朗読【王子と女神】
概要
雪に閉ざされた国に舞い降りた奇跡。
けれど、奇跡への感謝はやがて忘れられていき…。
春の女神にまつわる、ビターなおとぎ話。
けれど、奇跡への感謝はやがて忘れられていき…。
春の女神にまつわる、ビターなおとぎ話。
語り手: 白河 那由多
語り手(かな): しらかわ なゆた
Twitter ID: nayuta9333
更新日: 2023/06/12 15:09
エピソード名: 王子と女神
小説名: 王子と女神
作家: いとうかよこ
Twitter ID: kotobaya
本編
「お母さん、寒いよ」
「ほら、こっちへおいで」
そう言って母親は、小さな女の子を自分の腕の中にギュッと抱きしめます。わずかな温もりを分け与えるかのように。
「あたたかい飲み物でもあればいいのだけれど…」
「大丈夫だよ。お母さんがギュってしてくれたから」
笑顔で自分を見上げる娘に、母親は悲しげな瞳を向けます。
残り少ない薪をくべた暖炉の火は弱々しく、母娘ふたりを温めるには心もとないものでした。
けれど、どうすることもできません。
外では、雪が降り続いています。
「ねぇ、お母さん。雪はいつになったらやむのかな」
「雪はね、やむことはないのよ」
「どうして?」
「それはね…」
娘の問いに答える代わりに、母親はとある物語を語り出します。この国に伝わる春の女神のおとぎ話を。
とある世界のとある大陸に、とても小さな国がありました。
その国は、朝も昼も夜も太陽が昇らず、春も夏も秋も冬も、止むことのない雪が降り続く場所でした。
どこまで行っても白一色の大地は、それはそれは美しいものでしたが、そこに暮らす人々にとってはよろこばしいものではありません。
なぜなら、ここには花が咲きません。作物も育ちません。
厳しい環境の中で、誰もが息を潜めるようにひっそりと生きています。
裕福な暮らしは望むべくもありませんが、ひとつだけ自慢できることがあります。
それは、争いが起きないこと。
互いに助け合わなければ生きていけないこの国では、争う必要も、余裕もなかったのです。
あいも変わらず雪が降り積もる大地を、ひとりの少年が歩いています。
彼はこの国の王子。つい3日ほど前に6歳を迎えたばかりの小さな紳士です。
見渡す限り白い景色の中に、王子は何かを見つけて立ち止まります。
「ねぇ、キミは誰?」
そう問いかけた王子の前には、彼よりも少し幼い少女がいました。
少女は不思議そうな顔をして王子をじっと見つめ、首をコテンと傾げます。
「僕はヴァイス。キミは?」
「エルンテ」
少女がつぶやくように告げます。
すると、ふたりの足元に小さな花が一輪、咲きました。
「え? 何これ?」
ヴァイスはビックリして叫びます。
花の咲かない国に生まれたヴァイスは、足元のそれが何かわからなかったのです。
そんなヴァイスにエルンテがまた、つぶやくように告げます。
「デイジー」
「でいじー?」
エルンテのことばを繰り返すヴァイスに、エルンテはコクンと頷きました。
「デイジー、か。初めて見たよ」
そう言ってデイジーにそっと触れたヴァイスは一瞬、驚いた顔をして、すぐに笑顔になりました。
「真っ白なのに雪とはぜんぜん違うんだね。冷たくないし、すごくやわらかい」
ヴァイスはとてもうれしそうです。その顔を見て、エルンテもすごくうれしくなってニコニコと笑いました。
すると、どうでしょう。ふたりの足元に、デイジーがひとつ、ふたつ、みっつと咲きます。
「うわー、スゴイ!」
歓声をあげてはしゃぐヴァイスに、エルンテは小さく問いかけます。
「デイジー、気に入った?」
「もちろんだよ!」
とびきりの笑顔で答えるヴァイスを、エルンテは大好きになりました。
そして、ヴァイスに負けないくらいのとっておきの笑顔を見せます。
すると今度は、ふたりの足元の深い深い雪がすぅーっと消え去り、緑がひょっこり顔を出しました。
「え?」
びっくりしてヴァシスは目をまん丸くしています。
その顔がおかしかったのか、エルンテは声を出して笑い出しました。
「ねぇ、エルンテは魔法使いなの?」
好奇心で瞳をキラキラさせるヴァイスに、エルンテはニコニコと笑います。
