世界システム(起動)

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

更新日: 2024/10/04 18:19
その他

本編


 夜が更けてからも、|悠《ゆう》はひとり、研究室に残り、作業を続けていた。夕食は、とてもとる気にならなかった。明日報告する内容をまとめ、数式を黒板に書き写そうとする手が震えて止まらなかった。いかに精巧な報告をしようと、怒号が飛んでくる未来しか見えなかった。単なる恐怖ではない、もしかしたら教授が自分に抱いてくれているかもしれない小さな期待をすら裏切ってしまうのではないかと考えると、不安でたまらなかった。彼は|常備《じょうび》しているカフェインの錠剤を四粒、飲み込んだ。別段睡魔に襲われているわけではなかったが、それを飲むことで一時的に集中力が高まることを彼は知っていた。時間が経過すると不安感が増幅することも知っていた。
 ひと通り数式を書き並べると、悠はその内容や論理に矛盾がないかを神経質になって確認した。しかし、その行為は自ら死地に近づくことでもあった。神経質になればなるほど、もし、こう聞かれたら、こう言われたらという想定ばかりが|膨《ふく》らみ、明日の朝までにそれらを解消することは到底、不可能であると知るばかりであったのだ。
悠は椅子に座ったまま頭を抱えた。予想する通りの、あるいはそれ以上の言葉が、確実に明日、自分を|苛《さいな》む。恐怖と不安が募り、思いださなくともよいことばかりが思いだされた。怒号、|嘲笑《ちょうしょう》、叱責、劣等の|烙印《らくいん》、応えられない期待、不安、自己嫌悪、苛立ち、できない努力、失敗。何もかもが嫌になり、吐き気すら覚えた。トイレに行って洗面台に吐こうとしても、胃液すら出なかった。直ぐにでも履歴を書き換え、別な|分岐《ぶんき》を歩んだ自分になりたかった。

