障りの匣
概要
主人公が子供の頃、忽然と現れた不思議な匣。何気なく触った主人公から、祖父はあわてて箱を取り上げ、とつぜん主人公の爪を切り始めます。その後も事あるごとに主人公の周辺に現れる奇妙な匣…物語が進むにつれ、匣の理不尽な恐ろしさが明らかになっていきます。そして祖父があわてて爪を切った理由も…
語り手: 青木双風
語り手(かな):
Twitter ID: aoki_sofu
更新日: 2023/06/02 21:46
エピソード名: 障りの匣
小説名: 障りの匣
作家: 柴
Twitter ID: shibaSpoon
本編
はじめてあの匣を見たのは、私がまだ小学校低学年の時でした。
当時まだ存命だった、父方の祖父の家に遊びに行ってたんです。
父も母も、もちろん祖父母も家にいたはずなんですけど、その匣を見つけたとき私は一人でした。
両親たちは別の部屋で話し込んでいたのでしょうか。私は我ながら手のかからない子どもだったので、特に不思議なことでもありませんでした。
ところで、ゲームブックってご存じですか?
物語を読み進んでくうちに選択肢が出てきて、どの選択肢を選ぶかによって別々のページを指示されるんです。指示されたとおりのページに進むと、同じ本を読んでいるはずなのに全く違うストーリーや結末になったりするんですよ。
今でいう、ゲームのマルチエンディングってやつですね。
当時の僕はそのゲームブックってやつが大好きで、その日も自宅から持ってきたお気に入りの一冊を繰り返し熱心に読んでいたんです。
だからあの匣がいつから部屋の机の上にあったかはわかりません。
気付いた時にはありました。もしかしたら最初からあったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
1辺あたり5センチ程の木製の匣でした。ああいうのも寄木細工って言うのでしょうか。いくつもの木の欠片を組み合わせて作られているようでした。
非常に古い材質で、いくら祖父母の築何十年の家とはいえ、それでもその匣の古臭さは非常に浮いていました。
手のかからない子どもだったと先ほど言いましたが、それでも人並みの好奇心は持ち合わせておりました。一度気づいたらこれ見よがしに置いてあった匣でしたから、なんの気なしに手に取ってみたのです。
この時、ゲームブックみたいに「匣に触る」、「触らない」の選択肢が突然目の前に現れてくれてたら、私は果たして「触らない」を選べたのでしょうか。
前提から有り得ないとわかりつつも、今でもたまにそう考えてしまうんです。
それはとても軽い匣でした。
ろくにやすりをかけていないのか、触れると木のざらざらとした感触が指に残りました。手に取った拍子に、中に入っていた何かが「ちゃりちゃり」と小さな音を立てました。
開けて中を覗いてやろうと思ったのですが、蓋にあたる部分がわかりませんでした。ひっくり返したり無理やり両手で引っ張ったり、縁の部分を引っかいたりしてみましたが、そもそも蓋にあたる部分が存在しないようでした。
一旦開けることはあきらめて、もう一度耳元で匣を振ってみると、やはり「ちゃりちゃり」と音がしました。小さくて硬い何かが、それなりの数入っているみたいでした。
よけいに興味を惹かれて、なんとか開けられないかと手の中で匣を転がしていたところ、部屋に祖父が入ってきました。
祖父は、匣を持っている私を目にした途端に血相を変え、勢いよく私の手から匣を取り上げました。
私はそのあまりの勢いに驚いて泣きだしてしまいました。泣き声を聞いて集まってきた両親や祖母のことなど意に介さず、祖父は泣きじゃくる私の小さな肩を強く押さえて、
「あの匣に触ったのは初めてか」
と何度も尋ねてきました。私は混乱と恐怖で言葉を発するのも難しい状態でしたが、どうにか初めてであると伝えた気がします。
「初めてか。初めてならいい。だが、次また同じような匣を見かけても、絶対に触るんじゃない。絶対にだ」
祖父はそう言うと立ち上がり、私たちを置いて部屋を出て行ったと思ったら、手に何かを持ってすぐに戻ってきました。
それは爪切りでした。
祖父は私の前にどかっと腰を下ろすと、有無を言わさぬ調子で私の手を取り、別に伸びてもいない私の両の手の爪を切り始めました。
その様子があまりにも鬼気迫っていて、せっかく涙が引き始めていた私はもう一度泣き出してしまいました。
