シュペット
シュペット
更新日: 2023/06/02 21:46現代ファンタジー
本編
「あら、こんなところにいたのね。懐かしいわ。」
ジメジメとして、カビ臭く埃っぽいこの物置小屋に、光がさしたのは何年振りだろう。おばあさんのしわしわの手が僕をそっと抱き上げる。
「まぁまぁ、大変。こんなぼろぼろになって。すぐに直してあげますからね 。」
おばあさんはそういうと、僕を小屋の外へと連れ出した。僕の取れかかった左目に映るのはよく晴れた蒼穹(そうきゅう)。太陽の日差しを受けて何倍にもまぶしく輝かしく見えた。
「さてと。裁縫道具は……どこにしまったかしら。」
おばあさんは戸棚を開けたり、踏み台に乗って探してみたりと家中をゴソゴソと探し始める。
「あ、あったわ!あいたたた。腰が……。年を取るのは嫌ねぇ。」
おばあさんが僕を連れてきた部屋には、見覚えのある暖炉やテーブル、そして壁掛けの絵画があった。僕の記憶より年季が入って少し古くなっただろうか。
「うふふふ……娘が小さいころは、あなたを離そうとしなかったわねぇ。常に引っ張りまわすから何度も繕い直して。まぁ、覚えたての裁縫だったから、壊れやすいのはしかたがなかったけど。今度は、大型犬に噛まれたってびくともしないくらい丈夫に直してあげますからね。」
するすると魔法でもかけられているかのごとく、おばあさんが施してくれる一針一針はとても心地よかった。
「右目はなくしてしまったのね……少し大きいけどこれを代わりにしましょうか。」
そういっておばあさんが取り出したのは、大きな黄色のぼたん。縫い付けてもらうと一気に視界が広くなった。
「まぁ、見違えたわシュペット!可愛いわよ。」
「シュペット」自分でさえ忘れかけていたその名を呼ばれた時、胸のあたりがトクンと熱を帯びた気がした。
「ねぇ、見てシュペット!あなたの新しい服よ。あら〜、よく似合うわ。」
僕に手作りの服を着せて喜んでいるこのおばあさんの名前はエマ。
人よりも畑の方が多い田舎で1人暮らしをしている。
エマは、僕を直してからもいうもの、どこに行くにも僕を連れ歩いた。
「まぁ、今日は春らしいいい天気ね。一緒に散歩に行きましょうか。」
『そうだね、エマ。』
「シュペット!お庭のスミレが咲いているわ。もうすぐ春ね。」
『春って、なんだろう?いつか教えてくれるかな。』
エマはなんでもかんでも僕に話して聞かせた。
「ねぇ、シュペット。見て、おいしそうでしょう?シチューは私の得意料理なの。……娘も大好きだったわ。」
『エマってば、僕の前にシチューを置いても、食べられないよ。』
僕にはエマがいつも僕に向かって、嬉しそうに話す理由がわからなかった。だって、僕はエマとお話することは出来ないし、同じ食事をすることもできないのだから。エマはいったい何が楽しくてそんなに笑うのだろうか 。
「シュペット、おやすみなさい。愛してるわ。」
『愛してる……?』
毎晩『愛してる』と言って僕を抱きしめてくれるエマ。僕にはない体の熱がじんわりと伝わって来て、体全部がポカポカした。
結局、どれだけ頭を悩ませてみても、僕はエマの気持ちを理解する事が出来なかった。
『人間って不思議だなぁ……。』
そんなことをぼんやり思った。
エマと暮らして1年が過ぎた。
今日はポカポカとした春らしい日になりそうだ。
『エマはどこかな?』
いつもならこの時間には、焼きたてのパンをオーブンから取り出してきて、「おはよう」と言ってくれるのに。
不思議に思って視線をめぐらすと、暖炉の前の揺り椅子で眠るエマの姿があった。
『なぁーんだ、そこにいたのか。今日はずいぶんと寝坊助なんだね、エマ。……エマ?』
エマは夕方になっても次の日になっても目覚めなかった。
次の日、近所に住むジョセフがやって来た。
ジョセフは眠るエマを見た瞬間、血相を変えていろんなところに電話をしていた。
その後、家には沢山の人が来た。
大きな体の男の人がエマをどこかに連れていこうとした。
『待って、エマをどこに連れていくの!?離れ離れにしないで!置いていかないで!!』
どんなに叫んだところで、僕の声は誰にも届かない。
「……どうか天国で安らかに。」