エルンテが笑うたび、雪はどんどん消えていき、その代わりに緑が広がっていきました。
ヴァイスがエルンテと出会ったその日から、白い雪に閉ざされていた国は、みるみる変わっていきました。
いつも薄曇りだった鈍色の空は鮮やかな青色に変わり、まぶしい太陽がのぞいています。
大地を覆っていた雪はすっかり消え去り、緑の木々が茂り、色とりどりの花が咲き誇ります。
あたたかな風が吹き、鳥たちが楽しそうに歌います。
そして、ひっそりと生きていた人々は、分厚い上着を脱ぎ捨て外へ出ます。
暗く沈んでいた表情も笑顔に変わっていきました。
この変化をもたらしたのがエルンテなのだと、誰もが気づいています。
だから、ヴァイスの父である王様も、その周囲も、いえ、この国に暮らすすべての人間が、エルンテを丁重に扱いました。
お城で何不自由なく暮らすエルンテはいつも笑顔です。
けれどそれは、贅沢な暮らし故ではなく、大好きなヴァイスのそばにいられることがうれしかったからでした。
「エルンテは、どこから来たの?」
ある日、ヴァイスがそう訊ねました。
ヴァイスはずっと不思議に思っていたのです。エルンテがどこから来たのか、どうしてこの国に来たのか。
エルンテは答えます。
「とても遠いところ」と。
「そんな遠いところから、どうしてここへやって来たの?」
エルンテは少し考えて、それから小さく答えました。
「ここには、春がないから」
「春?」
エルンテはコクリと頷きます。
「ねぇ、春ってなに?」
きょとんとするヴァイスに、エルンテは話します。
春はあたたかくて、穏やかな季節だと。大地には緑が芽吹き、花がほころび、眠っていた動物たちが目を覚まし、心がウキウキと躍りだす季節なのだと。
「そうか、春は今のこの国のことなんだね。エルンテは魔法使いじゃなくて、春の女神様だったんだ」
ヴァイスはとてもうれしそうです。
こんなふうにヴァイスを笑顔にできることが、エルンテには何よりうれしいことでした。
それから、ヴァイスとエルンテはいつも一緒でした。
国について勉強するときも、馬に乗って湖へピクニックに行くときも、いたずらをして叱られるときも。
何をするのも、どこへ行くのも一緒でしたが、ひとつだけ、一緒にはできないことがありました。
それは、成長すること。
出会ったときには6歳だったヴァイスは、7歳、10歳、15歳と歳を重ねるごとに背が伸び、顔つきも少年から青年へと少しずつ変わっていきました。
けれど、エルンテはヴァイスと出会った頃のまま。ずっと変わらず、幼い少女のままです。
だから、
「大人になった王子と春をもたらした少女は結婚し、いつまでも幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
とはなりませんでした。
立派な青年に成長したヴァイスは、今日、王となり、お妃様を娶ります。
王妃となるのは隣国のお姫様。エルンテではありません。
厳かな衣装を身にまとったヴァイスを見上げ、エルンテはニッコリと笑います。
「ヴァイス、うれしい?」
「あぁ。国はこんなにも豊かになったし、民は皆、笑顔だ。何もかもエルンテのおかげだよ。こんなにも幸せな国の王になれることを、キミに感謝する。本当にありがとう、エルンテ」
ヴァイは王にふさわしい静かな微笑みをエルンテに向けます。
ヴァイスの笑顔が大好きなエルンテも笑顔を返しました。
そんなふたりを、嫁いできたばかりの王妃様もやさしい眼差しで見守ります。
この国に春をもたらしたのが誰なのか、王妃様もよくわかっていました。
エルンテが笑顔でいる限り、この国の平和は守られると知っていたのです。
だから、そんな平和な日々に終わりがあるなど、誰も想像していませんでした。
始まりは、王であるヴァイスの死でした。
今や春の王国と呼ばれるようになった国を立派に治めた賢王ヴァイスも、年齢には勝てません。
エルンテとの出会いから、長い長い年月が経っていました。
「エルンテ?」
「ここに、いるよ」
もう起き上がることすらままならないヴァイスでしたが、その横には変わらず、エルンテの姿がありました。
「あぁ、エルンテ。私は、とても幸せな王だったよ。すべて、あなたのおかげだ」
絞り出すように言うヴァイスを、エルンテはただじっと見つめています。