私の泣き声とバチン、バチンと爪切りの硬い歯の音だけがしばらく響いていた気がします。
周囲で祖母や両親が何か言っていたのでしょうが、不思議なことにまったく記憶にないのです。
そう、このあたりからの記憶は、とてもおぼろげです。
私は、気付いたら両親と一緒に自宅に帰っていました。
あとで母親にあの日のことを尋ねたら、私の両手の爪をきっちり切り終えた祖父は、両親に向かって「今日はもう帰れ」と言ったきり書斎に閉じ籠ってしまったのだそうです。
あの時、匣は結局どうなったのでしょうか。祖父が書斎へ持ち帰ったのか。でも、父親や母親に聞いても、誰もそこに匣があったという記憶すらありませんでした。
その後程なくして祖父は亡くなりました。
交通事故でした。見晴らしのいい道にも関わらず、祖父は大型トラックにはねられたのです。
私は葬式には行きませんでした。母方の親戚の家に預けられてたんだと思います。後になって聞きましたが、祖父からの言いつけだったんだそうです。
―あの子に恨みはない。ないが、とにかく、何があろうと今後あの子をこの家に近づけるな。
ですって。又聞きですけど。
その言葉も相まって、祖父の記憶は恐ろしい印象のものしか残ってません。今でもよく祖父の夢を見るんですよ。私は当時の幼い時分に戻っていて、爪を切られているんです。
バチン、バチンってね。
匣の話には、まだ続きがあるんです。
なんとまた私の前にあらわれたんですよ。
大学を浪人して、予備校に通っていた時のことです。授業も終わって家に帰ろうと荷物を整理してたら、なんと自分のリュックの中に入っていたんです。
訳が分かりませんよね。授業前に筆記用具を取り出したときには、たしかにそんなもの入ってなかったんです。心当たりのない触り心地の物が入っているなと取り出してみたら、それが例の匣でした。
記憶も薄れていたというのに、一目であのときと同じ匣だってわかりました。同時に祖父の言葉もありありと脳裏によみがえりました。
でも私物のリュックの中にいつの間にか入っているなんて、触るななんて方が無理ですよね。卑怯だと思います。
私はみっともなく悲鳴をあげて、匣を放り投げました。それなりの重さのある物体が床に落ちる、硬質な音が響きました。
そう、匣は記憶の中よりも少し重かった気がするんです。大きさも一回りくらい大きくなっていたような気がします。
私は半分パニックのような状態で教室を飛び出しました。
床に落ちた匣がその後どうなったのかは知りません。二度とそこの予備校には行きませんでしたから。
予備校へ行くことへの恐怖ももちろんあったんですけど、実はその数日後に、当時付き合ってた彼女に刺されたという理由が大きいんですよね。その予備校で知り合った彼女でしたから。
思い込みの激しい人だったみたいで、前々から私の浮気を疑っていたみたいです。予備校に顔を出さなくなった私のことを、浮気しているものだと早合点したようでした。
私も私で、最低限の連絡は取っていたものの、予備校になぜ来ないのかという度重なる質問に答えかねて、だんだんと返事すること自体がおっくうになっていたんです。
そのころ私は実家暮らしの手前、予備校に行くふりをしてパチンコや漫画喫茶などで時間をつぶしては帰るという日々を過ごしていたのですが、ある日帰ると家の前に彼女が立っていました。
まずは驚きでした。先ほども言ったように僕は実家暮らしで、彼女を自宅に招いたことはありません。なぜ家の場所を知っているんだと疑問に思いました。
次に感じたのは恐怖。目が合った彼女の顔は今まで見たこともないような思いつめた表情をしており、目線を下げると震える手で包丁を持っているのが目に入りました。
彼女は、私の名前を叫んだのだと思います。ほとんど言葉になっていませんでしたが。
気づけば私は、馬乗りになった彼女が何度も何度も振りおろしてくる包丁を、手のひらで必死に受け止めていました。
騒ぎを聞きつけた母親が家から飛び出してくるまでにさほど時間はかかりませんでしたが、何回も刃先を受け止めた利き手は、血で真っ赤に染まっていました。
結論から言うと、指が2本ダメになりました。
人差し指は神経が切れてしまいろくに動かなくなり、中指は手術空しく根元から切り落とすことになりました。