ジョセフはそう言って泣いていた。
その日から、僕はエマの声を聞くことも姿を見ることもなかった。
もう、エマは帰ってこない……そんな気がした。
「さぁ、ついたぞ。」
エマが居なくなって、1週間が過ぎた朝のことだった。
今日は、朝から家の外が騒がしい。
『もしかして、エマが帰ってきたのかな!僕、エマに会いたい!』
ドアを開ける音がして誰かが家に入ってきた。
「まぁ、懐かしいわ。子供のころのままね。ほら、ララ。ママが育ったお家よ。小さい頃に一度来たでしょう。」
「そんな小さいころのことなんて覚えてないよ。」
「ははは!そうだなぁ。ララはまだ2歳くらいだったかなぁ。」
僕は、家に入ってきた人間が、エマではなかったことにガッカリする。スラッと背の高い髭面の男の人と、まだ10歳くらいの女の子。女の子は黄色のヘアーバンドで前髪をとめている。そして、ママと呼ばれているハイヒールを履いた女の人は、どこかエマに似ている気がした。
『エ…マ?……なんて。そんなわけないか。』
その時、ハイヒールの女性と目が合った。その人は、僕を見て少し目を見開いたかと思うと、嬉しそうな顔をしてカツカツカツと足早に僕のそばにやってきた。
「あら、あなたシュペットじゃないの!懐かしいわ〜!お母さんたら、まだ大事にとってあったのね。……ねぇ、ララ。この子あなたの新しいお友達にどうかしら。」
「うぇ、なにこの汚い人形。気持ち悪い。」
バンッと全身に衝撃が走った。
僕は冷たい床に投げ捨てられた。
不意に、毎晩聞いていたエマの声がよみがえる。
「愛してるわ、シュペット」
世界で一番大好きな、優しい優しい彼女の声が。
「パパ、それよりも新しいゲーム買ってよぉ。」
「この前も買ったばっかりだろう?」
「それはもう飽きたの!ママ~、あたし早くパリに帰りたいよ。」
「はいはい、もうちょっと待ってね。今、業者さんがくるから。」
幸せだった時間は、突如として消えてしまった。
エマのいない日々はとても静かで、吹雪の夜のように寒いと感じた。
『エマに会いたい……会いたいよぉ……。
どうして僕を置いていなくなっちゃったの?
どこだっていいよ。僕も一緒に連れて行ってよ。』
いつの間にか、エマのいる日常が僕にとって、当たり前になっていたのだ。
その時、僕はやっと理解した。
『……そうか。エマは寂しかったんだ。』
だから、返事もないのにあんなに楽しそうに僕に話しかけていた。
だったら、せめて僕からも『愛している』と伝えたかった。
『神様はどうして、僕に声をくれなかったの……?僕に声があったなら、エマが僕にしてくれたように、毎日毎日、エマを愛してると伝えられたのに。』
それから娘夫婦は、この家に清掃業者を呼んだ。エマの椅子も机も絵画も全部捨てて、この家を売りに出すらしい。もちろん僕も2トントラックの荷台に積まれた。僕は捨てられたらどこに行くのだろう。
『どうせなら、エマがいる天国に行きたいな。』
僕がそんなことを考えていると、トラックがガタンッと大きく揺れる。その拍子に僕は荷台の外に転がり落ちてしまった。少し湿った草に包まれる。もうすぐ夕暮れが訪れようとする西の空は、茜色と青空が混ざりあっていた。
『どうして、僕は心を持ってしまったんだろう。』
行く宛のない問いが空に消えていく。こんな野ざらしでじわじわと朽ちて行くくらいなら、いっそ炎に焼かれた方がましだったのかもしれない。
『そうしたら、エマに会うことが出来たかな?』
草の雫が僕の目にポタリと落ちる。見上げた空は滲んで見えた。
僕が捨てられて2日目。
無情にも朝はやってくる。
僕におはようと笑いかける優しいエマの記憶が蘇ってきた。
「……くぅん。」
『泣いているの?』
突然、僕の頬を何者かがべロリと舐めた。
『うわぁ!!……君は……い、犬?』
美しい金色の毛並みの大きなゴールデンレトリバーが僕の顔をのぞく。
『ねぇ、君1人なの?僕、オリバー!ねぇねぇ、僕と遊ぼう!』
オリバーはちぎれんばかりに尻尾を振りながら、僕にすり寄ってくる。
『おい!舐めるな、噛むな、よだれつけるなぁ!』
「オリバー!!」
遠くから息を切らせながら、女の人がこちらに向かって走ってきた。
