【聴くっショ!で読むっしょ!】彼岸花【@hear】

概要

彼女のこちら側にもっとたくさんきれいな花があったなら
向こう岸に行くこともなかったのかもしれません。。

語り手: ぬっぴぃ
語り手(かな): ぬっぴぃ

Twitter ID: hisano_nuppy
更新日: 2023/06/02 21:46

エピソード名: 彼岸花

小説名: 彼岸花
作家: Kyoshi Tokitsu
Twitter ID: kyoshi_tokitsu


本編

 夏の終わり、加菜子は祖母の家にいた。とはいえ祖母は数年前に他界し、今は空き家になっていたのだが、訳あって大学を休学している加菜子の休養によかろうと母がひと月の間あてがってくれていたのだ。必要以上に他人に気を使う加菜子の性格ゆえ、その実家から一駅先にある小さな一軒家に彼女は一人で生活していた。そしてこの静かな環境を彼女は好いていた。

 その日も加菜子は昼近くに寝床から起き上がった。タンパク質と意識が融合した重苦しい身体を、彼女は一時間以上も持て余していた。思考の端に明日、母が様子を窺いにやってくることを思い出した。その他にもひたすらに無益な様々の考えが彼女を苦しめていた。肉体は実態のない鈍色の粘菌に取りつかれ、思考を働かせまいとする逆説的な思考の抵抗も意味を成していなかった。
 やがて彼女は寝床を這い出し、歯を磨いた。昨日と同じ、一昨日と同じだった。広大な時間の中に彼女はただぽつねんと佇み、前も後ろも分からないでいた。その目に見えない果てしのない時間の檻が加菜子には恐ろしかった。「あの喫茶店で小説でも読もう」そんな考えがふとよぎったものの、今朝は何もかもがいつもに増してひどく億劫だった。仮にそうしたとて彼女にはここの所、どんな小説も詩も面白いとは思えなくなっていた。空腹はあっても、それは重くのしかかる、べったりした疲労に押しつぶされてしまった。
「何もしたくない、ということすらしたくない」
怠慢な、無駄な時間が一秒一秒と流れた。
「……そうだ。この辺で」
怠惰の自嘲に疲れた彼女の心は一つの必然にゆっくりと収束していった。



 しばらく居間で空を見つめていた加菜子は家を抜け出した。日は半ば傾き始めていた。歩くことにした。二、三匹の蝉が遠くで弱々しく鳴いていた。幸いにもこの頃には、かの逆説的な思考が有利になったようで加菜子はほとんど無心で歩くことが出来ていた。

 右へ、左へ、坂を上り、下り。見飽きた田舎の道を歩いた。時折見知った顔に出くわしたものの、得意の張り子の笑顔で巧妙に会話を演出することはしなかった。無人の神社で空を眺め、収穫を終えた田圃では赤とんぼの宙を泳ぐ様を見ていた。ふと加菜子が畦道に足を踏み入れた時。
「あっ」
 道の脇にポツリポツリと燃えるように赤い彼岸花が咲いていた。この世に似つかわしくない、亡き人が拵えた上等の飴細工のようなその花が彼女は好きだった。屈んで顔を近づけてみると、細い帯のような花弁が彼女を魅了した。
「そういえば」
加菜子は思い出した。この畦道の先には祖母の墓がある。久しく足を向けていなかったその場所へと彼女は歩き出した。黄金色の西日が畦道の彼岸花を神々しく照らしていた。

 不思議と墓への道には常にどこかしらにその天上の花が咲き、彼女の歩く道を彩っていた。加菜子は墓までの道を覚えてはいたものの、ほとんど花に導かれるようにして歩いた。この時、加菜子は両脇に点在するその深紅の帯と糸の織りなす芸術に無自覚のうちに支配されていた。彼女は歩きながらも、時折立ち止まっては花に目を落としていた。この時だけは彼女の瞳にはしっかりとその花弁を捉え、そこに置かれた露が映し出す極微の世界までもをはっきりと映し出していた。
 もはや彼女はほとんど自我というものを忘却していた。
 日は既にその姿を山の向こうに隠し、辺りには淡い紫の闇が漂っていたが、依然として彼岸花たちはその神秘の色を失っていなかった。それどころかその闇が花弁のこの世ならざらぬ雰囲気をより強烈なものにしたようだった。辺りの空気に彼岸花の持つ妖艶な色と僅かな香気が徐々に溶け込んでいった。
「あれ?」
 加菜子が自我を取り戻すと、見知らぬ畦道だった。道の脇に咲いた花、その数は明らかに増えていた。一分の隙も無く咲き乱れているそれははっきりと加菜子の進む道を縁どっていた。振り返ると、彼方に加菜子の見慣れた家々の屋根が連なっていた。懐かしく思っただけで、別段何の愛着も感じなかった。無論、彼女がそちらへと足を向けることは無かった。
 向きなおって紅く縁どられた畦道を心安らかに進んだ。左手にはごく緩やかな細い川が流れていた。畦道に沿った、不自然なほどに真っ直ぐな川だった。淡い紫の空は濃紺に様相を変えていたものの、依然として花々は空恐ろしいほどに紅く、その妖艶さを空気中に発散させていた。

 しばらく歩くと、小さな流れだった左手の川が大きな流れに合流していた。本流は加菜子の目の前を右から左へと一切の音を立てることなく不気味に流れていた。空にはもう星が出ていた。耳が痛いほどの静寂だった。眼前に横たわっている幅広い川の向こう岸は深紅に燃えていた。遠くてよく見えなかったが、加菜子にはそれが岸を埋め尽くさんばかりの彼岸花の群れだということが直覚された。それに魅かれるように彼女は靴を脱ぎ、川へと素足を踏み入れた。温度のない、不思議な水で足の裏には細やかな砂の感覚が伝わった。どこまで歩いても水が足首よりも上に来ることは無かった。
 涼しい風が緩やかに吹き抜けた。途端、彼女は振り返った。これまで歩んできた畦道が続いていたが、そこにかの花は一輪として見られなかった。刹那、彼女の脳裏には引き返そうかという考えがよぎったものの、そのながい道程を考えると億劫だった。前を向いて彼岸花の咲き誇る岸へと加菜子はゆっくりと歩いて行った。その口元には久しく浮かぶことの無かった微笑みがあった。



 加菜子の縊死体は翌日に発見された。第一発見者の母親が彼女の体を下ろした。居間の机の上には幾度も書いては消し、書いては消しを繰り返したのであろう、薄汚れた便箋が一枚あった。結局のところ、そこには何も書かれていなかったが平生から筆圧の強かった加菜子が最期に遺そうとした言葉を母親はなんとか読み解こうとした。しかし、おびただしい鉛筆の跡が複雑に絡まりあっており、何も読み解くことはできなかった。
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