警察に取り押さえられた彼女がそのあとどうなったかはよく知りません。精神病棟に入れられたとかなんとか。彼女の両親に損害賠償を請求したりはしましたが、その際にも再び会うことはありませんでした。私もリハビリなどで余裕もなかったですし、会わなくて済むならそれに越したことはないと思っていましたから。
全部が全部、あの匣のせいなのだと私は思い至りました。
あの匣に触ってしまった右掌が、使い物にならなくなってしまった。
祖父も、幼少の私から匣を取り上げるために触れてしまった。だから、交通事故に遭ってしまったのだ。
あのとき祖父が私の爪を必死で切っていたのは、「匣を見たのは始めてか」としつこく尋ねたのは、初回は爪だけで済むからなのだ、と直感的に理解しました。
それからはずっと、匣に怯える人生ですよ。
もう一度触ってしまったら、次はどうなるかわかりませんからね。
でも、行く先々でね、あの匣を見かけるんです。本当は今までも常にそばにあって、ずっと気づいてなかっただけだったのかもしれません。
電車で座ってたら真上の網棚に置いてあったり、ふと目をやったゴミ箱の中に入っていたり。大きさも、記憶の中の姿と比べたら明らかに大きくなっているんですよ。
でもね、人間って慣れるものなんです。はじめのうちは毎度みっともなく悲鳴をあげてましたけど、予想していた通り、直接触らなきゃどうということはないんです。
引っ越しの時に段ボールに紛れてあの匣が並んでいたときなんか、怖いを通り越して笑ってしまいましたよ。そのまま放置して出ていきましたが。
予備校の時のような不意打ちも、幸いにもあれ以降はないですしね。
祖父もそうだったんでしょうね。
長い間ずっと、匣に追われ、恐れ、逃げ、うまく距離を取りながら生きていたのでしょう。あの日、孫の私が触ってしまうまでは。
祖父は何回目だったんでしょうか。バチン、バチンと鬼気迫る表情で幼い私の爪を切る祖父。恐ろしかったですよ。本来だったら添えて支えてくれてるはずの、もう片方の腕がないんですから。
危なっかしいったら。
えぇ。空襲で隻腕になったって話です。
実は、今日も祖父が夢に出たばかりなんです。
それでね、祖父が夢枕に立った次の日は、決まって「そいつ」もあらわれるんですよ。
ここまで話せば、さすがに伝わってくれますかね。
久しく見ていなかった小ぶりなサイズであらわれたから、ひょっとして、なんて思っていたんですよ。
ねぇ。ゲームブックみたいに、「触らない」の選択肢なんか出てきてくれなかったでしょう。
――爪切り、お貸ししましょうか?
当時まだ存命だった、父方の祖父の家に遊びに行ってたんです。
父も母も、もちろん祖父母も家にいたはずなんですけど、その匣を見つけたとき私は一人でした。
両親たちは別の部屋で話し込んでいたのでしょうか。私は我ながら手のかからない子どもだったので、特に不思議なことでもありませんでした。
ところで、ゲームブックってご存じですか?
物語を読み進んでくうちに選択肢が出てきて、どの選択肢を選ぶかによって別々のページを指示されるんです。指示されたとおりのページに進むと、同じ本を読んでいるはずなのに全く違うストーリーや結末になったりするんですよ。
今でいう、ゲームのマルチエンディングってやつですね。
当時の僕はそのゲームブックってやつが大好きで、その日も自宅から持ってきたお気に入りの一冊を繰り返し熱心に読んでいたんです。
だからあの匣がいつから部屋の机の上にあったかはわかりません。
気付いた時にはありました。もしかしたら最初からあったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
1辺あたり5センチ程の木製の匣でした。ああいうのも寄木細工って言うのでしょうか。いくつもの木の欠片を組み合わせて作られているようでした。
非常に古い材質で、いくら祖父母の築何十年の家とはいえ、それでもその匣の古臭さは非常に浮いていました。
手のかからない子どもだったと先ほど言いましたが、それでも人並みの好奇心は持ち合わせておりました。一度気づいたらこれ見よがしに置いてあった匣でしたから、なんの気なしに手に取ってみたのです。
この時、ゲームブックみたいに「匣に触る」、「触らない」の選択肢が突然目の前に現れてくれてたら、私は果たして「触らない」を選べたのでしょうか。