『あ、ステラだ!』
「わん、わん!」
オリバーは僕をくわえて、女の人のところへ走り出した。
「もう、だめじゃない。ひとりで走って行ったら。……あら?新しいお友達?ずいぶん古い人形ね。」
『うん!友達。』
「わふっ」
『今会ったばっかりじゃん。』
どうせ、君たちも僕を捨てるのだろう。
もう、古い人形と言われるのは沢山だ。
「あら、この子……昔、母さんが作ってくれた人形にそっくりね。懐かしいわぁ。オリバー、この子が気に入ったの?」
『うん!気に入った!』
「わふっ!わふっ!」
「じゃあ、その子も一緒に帰りましょうか。」
『……え?』
「こんなところに独りぼっちじゃ寂しいだろうから、ね!」
「わん!」
オリバーが元気よくステラに返事をする。
『僕を連れて行ってくれるの?途中で捨てたりしない?』
『大丈夫だよ。少なくともステラはそんなこと絶対にしない。子犬の時、捨てられていた僕を拾って、ずーっと可愛がってくれているんだ。』
オリバーが荒い息をもらしながら、自慢げに言ってくる。
この二人なら、もしかしたら信じてみても良いのかもしれない。
久しぶりに感じた温もりが暖かくて、嬉しくて、泣きたい気持ちになった。
『嬉しいのに、泣きたいなんておかしいなぁ。』
オリバーに繋いだリードを持ったまま、ステラがぐーっと伸びをする。
「んー!今日も晴れ晴れとしたいい天気ねぇ。」
ステラに言われて空を見上げれば、雲一つない真っ青な空。あの日エマと一緒に見た空も良く晴れていた。
『ねぇ、エマ。なんだか騒がしくなりそうだよ。神様は意地悪だね。まだ、僕とエマを合わせるつもりはないみたい。……でも。』
エマが僕をあの小屋から出してくれた日と同じ暖かなぬくもりが、トクンと胸を揺らした気がして。このぬくもりが気のせいじゃないなら、僕はエマがくれた奇跡をもう少し繋いでみたい。
『……ごめんね、エマ。本当はすぐにでもエマの傍に行きたいけど、もう少しだけ。あと、もう少しだけ、人の優しさを信じてみたくなったよ。
だから、エマ見ててね!エマのところに行く時は、たくさんお土産話を持っていくからさ。
……その時は、君とお話できたら良いな。』
僕の祈りは、蒼穹に溶けた。
0ジメジメとして、カビ臭く埃っぽいこの物置小屋に、光がさしたのは何年振りだろう。おばあさんのしわしわの手が僕をそっと抱き上げる。
「まぁまぁ、大変。こんなぼろぼろになって。すぐに直してあげますからね 。」
おばあさんはそういうと、僕を小屋の外へと連れ出した。僕の取れかかった左目に映るのはよく晴れた蒼穹(そうきゅう)。太陽の日差しを受けて何倍にもまぶしく輝かしく見えた。
「さてと。裁縫道具は……どこにしまったかしら。」
おばあさんは戸棚を開けたり、踏み台に乗って探してみたりと家中をゴソゴソと探し始める。
「あ、あったわ!あいたたた。腰が……。年を取るのは嫌ねぇ。」
おばあさんが僕を連れてきた部屋には、見覚えのある暖炉やテーブル、そして壁掛けの絵画があった。僕の記憶より年季が入って少し古くなっただろうか。
「うふふふ……娘が小さいころは、あなたを離そうとしなかったわねぇ。常に引っ張りまわすから何度も繕い直して。まぁ、覚えたての裁縫だったから、壊れやすいのはしかたがなかったけど。今度は、大型犬に噛まれたってびくともしないくらい丈夫に直してあげますからね。」
するすると魔法でもかけられているかのごとく、おばあさんが施してくれる一針一針はとても心地よかった。
「右目はなくしてしまったのね……少し大きいけどこれを代わりにしましょうか。」
そういっておばあさんが取り出したのは、大きな黄色のぼたん。縫い付けてもらうと一気に視界が広くなった。
「まぁ、見違えたわシュペット!可愛いわよ。」
「シュペット」自分でさえ忘れかけていたその名を呼ばれた時、胸のあたりがトクンと熱を帯びた気がした。
「ねぇ、見てシュペット!あなたの新しい服よ。あら〜、よく似合うわ。」
僕に手作りの服を着せて喜んでいるこのおばあさんの名前はエマ。
人よりも畑の方が多い田舎で1人暮らしをしている。
エマは、僕を直してからもいうもの、どこに行くにも僕を連れ歩いた。
