見えぬ者たち

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

見えぬ者たち

更新日: 2024/12/17 19:13
その他

本編


 |酷《ひど》く雨の降る深夜のことであった。|祐司《ゆうじ》はヴェランダに出て煙草に火を|点《つ》けた。車がアスファルトを走る度に、タイヤが|飛沫《しぶき》をあげる音が聞こえてきた。
「死にたい」
彼は煙草の煙と共に口癖を吐き出した。これは心の底から出た本心というわけではなかったが、まるっきりの|出鱈目《でたらめ》でもなかった。夜が明ければ仕事に行かなければならないことや、職場で嫌な上司と顔を合わせなければならないこと、貸した金の帰ってこないこと、かつての友が自分よりも出世し、円満な家庭を築いていること、何ひとつ、人並みにできぬこと。これらのことが鎖のようになって彼の精神を|苛《さいな》んでいたのであった。
「死にたい」
彼がもう一度、そう口にした時、彼がもたれかかっている手すりに小さな半透明のアマガエルが現れた。
「よう。コラ。いい天気だな。聞こえるか。オレだ。オレ。覚えてるだろ。空へ上がる前に挨拶に来てやったぜ。いっぺん、幽霊になってみると楽なもんだな。人間の言葉だって話せら。どうだい? 上手く話せてるだろ」
カエルは一生懸命に祐司に話しかけたものの、彼はただ、|濁《にご》ったような瞳で雨に煙る町を眺めていた。
「おい、コラ。聞こえねえのか! おい! オレだ。会いに来たぞ」
カエルはカエル離れした身体能力で二本の後ろ足で立ち上がると、両腕をブンブンと振って自身の存在を祐司にアピールした。彼はそれを視界に入れることなく黙って煙草の煙を立てていた。カエルが不審に首を|傾《かし》げたその時、祐司の身体から抜け出るようにして、カエルと同じ半透明の身体を持った人物が現れた。古い時代の布をまとい、そこから伸びる手足は竹ひごのように細かった。
「カエルさん、カエルさん。残念ですが、貴方の姿は彼には見えていませんよ」
最上等のビロードのような声であった。
「わ! 驚いた。オレはただのカエルさんじゃねえ。サノスケって名前があるんだ。誰だ、お前さん」
カエルは小さな目をいっぱいに広げた。
「失礼。サノスケさん。私は常に、この者のそばにあり、|護《まも》る者です。人は私たちのことを守護霊と呼びます」
「へえ。じゃあ、守護霊さんよ。こいつにオレの姿が見えないってのはどういうことだい。こいつ、目が見えないのかい」
サノスケは祐司の手を這い上り、頭へと至ると、そこで守護霊と目線を合わせた。
「そうではありません。人間には、霊の姿が見えぬのです。彼だけではなく、他の人間も同じです」
それを聞いたサノスケは驚いて祐司の頭から転げ落ちそうになった。
「へえ! 幽霊が見えないのかい? オタマジャクシだって幽霊が見えるぜ?」
「仕方のないこと。人間とはそういう生き物なのです」
「なんだ」
サノスケはあからさまに肩を落とした。
「どうしたのです? 貴方はどうして、ここへやってきたのですか」
見かねた守護霊が|尋《たず》ねた。サノスケは頭の上で|胡坐《あぐら》をかくと腕を組んで語り始めた。
「オレはよ。なん日か前に、なわばりの畑からうっかり外に出ちまったんだ。人間がぞろぞろいるところによ。ああ、このまま踏みつぶされて死ぬんだなって覚悟した時に、こいつが助けてくれたんだ。こいつがオレを畑へ放ってくれたおかげで、オレは生き延びたんだ。ま、結局、昨日、蛇に喰われて死んだんだけどよ。でも、こいつのおかげでなん日か生きられたのは本当だ。それでさっき、空の上からお達しがあってな。オレは次にはなんにでも生まれ変わることができるんだとよ。それだけの力が溜まってるそうだ。次は人間にでも生まれ変わろうかと思って、空に上る前にコイツに会いに来たんだが。まさか幽霊が見えないとはな。声も聞こえないわけだ」
サノスケと祐司が同時にため息をついた。