前提から有り得ないとわかりつつも、今でもたまにそう考えてしまうんです。
それはとても軽い匣でした。
ろくにやすりをかけていないのか、触れると木のざらざらとした感触が指に残りました。手に取った拍子に、中に入っていた何かが「ちゃりちゃり」と小さな音を立てました。
開けて中を覗いてやろうと思ったのですが、蓋にあたる部分がわかりませんでした。ひっくり返したり無理やり両手で引っ張ったり、縁の部分を引っかいたりしてみましたが、そもそも蓋にあたる部分が存在しないようでした。
一旦開けることはあきらめて、もう一度耳元で匣を振ってみると、やはり「ちゃりちゃり」と音がしました。小さくて硬い何かが、それなりの数入っているみたいでした。
よけいに興味を惹かれて、なんとか開けられないかと手の中で匣を転がしていたところ、部屋に祖父が入ってきました。
祖父は、匣を持っている私を目にした途端に血相を変え、勢いよく私の手から匣を取り上げました。
私はそのあまりの勢いに驚いて泣きだしてしまいました。泣き声を聞いて集まってきた両親や祖母のことなど意に介さず、祖父は泣きじゃくる私の小さな肩を強く押さえて、
「あの匣に触ったのは初めてか」
と何度も尋ねてきました。私は混乱と恐怖で言葉を発するのも難しい状態でしたが、どうにか初めてであると伝えた気がします。
「初めてか。初めてならいい。だが、次また同じような匣を見かけても、絶対に触るんじゃない。絶対にだ」
祖父はそう言うと立ち上がり、私たちを置いて部屋を出て行ったと思ったら、手に何かを持ってすぐに戻ってきました。
それは爪切りでした。
祖父は私の前にどかっと腰を下ろすと、有無を言わさぬ調子で私の手を取り、別に伸びてもいない私の両の手の爪を切り始めました。
その様子があまりにも鬼気迫っていて、せっかく涙が引き始めていた私はもう一度泣き出してしまいました。
私の泣き声とバチン、バチンと爪切りの硬い歯の音だけがしばらく響いていた気がします。
周囲で祖母や両親が何か言っていたのでしょうが、不思議なことにまったく記憶にないのです。
そう、このあたりからの記憶は、とてもおぼろげです。
私は、気付いたら両親と一緒に自宅に帰っていました。
あとで母親にあの日のことを尋ねたら、私の両手の爪をきっちり切り終えた祖父は、両親に向かって「今日はもう帰れ」と言ったきり書斎に閉じ籠ってしまったのだそうです。
あの時、匣は結局どうなったのでしょうか。祖父が書斎へ持ち帰ったのか。でも、父親や母親に聞いても、誰もそこに匣があったという記憶すらありませんでした。
その後程なくして祖父は亡くなりました。
交通事故でした。見晴らしのいい道にも関わらず、祖父は大型トラックにはねられたのです。
私は葬式には行きませんでした。母方の親戚の家に預けられてたんだと思います。後になって聞きましたが、祖父からの言いつけだったんだそうです。
―あの子に恨みはない。ないが、とにかく、何があろうと今後あの子をこの家に近づけるな。
ですって。又聞きですけど。
その言葉も相まって、祖父の記憶は恐ろしい印象のものしか残ってません。今でもよく祖父の夢を見るんですよ。私は当時の幼い時分に戻っていて、爪を切られているんです。
バチン、バチンってね。
匣の話には、まだ続きがあるんです。
なんとまた私の前にあらわれたんですよ。
大学を浪人して、予備校に通っていた時のことです。授業も終わって家に帰ろうと荷物を整理してたら、なんと自分のリュックの中に入っていたんです。
訳が分かりませんよね。授業前に筆記用具を取り出したときには、たしかにそんなもの入ってなかったんです。心当たりのない触り心地の物が入っているなと取り出してみたら、それが例の匣でした。
記憶も薄れていたというのに、一目であのときと同じ匣だってわかりました。同時に祖父の言葉もありありと脳裏によみがえりました。
でも私物のリュックの中にいつの間にか入っているなんて、触るななんて方が無理ですよね。卑怯だと思います。
私はみっともなく悲鳴をあげて、匣を放り投げました。それなりの重さのある物体が床に落ちる、硬質な音が響きました。
そう、匣は記憶の中よりも少し重かった気がするんです。大きさも一回りくらい大きくなっていたような気がします。
私は半分パニックのような状態で教室を飛び出しました。
