朗読【カクテル】

概要

都会の片隅のどこかにあるBARでのワンシーン。
前半は客である女性目線、後半はバーテンダーである男性目線になります。

語り手: 白河 那由多
語り手(かな): しらかわ なゆた

Twitter ID: nayuta9333
更新日: 2023/06/12 15:50

エピソード名: カクテル

小説名: カクテル
作家: いとうかよこ
Twitter ID: kotobaya


本編

昔から、おねだりは苦手だ。欲しいものを素直に欲しいと、言えた試しがない。

子供の頃、母と一緒に買い物に出かけたことがあった。
デパートの一角で、私はあるワンピースをじっと見つめていた。
襟のところに控えめなフリルがあってスカート部分はカラフルなチェック柄。
お嬢様っぽい可愛らしさに目を奪われ、私は見惚れていたのだ。
それでも私は、母にそのワンピースをねだることはしなかった。ただ黙って見惚れているだけ。
泣いて叫んで駄々をこねて…。
そんな子供にだけ許される特権を一度も使うことなく、私は大人になった。

今夜、彼が私になにを告げたいのかはわかっていた。その原因が、彼女だということも知っていた。
彼女は、彼に恋をした。彼にはすでに私という恋人がいた。けれど、彼女は引かなかった。
欲しいものを手に入れるために、泣いて叫んで駄々をこねて…。
最初は、そんな彼女を呆れ顔で見ていた彼が少しずつ変わっていった。
彼女の全身全霊の「好き」を無視できなくなったのだ。
そんな彼と彼女を、私はただ、黙って見ているしかできなかった。

彼は、私の顔をしばらく見つめた後、諦めたように小さくため息をつく。
カラン、とグラスの中の氷が鳴る。
何かが終わったことを知らせるような冷たい音が胸に響いた。
それを合図に、彼は席を立った。私ひとりを残して。サヨナラも言わずに。

空っぽになったスツールの隣で、私はただ時間が過ぎるのに身をまかせた。
まるで静止画像のように、じっと座り続ける私に、カウンターの向こうから、柔らかな声が問いかける。

「何か、お作りしましょうか?」

氷が溶けきったグラスに視線を向けたままで私は答える。

「じゃあ、素直になれるカクテルを」

大切な物が欠けたまま、静かに夜が更けていく。



隣のスツールが空になっても、
彼女はポツンと、まるで置いてけぼりをくらった子どもみたいに黙ってじっとそこに佇んでいた。

「何か、お作りしましょうか?」

僕は思わず声をかけた。
彼女は氷が溶け切ったグラスに視線を向けたまま、かすかにつぶやく。
その肩が少し震えていた気がして、泣きたいのかな、と思った。

まず僕は卵を取り出す。
黄身と白身に分けてから別々に泡立て、黄身の方に砂糖を加えた。
さらに泡立てていると、しだいにとろみと色が濃くなっていく。
そこへ、ふわりと泡立った白身を投入。
ブランデー15ml、ホワイトラム30mlを加え、かき混ぜたらホットグラスへ。
ゆっくりと熱湯を注ぐと、湯気とともにブランデーの香りが立ち上がる。
最後にステアして、グラスをすーっと滑らせる。

「トム・アンド・ジェリーです」

ほんのり甘口のカクテル。甘さは心をほどく魔法だから。
張りつめた緊張も、突き通した意地も、みんなゆるゆると解きほぐしてくれるから。

彼女が慎重にグラスを口元へと運ぶのを、僕は静かに見守った。
ふわりと甘い香りを漂わせるカクテルが、ゆっくりとその唇を濡らしてゆく。
彼女が、ふーっと小さくため息をもらす。
さっきまで真っ白だったその頬が、ほんの少し、紅く染まった。

いつかまた、彼女に笑顔が戻る日が来るだろう。
今はまだ、ままならない想いを抱えながら、月の見えない夜を越えてゆくとしても。
0