「初めて出会った日からずっと、私と共にいてくれてありがとう。エルンテがもたらしてくれたものは、とても素晴らしくて、どれほど感謝を捧げても足りないくらいだ」
「ヴァイスがうれしいなら、それでいいよ」
エルンテのことばに、ヴァイスは小さく微笑みます。それから少しだけ、悲しげに眉を寄せました。
「私はもうすぐ、命を終えるだろう。エルンテともお別れだ」
「お別れ?」
「そうだよ」
すっかり嗄れてしまった声で、ヴァイスはやさしくエルンテに語りかけます。
「でも、エルンテ、悲しまないで。私の魂はずっとこの国にある。あなたのそばにあるのだから」
「ずっと、一緒?」
「あぁ、ずっと一緒だ」
最後の力を振り絞り、ヴァイスはエルンテに願います。この国の未来を。
「だからエルンテ、私の肉体が消えてしまっても、どうかこの国を守ってほしい。いつまでも豊かで、幸せであるように、この国に恵みを与えてほしい。私の、最期のお願いだ」
「ヴァイスがそう願うなら、叶える」
エルンテのことばを聞き、ヴァイスはホッとしたようにひとつ、息を吐きました。
「ありがとう、エルンテ。これまでずっと、ありがとう。これからも、どうか…」
安心したような静かな微笑みをたたえたまま、ヴァイスは天へと旅立っていきました。
残されたエルンテは、大好きなヴァイスとの約束通り、ヴァイスのいないこの国を守っています。
やがて十年が経ち、五十年が過ぎ、百年もの年月が流れ、さらに長い長い時を経ても、エルンテはこの国に恵みを与え続けていました。
変わることなく、大好きなヴァイスとの約束を守って。
ところが、エルンテに対する扱いはすっかり変わり果てていました。
エルンテを訪ねる者はおらず、贈り物も届きません。
感謝を捧げられることも、笑顔を向けられることもなく、王宮の片隅の小さく粗末な部屋にポツン、と置き去りにされていたのです。
すっかり平和に慣れた人々は、それを当たり前のものと受け止めていました。
ましてや、この国が春の王国と呼ばれる以前、深い深い白一色に覆われていたことなど、誰ひとり覚えていません。
そして、それらをもたらしてくれた存在のことなど、すっかり忘れてしまっていたのです。
今もなお少女の姿のままのエルンテは、ある日、王様によって城を追い出されてしまいます。
いつからこの城にいるのかもわからない、いつまでたっても姿かたちの変わらない子どもなど不気味だと、王妃がエルンテを疎んだからです。
けれど、王の決定に異を唱える人はいませんでした。誰もがエルンテを異質な存在だと遠ざけ、忌み嫌っていたのです。
「さようなら」
かつて、大好きなヴァイスがいた王座にぴょこんと頭を下げ、エルンテは静かにその場を去っていきました。
涙もこぼさず、未練も残さず、ためらいのない足取りで城を出て、この国を去っていったと言います。
エルンテにとって、ヴァイスのいない国に価値はありませんでした。
それでもこの国に留まっていたのは、ヴァイスとの約束があったから。
そして、この国の至るところに、たしかにヴァイスの魂を感じ取っていたからでした。
けれどもう、この国のどこにも、ヴァイスの魂はありません。そんな国を守る必要をエルンテは感じませんでした。
エルンテが去った後、春の王国と呼ばれた国はあっという間に雪に覆われてしまいました。
朝も昼も夜も太陽は見えず、春も夏も秋も冬も雪が降り続きます。
花は咲かず、作物も採れず、豊かな暮らしは望むべくもありません。
エルンテがやってくる前の国に戻っただけ、ではありましたが、この過酷な環境に耐えうる者はいませんでした。
人々から笑顔が消え、誰も彼もが厳しい暮らしを呪い、争いが絶えず起こるようになりました。
恵まれなくとも互いに助け合っていたのははるか昔のこと。今や、わずかな実りを奪い合って争うばかり。
白一色だった国は、春を経て、再び白に帰り、やがて、真っ赤な血の色に染まっていきました。
パタン、と本を閉じ、ふと腕の中の娘を見れば、口元にうっすらと笑みを浮かべ目を閉じています。
どうやら、残酷な結末を聞く前に眠ってしまったようです。
母親はそのことに少しホッとしながら、娘の頭をやさしくなでます。