床に落ちた匣がその後どうなったのかは知りません。二度とそこの予備校には行きませんでしたから。
予備校へ行くことへの恐怖ももちろんあったんですけど、実はその数日後に、当時付き合ってた彼女に刺されたという理由が大きいんですよね。その予備校で知り合った彼女でしたから。
思い込みの激しい人だったみたいで、前々から私の浮気を疑っていたみたいです。予備校に顔を出さなくなった私のことを、浮気しているものだと早合点したようでした。
私も私で、最低限の連絡は取っていたものの、予備校になぜ来ないのかという度重なる質問に答えかねて、だんだんと返事すること自体がおっくうになっていたんです。
そのころ私は実家暮らしの手前、予備校に行くふりをしてパチンコや漫画喫茶などで時間をつぶしては帰るという日々を過ごしていたのですが、ある日帰ると家の前に彼女が立っていました。
まずは驚きでした。先ほども言ったように僕は実家暮らしで、彼女を自宅に招いたことはありません。なぜ家の場所を知っているんだと疑問に思いました。
次に感じたのは恐怖。目が合った彼女の顔は今まで見たこともないような思いつめた表情をしており、目線を下げると震える手で包丁を持っているのが目に入りました。
彼女は、私の名前を叫んだのだと思います。ほとんど言葉になっていませんでしたが。
気づけば私は、馬乗りになった彼女が何度も何度も振りおろしてくる包丁を、手のひらで必死に受け止めていました。
騒ぎを聞きつけた母親が家から飛び出してくるまでにさほど時間はかかりませんでしたが、何回も刃先を受け止めた利き手は、血で真っ赤に染まっていました。
結論から言うと、指が2本ダメになりました。
人差し指は神経が切れてしまいろくに動かなくなり、中指は手術空しく根元から切り落とすことになりました。
警察に取り押さえられた彼女がそのあとどうなったかはよく知りません。精神病棟に入れられたとかなんとか。彼女の両親に損害賠償を請求したりはしましたが、その際にも再び会うことはありませんでした。私もリハビリなどで余裕もなかったですし、会わなくて済むならそれに越したことはないと思っていましたから。
全部が全部、あの匣のせいなのだと私は思い至りました。
あの匣に触ってしまった右掌が、使い物にならなくなってしまった。
祖父も、幼少の私から匣を取り上げるために触れてしまった。だから、交通事故に遭ってしまったのだ。
あのとき祖父が私の爪を必死で切っていたのは、「匣を見たのは始めてか」としつこく尋ねたのは、初回は爪だけで済むからなのだ、と直感的に理解しました。
それからはずっと、匣に怯える人生ですよ。
もう一度触ってしまったら、次はどうなるかわかりませんからね。
でも、行く先々でね、あの匣を見かけるんです。本当は今までも常にそばにあって、ずっと気づいてなかっただけだったのかもしれません。
電車で座ってたら真上の網棚に置いてあったり、ふと目をやったゴミ箱の中に入っていたり。大きさも、記憶の中の姿と比べたら明らかに大きくなっているんですよ。
でもね、人間って慣れるものなんです。はじめのうちは毎度みっともなく悲鳴をあげてましたけど、予想していた通り、直接触らなきゃどうということはないんです。
引っ越しの時に段ボールに紛れてあの匣が並んでいたときなんか、怖いを通り越して笑ってしまいましたよ。そのまま放置して出ていきましたが。
予備校の時のような不意打ちも、幸いにもあれ以降はないですしね。
祖父もそうだったんでしょうね。
長い間ずっと、匣に追われ、恐れ、逃げ、うまく距離を取りながら生きていたのでしょう。あの日、孫の私が触ってしまうまでは。
祖父は何回目だったんでしょうか。バチン、バチンと鬼気迫る表情で幼い私の爪を切る祖父。恐ろしかったですよ。本来だったら添えて支えてくれてるはずの、もう片方の腕がないんですから。
危なっかしいったら。
えぇ。空襲で隻腕になったって話です。
実は、今日も祖父が夢に出たばかりなんです。
それでね、祖父が夢枕に立った次の日は、決まって「そいつ」もあらわれるんですよ。
ここまで話せば、さすがに伝わってくれますかね。
久しく見ていなかった小ぶりなサイズであらわれたから、ひょっとして、なんて思っていたんですよ。
ねぇ。ゲームブックみたいに、「触らない」の選択肢なんか出てきてくれなかったでしょう。
――爪切り、お貸ししましょうか?