 その時、降りしきる雨の中を、いち羽の半透明のカラスが飛んできて、手すりに止まった。
「祐司殿。ごきげんよう。オタケさんも、ごきげんよう。おや、祐司殿、何かついておりますぞ」
カラスはサノスケついばもうとした。
「おい、コラ! カラス! つつくな」
「おやまあ」
そんな様子をオタケさんと呼ばれた守護霊は微笑ましげに眺めていた。
「祐司殿、おそばに失礼しますぞ」
カラスはそう言うと祐司の肩に止まった。
「祐司殿、今日は――」
「聞こえてねえんだってよ」
カラスの話をサノスケが遮った。
「存じております」
カラスは胸を張りながら答えた。
「存じておりますとも。しかし、よいのです。私の自己満足のようなもの。色々の話を恩人と共有した気持ちになりたいのです」
「恩人? あんたもコイツに恩があるのか」
「ありますとも!」
カラスがひと声大きく鳴き、祐司の肩から飛び降りると、手すりから町の方を眺めた。
「私はあの高い鉄塔の方角にある、小さな森に住まうコウという名のカラスでした。ある日私はいつものように町へ出てきて仲間たちと遊んでおりました。その時にふと羽を休めようと|留《と》まったのが、そう。あそこに見える電線です」
コウの視線をサノスケとオタケが追った。
「手入れが行き届いていなかったのでしょう。電線に掴まった途端、バチン! 青紫の火花を見たのがこの世の別れでした。私の身体は真っ逆さまに地面へと落ちてゆきました。私にとって死んだこと自体は仕方がないと諦めがつきました。しかし、私が最も恐れたことは、その死に姿を大衆の前に|晒《さら》すことでした」
コウはサノスケとオタケの方へと振り返った。
「よいですか。誇り高いカラスにとって最も恐れることのひとつが死体を晒すことなのです。それは我々にとってまさに死ぬよりもつらい大変な恥なのですよ。そして、そんな私の身体の近くを通りかかったのが祐司様でした。祐司様はすぐさま私の身体を拾い上げ、大きな箱に入れて、どういうわけか酒を振りかけると小さな公園の一角に埋めてくださいました。後で知ったところによると、それは人が行うクヨウという行為だったそうです。とにかく、こういうわけで、私は末代まで語り継がれるであろう恥を|免《まぬが》れたのです。ですので、私は天上へと帰り、神様に仕えるまでの間、こうして時折、通ってきて、大恩人と言葉を交わすまねごとをしてみるのですよ」
演説を終えたコウは再び祐司の肩に飛び乗ると耳元で声をあげた。
「祐司様。今日はいかがでしたか」
その声が聞こえるわけもなく、祐司はまた、口癖を漏らした。
「あー死にたい」
そのひと言コウの表情を暗くし、サノスケを戦慄させた。
「おい、コイツ、今、なんて言った? 死にたい? 聞き間違いだよな。人間の言葉か? これ」
オタケとコウは揃ってうなだれた。
「サノスケさん。聞き間違いではありません。この人は今、死を望んでそう言ったのです」
「死を、望む? どうして? 意味が分からねえ」
「私も、初めは驚きましたが、人間とはそういう生き物のようなのです。生きているうちに死んだ方が余程ましだと思うことも、あるようなのです」
コウがうなだれたまま答えた。
「死んだ方が、まし? やっぱり分からねえ。死ぬのはいつだって一番最後だろ。それをわざわざ望むなんて」
雨がひときわ強くなっても、祐司は部屋に入ろうとしなかった。
「どうして、どうしてコイツはそんな目に|遭《あ》ってるんだ。ええと、オタケ、教えてくれ。誰がそんなことしてやがるんだ。オレがソイツを張り倒してやる!」
オタケは困ったように、細い腕を|頬《ほお》らしき場所にあてた。
「誰でもなく、大勢でもあります。しかし、最も彼を苦しめている人物がいます」
「教えてくれ、引っぱたいてやる」
サノスケは小さな身体で跳ねながら息巻いていた。
「彼自身です」
サノスケは口を大きく開くと、ただのカエルであった頃と同じ鳴き声をあげた。
「コイツ、自身?」
「ええ。ご覧になりますか」
オタケは半透明な、爪楊枝のような指先で祐司の胸に触れた。途端、彼の身体から夜空を埋め尽くしている雨雲よりも黒い煙が立ち上った。