自然と涙がこぼれ落ちました。もう二度と、このつぶらな瞳が開くことはないのです。
冷たくなっていく娘の身体をギュッと抱きしめ、母親もゆっくりと瞳を閉じました。
窓の外では、まだ雪が降り続いています。
生命の気配がひとつ、またひとつと消えていき、春を謳歌したその国は、静かに終わっていきました。
後にはただ、雪が降り続くだけです。
「ほら、こっちへおいで」
そう言って母親は、小さな女の子を自分の腕の中にギュッと抱きしめます。わずかな温もりを分け与えるかのように。
「あたたかい飲み物でもあればいいのだけれど…」
「大丈夫だよ。お母さんがギュってしてくれたから」
笑顔で自分を見上げる娘に、母親は悲しげな瞳を向けます。
残り少ない薪をくべた暖炉の火は弱々しく、母娘ふたりを温めるには心もとないものでした。
けれど、どうすることもできません。
外では、雪が降り続いています。
「ねぇ、お母さん。雪はいつになったらやむのかな」
「雪はね、やむことはないのよ」
「どうして?」
「それはね…」
娘の問いに答える代わりに、母親はとある物語を語り出します。この国に伝わる春の女神のおとぎ話を。
とある世界のとある大陸に、とても小さな国がありました。
その国は、朝も昼も夜も太陽が昇らず、春も夏も秋も冬も、止むことのない雪が降り続く場所でした。
どこまで行っても白一色の大地は、それはそれは美しいものでしたが、そこに暮らす人々にとってはよろこばしいものではありません。
なぜなら、ここには花が咲きません。作物も育ちません。
厳しい環境の中で、誰もが息を潜めるようにひっそりと生きています。
裕福な暮らしは望むべくもありませんが、ひとつだけ自慢できることがあります。
それは、争いが起きないこと。
互いに助け合わなければ生きていけないこの国では、争う必要も、余裕もなかったのです。
あいも変わらず雪が降り積もる大地を、ひとりの少年が歩いています。
彼はこの国の王子。つい3日ほど前に6歳を迎えたばかりの小さな紳士です。
見渡す限り白い景色の中に、王子は何かを見つけて立ち止まります。
「ねぇ、キミは誰?」
そう問いかけた王子の前には、彼よりも少し幼い少女がいました。
少女は不思議そうな顔をして王子をじっと見つめ、首をコテンと傾げます。
「僕はヴァイス。キミは?」
「エルンテ」
少女がつぶやくように告げます。
すると、ふたりの足元に小さな花が一輪、咲きました。
「え? 何これ?」
ヴァイスはビックリして叫びます。
花の咲かない国に生まれたヴァイスは、足元のそれが何かわからなかったのです。
そんなヴァイスにエルンテがまた、つぶやくように告げます。
「デイジー」
「でいじー?」
エルンテのことばを繰り返すヴァイスに、エルンテはコクンと頷きました。
「デイジー、か。初めて見たよ」
そう言ってデイジーにそっと触れたヴァイスは一瞬、驚いた顔をして、すぐに笑顔になりました。
「真っ白なのに雪とはぜんぜん違うんだね。冷たくないし、すごくやわらかい」
ヴァイスはとてもうれしそうです。その顔を見て、エルンテもすごくうれしくなってニコニコと笑いました。
すると、どうでしょう。ふたりの足元に、デイジーがひとつ、ふたつ、みっつと咲きます。
「うわー、スゴイ!」
歓声をあげてはしゃぐヴァイスに、エルンテは小さく問いかけます。
「デイジー、気に入った?」
「もちろんだよ!」
とびきりの笑顔で答えるヴァイスを、エルンテは大好きになりました。
そして、ヴァイスに負けないくらいのとっておきの笑顔を見せます。
すると今度は、ふたりの足元の深い深い雪がすぅーっと消え去り、緑がひょっこり顔を出しました。
「え?」
びっくりしてヴァシスは目をまん丸くしています。
その顔がおかしかったのか、エルンテは声を出して笑い出しました。
「ねぇ、エルンテは魔法使いなの?」
好奇心で瞳をキラキラさせるヴァイスに、エルンテはニコニコと笑います。
エルンテが笑うたび、雪はどんどん消えていき、その代わりに緑が広がっていきました。
ヴァイスがエルンテと出会ったその日から、白い雪に閉ざされていた国は、みるみる変わっていきました。
いつも薄曇りだった鈍色の空は鮮やかな青色に変わり、まぶしい太陽がのぞいています。
