりと厚みがあり、かすかに開いた隙間から舌が見えるのではないかと見入っていた自分にはっとする。
「美しいでしょう? 絵を少し傾けてご覧なさい」
絵の持ち主である古美術商の男が、片眼鏡(モノクル)の向こうに光る目を細めて上品に笑った。言われた通りに絵を傾けてみると、淡いブルーで描かれた人魚の下半身が光を反射して極彩色に変化する。
「これは……?」
「詳しくは分からないのですが、どうやら染料にすり潰した鱗を混ぜているようでしてね」
「鱗? まさか人魚の鱗とでも言うんじゃないでしょうね?」
「さぁ、どうでしょう。私に分かるのは、この絵を食べた者が死に至るということだけです」
人魚の肉を食べた者は、不老不死を得る。
そんな話がまことしやかに囁かれ、人魚を求めて海に出る者も過去には多くいたと言う。
どこそこの海域には人魚の住まう国があるだとか、南の海で捕れる人魚の方が肉質は柔らかいだとか、昔の文献には人魚にまつわる記述が幾つも載っている。それが真実かどうか知る術はないが、この人魚の絵が残っていると言うことは、この地に人魚と不老不死を結び付ける風習があったと言うことなのだろう。
「はるか昔、不老不死を求めた人間によって人魚は乱獲され、現在はもう絶滅したと言われています。それでも人魚の肉を求めて止まない人間が、苦肉の策として作り上げたのが――その人魚の絵なのですよ」
手元の絵に目を落とせば、美しい人魚が妖艶に笑った気がした。
「手に入らない肉の代わりに、人魚の絵を食べる……と?」
「おかしいでしょう? それほどまでに妄信していたのでしょうね。人魚の肉に関する記述は幾らでもあるのに、実際に不老不死を得た人間の話は一切出てこない」
確かにそうだ。
人魚の肉を食べたとしても、不老であることを実感するのは難しい。すぐに分かる方法と言えば不死の方だが、勇気ある者が試したところでそれはただの命の無駄遣いだ。
ならばおそらく人魚の肉を食べた者の多くは時間の流れに身を任せ、自身が不老不死である事を信じながらも人魚の肉を食べ続けていたのだろう。
自分は不老不死だと信じ続け、寄る年波に怯えて再び人魚の肉を口にする。
その行いはやがて人魚の乱獲につながり、そして歪んだ妄信は人魚の絵にまで及んだ。
「この絵を描いたのが誰なのかは分かっていません。ある時から爆発的に広がり、人魚の肉を求めていた人間たちはこぞってこの絵を食べました。――そうして、ひとり残らず死に絶えた」
片眼鏡(モノクル)に隠された瞳が、意味深に揺らめく。一瞬の静寂に、お互いの呼吸さえかき消されていくようだ。ごくりと生唾を飲む音が、やけに耳に残って緊張する。
暫しの沈黙の後、古美術商の男が私の手から人魚の描かれた紙を抜き取った。
見れば見るほど、その美しい姿に心奪われる人魚の絵。
かさりと揺れる振動で、艶やかに煌めく極彩色の鱗。色褪せた紙の海を、泳ぐように揺れている。
「ひとつ、面白いことをお教えしましょう」
そう言って、男が胸のポケットからルーペを取り出した。
「これで人魚をよくご覧なさい」
受け取ったルーペを覗き込んだ瞬間、驚愕と恐怖に私の体が硬直した。
波打つ長い金色の髪。
ふっくらと丸みを帯びた乳房。
滑らかな曲線を描く下半身に、びっしりと敷き詰められた極彩色の鱗。
そのどれもが、呪いの文字で描かれていたのだ。
どうやって書いたのか分からないほどの小さな文字。人間に対する恨みや殺意は呪詛の言葉として綴られ、その文字の羅列が人魚の姿を描き上げている。
あの妖艶な美女として描かれた人魚の元が、激しい怨嗟にまみれた文字の集合体だったとは。
震える喉に、言葉が詰まって息が出来ない。
「人間に殺されていった仲間を思い、最後に残った人魚が復讐として描いたのだと……そういう説がありましてね。自身の血や鱗を混ぜて、何十枚もの絵を描いたとか。そのほとんどは失われ、現存するのは今のところこの一枚だけです」
それまで紳士的だった男が、口角を上げて卑しく笑った。
「どうです? あなたにぴったりだと思いませんか?」
ぎくりと体が震えた。瞠目する私の手に再度人魚の絵を握らせて、一歩後退した男が恭しく頭を下げる。
「お買い上げ、ありがとうございます」
「……私は」
言葉の続きが出てこない。
絵を突き返すことも出来ず、ただ呆然と艶やかな人魚を見つめている。
紙を持つ手がかすかに震え、色褪せた紙の中で人魚が泳ぐ。
カサカサと鳴る紙の音に紛れて、遠く潮騒の音が聞こえたような気がした。
この人魚の絵を再び口にすれば、私は漸く死ねるのだろうか。
それとも……。