「まぁ、今日は春らしいいい天気ね。一緒に散歩に行きましょうか。」
『そうだね、エマ。』
「シュペット!お庭のスミレが咲いているわ。もうすぐ春ね。」
『春って、なんだろう?いつか教えてくれるかな。』
エマはなんでもかんでも僕に話して聞かせた。
「ねぇ、シュペット。見て、おいしそうでしょう?シチューは私の得意料理なの。……娘も大好きだったわ。」
『エマってば、僕の前にシチューを置いても、食べられないよ。』
僕にはエマがいつも僕に向かって、嬉しそうに話す理由がわからなかった。だって、僕はエマとお話することは出来ないし、同じ食事をすることもできないのだから。エマはいったい何が楽しくてそんなに笑うのだろうか 。
「シュペット、おやすみなさい。愛してるわ。」
『愛してる……?』
毎晩『愛してる』と言って僕を抱きしめてくれるエマ。僕にはない体の熱がじんわりと伝わって来て、体全部がポカポカした。
結局、どれだけ頭を悩ませてみても、僕はエマの気持ちを理解する事が出来なかった。
『人間って不思議だなぁ……。』
そんなことをぼんやり思った。
エマと暮らして1年が過ぎた。
今日はポカポカとした春らしい日になりそうだ。
『エマはどこかな?』
いつもならこの時間には、焼きたてのパンをオーブンから取り出してきて、「おはよう」と言ってくれるのに。
不思議に思って視線をめぐらすと、暖炉の前の揺り椅子で眠るエマの姿があった。
『なぁーんだ、そこにいたのか。今日はずいぶんと寝坊助なんだね、エマ。……エマ?』
エマは夕方になっても次の日になっても目覚めなかった。
次の日、近所に住むジョセフがやって来た。
ジョセフは眠るエマを見た瞬間、血相を変えていろんなところに電話をしていた。
その後、家には沢山の人が来た。
大きな体の男の人がエマをどこかに連れていこうとした。
『待って、エマをどこに連れていくの!?離れ離れにしないで!置いていかないで!!』
どんなに叫んだところで、僕の声は誰にも届かない。
「……どうか天国で安らかに。」
ジョセフはそう言って泣いていた。
その日から、僕はエマの声を聞くことも姿を見ることもなかった。
もう、エマは帰ってこない……そんな気がした。
「さぁ、ついたぞ。」
エマが居なくなって、1週間が過ぎた朝のことだった。
今日は、朝から家の外が騒がしい。
『もしかして、エマが帰ってきたのかな!僕、エマに会いたい!』
ドアを開ける音がして誰かが家に入ってきた。
「まぁ、懐かしいわ。子供のころのままね。ほら、ララ。ママが育ったお家よ。小さい頃に一度来たでしょう。」
「そんな小さいころのことなんて覚えてないよ。」
「ははは!そうだなぁ。ララはまだ2歳くらいだったかなぁ。」
僕は、家に入ってきた人間が、エマではなかったことにガッカリする。スラッと背の高い髭面の男の人と、まだ10歳くらいの女の子。女の子は黄色のヘアーバンドで前髪をとめている。そして、ママと呼ばれているハイヒールを履いた女の人は、どこかエマに似ている気がした。
『エ…マ?……なんて。そんなわけないか。』
その時、ハイヒールの女性と目が合った。その人は、僕を見て少し目を見開いたかと思うと、嬉しそうな顔をしてカツカツカツと足早に僕のそばにやってきた。
「あら、あなたシュペットじゃないの!懐かしいわ〜!お母さんたら、まだ大事にとってあったのね。……ねぇ、ララ。この子あなたの新しいお友達にどうかしら。」
「うぇ、なにこの汚い人形。気持ち悪い。」
バンッと全身に衝撃が走った。
僕は冷たい床に投げ捨てられた。
不意に、毎晩聞いていたエマの声がよみがえる。
「愛してるわ、シュペット」
世界で一番大好きな、優しい優しい彼女の声が。
「パパ、それよりも新しいゲーム買ってよぉ。」
「この前も買ったばっかりだろう?」
「それはもう飽きたの!ママ~、あたし早くパリに帰りたいよ。」
「はいはい、もうちょっと待ってね。今、業者さんがくるから。」
幸せだった時間は、突如として消えてしまった。
エマのいない日々はとても静かで、吹雪の夜のように寒いと感じた。
『エマに会いたい……会いたいよぉ……。
どうして僕を置いていなくなっちゃったの?