大地を覆っていた雪はすっかり消え去り、緑の木々が茂り、色とりどりの花が咲き誇ります。
あたたかな風が吹き、鳥たちが楽しそうに歌います。
そして、ひっそりと生きていた人々は、分厚い上着を脱ぎ捨て外へ出ます。
暗く沈んでいた表情も笑顔に変わっていきました。
この変化をもたらしたのがエルンテなのだと、誰もが気づいています。
だから、ヴァイスの父である王様も、その周囲も、いえ、この国に暮らすすべての人間が、エルンテを丁重に扱いました。
お城で何不自由なく暮らすエルンテはいつも笑顔です。
けれどそれは、贅沢な暮らし故ではなく、大好きなヴァイスのそばにいられることがうれしかったからでした。
「エルンテは、どこから来たの?」
ある日、ヴァイスがそう訊ねました。
ヴァイスはずっと不思議に思っていたのです。エルンテがどこから来たのか、どうしてこの国に来たのか。
エルンテは答えます。
「とても遠いところ」と。
「そんな遠いところから、どうしてここへやって来たの?」
エルンテは少し考えて、それから小さく答えました。
「ここには、春がないから」
「春?」
エルンテはコクリと頷きます。
「ねぇ、春ってなに?」
きょとんとするヴァイスに、エルンテは話します。
春はあたたかくて、穏やかな季節だと。大地には緑が芽吹き、花がほころび、眠っていた動物たちが目を覚まし、心がウキウキと躍りだす季節なのだと。
「そうか、春は今のこの国のことなんだね。エルンテは魔法使いじゃなくて、春の女神様だったんだ」
ヴァイスはとてもうれしそうです。
こんなふうにヴァイスを笑顔にできることが、エルンテには何よりうれしいことでした。
それから、ヴァイスとエルンテはいつも一緒でした。
国について勉強するときも、馬に乗って湖へピクニックに行くときも、いたずらをして叱られるときも。
何をするのも、どこへ行くのも一緒でしたが、ひとつだけ、一緒にはできないことがありました。
それは、成長すること。
出会ったときには6歳だったヴァイスは、7歳、10歳、15歳と歳を重ねるごとに背が伸び、顔つきも少年から青年へと少しずつ変わっていきました。
けれど、エルンテはヴァイスと出会った頃のまま。ずっと変わらず、幼い少女のままです。
だから、
「大人になった王子と春をもたらした少女は結婚し、いつまでも幸せに暮らしました。めでたし、めでたし」
とはなりませんでした。
立派な青年に成長したヴァイスは、今日、王となり、お妃様を娶ります。
王妃となるのは隣国のお姫様。エルンテではありません。
厳かな衣装を身にまとったヴァイスを見上げ、エルンテはニッコリと笑います。
「ヴァイス、うれしい?」
「あぁ。国はこんなにも豊かになったし、民は皆、笑顔だ。何もかもエルンテのおかげだよ。こんなにも幸せな国の王になれることを、キミに感謝する。本当にありがとう、エルンテ」
ヴァイは王にふさわしい静かな微笑みをエルンテに向けます。
ヴァイスの笑顔が大好きなエルンテも笑顔を返しました。
そんなふたりを、嫁いできたばかりの王妃様もやさしい眼差しで見守ります。
この国に春をもたらしたのが誰なのか、王妃様もよくわかっていました。
エルンテが笑顔でいる限り、この国の平和は守られると知っていたのです。
だから、そんな平和な日々に終わりがあるなど、誰も想像していませんでした。
始まりは、王であるヴァイスの死でした。
今や春の王国と呼ばれるようになった国を立派に治めた賢王ヴァイスも、年齢には勝てません。
エルンテとの出会いから、長い長い年月が経っていました。
「エルンテ?」
「ここに、いるよ」
もう起き上がることすらままならないヴァイスでしたが、その横には変わらず、エルンテの姿がありました。
「あぁ、エルンテ。私は、とても幸せな王だったよ。すべて、あなたのおかげだ」
絞り出すように言うヴァイスを、エルンテはただじっと見つめています。
「初めて出会った日からずっと、私と共にいてくれてありがとう。エルンテがもたらしてくれたものは、とても素晴らしくて、どれほど感謝を捧げても足りないくらいだ」
「ヴァイスがうれしいなら、それでいいよ」
エルンテのことばに、ヴァイスは小さく微笑みます。それから少しだけ、悲しげに眉を寄せました。