「げえ! なんだ」
サノスケは祐司の頭の上でひっくり返った。
黒い煙はやがて、檻に入った大きな|蛇《へび》となってヴェランダの向こう側へとその形を表した。コウが|威嚇《いかく》するように鳴き声をあげた。
「おい、オタケ! なんだこれ。コイツ、こんな蛇を飼ってやがったのか」
「人は皆、心の中にこのような蛇を飼っているのです。名をジコヒテイといいます」
「嘘だろ。人間が皆こんな化物を?」
「はい。ただし、人によって蛇の大きさは違うようです。ミミズのように小さいものから、これほど大きなものまで。特に、弱い者程、大きな蛇を飼うようです。彼は、弱かったのです」
「弱いもんか!」
サノスケは精一杯の声をあげた。
「コイツはオレを助けたんだ。そんな優しい奴が弱いもんか」
「優しさは弱者の特徴です」
「そんな。それだと、優しい奴が損するだけじゃないか」
「それが人間の世界なのです」
「納得できねえ」
しばらく、一同の中に沈黙が流れた。それを断ったのはコウであった。
「私にとって、祐司様が弱い者であるかどうかはどうでもよいことです。しかし、カエル、いや、サノスケが言うように、祐司様が優しい人間であることは確か。ねえ、オタケさん。なんとか、ならないものでしょうか。私はまだ、恩返しができておりません。何か、祐司様のためにできることはないでしょうか」
「残念ながら、ありません。人間はどうにかして自分の力で、この蛇を飼い慣らさねばならないのです」
オタケが冷たく言い放っても、サノスケは引かなかった。
「ならよ。オレがこの蛇を退治してやるぜ。これでもなわばり相撲で負けたことはねえんだ!」
「なりません。この蛇は祐司のものなのです」
オタケが再び、祐司の胸に触れると、籠に入った蛇は彼の中へと戻っていった。
「死にたい」
またもやその言葉を耳にしたサノスケはしばらく震えていたが、何を思ったか祐司の頭に両手をついた。半透明の身体が青白く、発光し始めた。
オタケとコウは揃って目を丸くした。
「サノスケさん。何をしているのです」
「力をやってるんだよ。コイツに」
「いけません。それは霊力。貴方がその身体を保つ力ですよ。霊力がなくなれば、貴方は輪廻からも、永遠に消えてしまうのですよ」
オタケが忠告しても、サノスケは止めなかった。
「構うもんか。|幾《いく》らでもやるから、だからもう、死にたいなんてそんな怖いこと言うな」
コウがひと声鳴くと、彼の身体までもが光を放った。
「私が|躊躇《ちゅうちょ》していたことを、カエルのくせによくもやってくれましたな。それを見せられては、高貴なカラスが後れを取るわけにはいきません。祐司様。誇り高いカラスの力を、どうぞ」
「こっちは|粋《いき》なカエルの力だ」
「二人とも、お止しなさい」
オタケの声は届かず、二人は何処か楽しそうに、祐司に力を分け与えていた。

 発光が収まった頃、彼らの身体は随分と薄くなっていた。
「貴方たち、よかったのですか、これで」
「いいさ。だからソイツに言っとけ。もう死にたいなんて言うなってよ」
サノスケは祐司の頭でふんぞり返っていた。
「私も、後悔はしていません。悔いと言えば、カエルに先を越されたことでしょうかね」
二人の様子を見たオタケは恭しく頭を下げた。
「お二人とも、ありがとうございます」
オタケが顔を上げると、もうそこに二人の姿は無かった。

 祐司は部屋へと入り、布団へ潜り込んだ。明日がやってくるかと思うと、|憂鬱《ゆううつ》でたまらなかった。“死にたい”と、口に出そうになった途端、咳がこみ上げてきた。不思議なことに、その夜は“死にたい”と口に出そうとするたびに咳がでた。幾度も幾度も“死にたい”を言い損なった祐司はむきになってそれを言おうとしたが、どうしても言えなかった。次第にそれがいかにも|可笑《おか》しくなり、ついに彼は深夜にもかかわらず、大声で笑った。
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