どこだっていいよ。僕も一緒に連れて行ってよ。』
いつの間にか、エマのいる日常が僕にとって、当たり前になっていたのだ。
その時、僕はやっと理解した。
『……そうか。エマは寂しかったんだ。』
だから、返事もないのにあんなに楽しそうに僕に話しかけていた。
だったら、せめて僕からも『愛している』と伝えたかった。
『神様はどうして、僕に声をくれなかったの……?僕に声があったなら、エマが僕にしてくれたように、毎日毎日、エマを愛してると伝えられたのに。』
それから娘夫婦は、この家に清掃業者を呼んだ。エマの椅子も机も絵画も全部捨てて、この家を売りに出すらしい。もちろん僕も2トントラックの荷台に積まれた。僕は捨てられたらどこに行くのだろう。
『どうせなら、エマがいる天国に行きたいな。』
僕がそんなことを考えていると、トラックがガタンッと大きく揺れる。その拍子に僕は荷台の外に転がり落ちてしまった。少し湿った草に包まれる。もうすぐ夕暮れが訪れようとする西の空は、茜色と青空が混ざりあっていた。
『どうして、僕は心を持ってしまったんだろう。』
行く宛のない問いが空に消えていく。こんな野ざらしでじわじわと朽ちて行くくらいなら、いっそ炎に焼かれた方がましだったのかもしれない。
『そうしたら、エマに会うことが出来たかな?』
草の雫が僕の目にポタリと落ちる。見上げた空は滲んで見えた。
僕が捨てられて2日目。
無情にも朝はやってくる。
僕におはようと笑いかける優しいエマの記憶が蘇ってきた。
「……くぅん。」
『泣いているの?』
突然、僕の頬を何者かがべロリと舐めた。
『うわぁ!!……君は……い、犬?』
美しい金色の毛並みの大きなゴールデンレトリバーが僕の顔をのぞく。
『ねぇ、君1人なの?僕、オリバー!ねぇねぇ、僕と遊ぼう!』
オリバーはちぎれんばかりに尻尾を振りながら、僕にすり寄ってくる。
『おい!舐めるな、噛むな、よだれつけるなぁ!』
「オリバー!!」
遠くから息を切らせながら、女の人がこちらに向かって走ってきた。
『あ、ステラだ!』
「わん、わん!」
オリバーは僕をくわえて、女の人のところへ走り出した。
「もう、だめじゃない。ひとりで走って行ったら。……あら?新しいお友達?ずいぶん古い人形ね。」
『うん!友達。』
「わふっ」
『今会ったばっかりじゃん。』
どうせ、君たちも僕を捨てるのだろう。
もう、古い人形と言われるのは沢山だ。
「あら、この子……昔、母さんが作ってくれた人形にそっくりね。懐かしいわぁ。オリバー、この子が気に入ったの?」
『うん!気に入った!』
「わふっ!わふっ!」
「じゃあ、その子も一緒に帰りましょうか。」
『……え?』
「こんなところに独りぼっちじゃ寂しいだろうから、ね!」
「わん!」
オリバーが元気よくステラに返事をする。
『僕を連れて行ってくれるの?途中で捨てたりしない?』
『大丈夫だよ。少なくともステラはそんなこと絶対にしない。子犬の時、捨てられていた僕を拾って、ずーっと可愛がってくれているんだ。』
オリバーが荒い息をもらしながら、自慢げに言ってくる。
この二人なら、もしかしたら信じてみても良いのかもしれない。
久しぶりに感じた温もりが暖かくて、嬉しくて、泣きたい気持ちになった。
『嬉しいのに、泣きたいなんておかしいなぁ。』
オリバーに繋いだリードを持ったまま、ステラがぐーっと伸びをする。
「んー!今日も晴れ晴れとしたいい天気ねぇ。」
ステラに言われて空を見上げれば、雲一つない真っ青な空。あの日エマと一緒に見た空も良く晴れていた。
『ねぇ、エマ。なんだか騒がしくなりそうだよ。神様は意地悪だね。まだ、僕とエマを合わせるつもりはないみたい。……でも。』
エマが僕をあの小屋から出してくれた日と同じ暖かなぬくもりが、トクンと胸を揺らした気がして。このぬくもりが気のせいじゃないなら、僕はエマがくれた奇跡をもう少し繋いでみたい。
『……ごめんね、エマ。本当はすぐにでもエマの傍に行きたいけど、もう少しだけ。あと、もう少しだけ、人の優しさを信じてみたくなったよ。
だから、エマ見ててね!エマのところに行く時は、たくさんお土産話を持っていくからさ。
……その時は、君とお話できたら良いな。』
僕の祈りは、蒼穹に溶けた。