「私はもうすぐ、命を終えるだろう。エルンテともお別れだ」
「お別れ?」
「そうだよ」
すっかり嗄れてしまった声で、ヴァイスはやさしくエルンテに語りかけます。
「でも、エルンテ、悲しまないで。私の魂はずっとこの国にある。あなたのそばにあるのだから」
「ずっと、一緒?」
「あぁ、ずっと一緒だ」
最後の力を振り絞り、ヴァイスはエルンテに願います。この国の未来を。
「だからエルンテ、私の肉体が消えてしまっても、どうかこの国を守ってほしい。いつまでも豊かで、幸せであるように、この国に恵みを与えてほしい。私の、最期のお願いだ」
「ヴァイスがそう願うなら、叶える」
エルンテのことばを聞き、ヴァイスはホッとしたようにひとつ、息を吐きました。
「ありがとう、エルンテ。これまでずっと、ありがとう。これからも、どうか…」
安心したような静かな微笑みをたたえたまま、ヴァイスは天へと旅立っていきました。
残されたエルンテは、大好きなヴァイスとの約束通り、ヴァイスのいないこの国を守っています。
やがて十年が経ち、五十年が過ぎ、百年もの年月が流れ、さらに長い長い時を経ても、エルンテはこの国に恵みを与え続けていました。
変わることなく、大好きなヴァイスとの約束を守って。
ところが、エルンテに対する扱いはすっかり変わり果てていました。
エルンテを訪ねる者はおらず、贈り物も届きません。
感謝を捧げられることも、笑顔を向けられることもなく、王宮の片隅の小さく粗末な部屋にポツン、と置き去りにされていたのです。
すっかり平和に慣れた人々は、それを当たり前のものと受け止めていました。
ましてや、この国が春の王国と呼ばれる以前、深い深い白一色に覆われていたことなど、誰ひとり覚えていません。
そして、それらをもたらしてくれた存在のことなど、すっかり忘れてしまっていたのです。
今もなお少女の姿のままのエルンテは、ある日、王様によって城を追い出されてしまいます。
いつからこの城にいるのかもわからない、いつまでたっても姿かたちの変わらない子どもなど不気味だと、王妃がエルンテを疎んだからです。
けれど、王の決定に異を唱える人はいませんでした。誰もがエルンテを異質な存在だと遠ざけ、忌み嫌っていたのです。
「さようなら」
かつて、大好きなヴァイスがいた王座にぴょこんと頭を下げ、エルンテは静かにその場を去っていきました。
涙もこぼさず、未練も残さず、ためらいのない足取りで城を出て、この国を去っていったと言います。
エルンテにとって、ヴァイスのいない国に価値はありませんでした。
それでもこの国に留まっていたのは、ヴァイスとの約束があったから。
そして、この国の至るところに、たしかにヴァイスの魂を感じ取っていたからでした。
けれどもう、この国のどこにも、ヴァイスの魂はありません。そんな国を守る必要をエルンテは感じませんでした。
エルンテが去った後、春の王国と呼ばれた国はあっという間に雪に覆われてしまいました。
朝も昼も夜も太陽は見えず、春も夏も秋も冬も雪が降り続きます。
花は咲かず、作物も採れず、豊かな暮らしは望むべくもありません。
エルンテがやってくる前の国に戻っただけ、ではありましたが、この過酷な環境に耐えうる者はいませんでした。
人々から笑顔が消え、誰も彼もが厳しい暮らしを呪い、争いが絶えず起こるようになりました。
恵まれなくとも互いに助け合っていたのははるか昔のこと。今や、わずかな実りを奪い合って争うばかり。
白一色だった国は、春を経て、再び白に帰り、やがて、真っ赤な血の色に染まっていきました。
パタン、と本を閉じ、ふと腕の中の娘を見れば、口元にうっすらと笑みを浮かべ目を閉じています。
どうやら、残酷な結末を聞く前に眠ってしまったようです。
母親はそのことに少しホッとしながら、娘の頭をやさしくなでます。
自然と涙がこぼれ落ちました。もう二度と、このつぶらな瞳が開くことはないのです。
冷たくなっていく娘の身体をギュッと抱きしめ、母親もゆっくりと瞳を閉じました。
窓の外では、まだ雪が降り続いています。
生命の気配がひとつ、またひとつと消えていき、春を謳歌したその国は、静かに終わっていきました。
後にはただ、雪が降り続くだけです。