 この地獄を生き抜く術を、悠は知らなかった。彼の身体は|不随意《ふずいい》に研究室の窓辺に吸い寄せられた。この|棟《とう》の高所にあたる階の窓は一様にわずかばかりしか開かない|筈《はず》であったが、この部屋の窓だけは、何故か制限がなかった。悠が窓を全開にすると涼しいが吹きこんできた。眼前に広がる地方都市の夜景が悠には別世界のように思われた。六階から見下ろす景色に人通りは無かった。
 悠はしばらく、黙って眼下を眺めていた。完全なる解放への道が通じているように思えた。残されたたったひとつの逃避行に身を|委《ゆだ》ねようとしたものの、落下の恐怖がありありと迫ってきた。その場にしゃがみ込んだ悠はカフェインの副作用による吐き気を|堪《こら》えながら考えた。
「怖い。けど、今僕が感じている恐怖に比べたら、なんてことはないのかも。この恐怖は今日乗り越えても、明日もある。明後日も、次の日も、その次の日も。今、恐怖を乗り越えれば、それから解放される。なら、乗り越えないと。大丈夫、きっと怖いのは一瞬だけだ」
悠は手を広げ、窓枠を|掴《つか》むと、目を閉じたまま、一気に身体を空中へ放り出そうと腕に力を込めた。その時。
ガチンと巨大な歯車の|噛《か》み合うような音が町中に響いた。
悠の腕から力が抜け、彼はその音の出所を探るように空を見渡した。
「なんだ、今の」
明らかに空耳ではない大きさの音に悠の|不審《ふしん》が増幅していると、やがて町を覆いつくす程の大きさもあろうというモーターの駆動する音が聞こえた。徐々に回転が速くなるように高まってゆくその音はついに悠の|可聴域《かちょういき》を超えたかのように静かになった。
「止せ」
空から拡声器で叫ぶような声が聞こえた。悠は一瞬間、ストレスのために自分が発狂したのではないかと疑った。しかし、それを否定するかのように声は続いた。
「君だ。理学部棟の六階から飛ぼうとしている君だ。止せ」
「僕のこと?」
悠は|律義《りちぎ》にもこの超常的音声に返答した。
「そうだ。君だ。良かった。音声の伝達に不具合は無いようだ。死ぬのは止せ」
「誰?」
悠は小さな声で呟いた。声の主にそれは届いたとみえ、返答が降ってきた。
「世界システムの管理者だ。ちょうど今、それを起動させたところなんだ。良かった。間に合って」
「世界システム? 何のこと?」
悠は再び、自分が発狂したという可能性を信じ始めた。
「君のいる時点では存在しないシステムだ。私のいる時間軸で、丁度、先程完成したところなんだ。このシステムは世界のあらゆる時間や空間に|干渉《かんしょう》できる。世界が明らかに間違った|分岐《ぶんき》に進もうとするのを|阻止《そし》するためにね」
|壮大《そうだい》な話を、悠は半分以上、信じきれないでいた。
「時間や空間に干渉? とんでもないことだ。それに間違った分岐って?」
「君が自ら死を選択するという未来のことさ。世界から君が失われることはとんでもない損失だ。だから、死ぬな」
「僕が死ぬことが、損失」
悠の脳裏に浮かんだ数々の言葉と景色が|自嘲《じちょう》を生んだ。
「そんなわけないだろう! 何もできない、誰の期待にも応えられない僕が!」
「今の君に何ができて、何ができないのかなんて問題じゃない。ましてや誰かの期待に応えられるかどうかなんて、どうでもいいことだ。大事なのは君が生きるという選択をすることだ」
声は落ち着き払った様子で、はっきりと告げた。しかし、悠の意志は固かった。
「僕にとっては大事なことなんだ」
そう言いながら、悠の目には涙が|溜《た》まり始めた。
「君の状態は、私もよく知っているつもりだ。だから、この意見が|直《す》ぐには君に受け入れられる|筈《はず》もないことだって、分かってる」
|悔《くや》し気な声はしばらくの間止んでいたが、直ぐにまた降った。
「教えて。今の君にとって、君自身は本当に何もできない?」
「うん」
「だから死ぬの?」
「うん」
「他に死ぬ理由は?」
「怖くて、苦しい。逃げ出したい」
悠の|頬《ほお》を涙が伝った。久しく忘れていた感覚だった。モーターの音が鈍ったのかと思う程の重低音が響いた。それはどうやら声の主の唸り声であるようだった。
「ひとつずつ片付けよう。先ずは恐怖と苦しみからだ。私から言えることはひとつ。世界はそんな|狭《せま》い研究室の中だけじゃない。広い世界には、君が勝手に思い込んでいるテンプレートの例外が幾らでもある。逃げようと思えば、君は何処へだって逃げ出せる。|忍従《にんじゅう》の果てに君が自ら死を選ぶくらいなら、そこから逃げ出せばいい。もちろん、言う程簡単じゃないのは分かってる。でも、可能性はあるんだ。もちろん、あと少し、忍従するって手もある。死ななくとも、いいんだ。いいかい。自殺は悪だ。間違ってる」
声は強い意志を帯びて響いた。
「そんなの、あんまりだよ。こんなに苦しいのに」
悠の涙声は蚊の鳴くような音だった。
「分かってる。私だって、苦悩の果てにその選択肢を選んでしまった人やそうするしか道がなかったという人を知らない訳じゃない。そんな人たちにとって死は救済にすら思えただろうね。その人たちの安寧は守らなくちゃいけない」
声は悔しそうに息を乱していた。目の前の町はまるで何事も起きていないかのように凪いでいた。
「でも、君はまだ、生きてる。私は生きている人に自殺を美化するような言葉はかけられない。こんな言葉はその苦しみを間近に体験していない偽善者の言葉に聞こえるかもしれない。そうだとしても、なん度だって言うよ。自殺は、悪だ。その選択をしてはいけない」
悠はその場に崩れた。
「でも、こんな僕が生きてたって、なんにも……」
「そう、次はそこだ」
声が被せるように響いた。
「君は自分に何もできないと、そう言ったね。じゃあ、その。なんだ。もし、そうでないと分かったら、死なないでくれるかい」
声は何かを言い|淀《よど》んでいるようであった。
「さあ」
悠がそう返すとしばらく、うーん、という声がしていたが、やがてひそめた声でこう続けた。
「ここから先のことは内緒にしておいてね。ばれるとまずいから。それに詳細までは語れない。こちらにも事情があってね」
かなりの音量で降る声に内緒も何もないだろうと、悠は反論しなかった。
「私がいる、この世界。君が生きるという選択をしたその未来の話だ。そこでの君は今、僕がこうして語りかけている世界システムの設計に携わっている重要な人物だ」
「僕が、設計?」
他の世界に干渉するという、とてつもないシステムの設計に自分が関与しているなどと、悠にはとても信じられなかった。
「システムといっても、これは物質世界の機械の話じゃない。精神的深層で行われる研究と開発だ。世界は常に複数の可能性を帯びて同時に存在している。でも、間違った分岐が多く発生すると、正しかった|筈《はず》の世界へ向かう確率はゼロに収束して、こちらの世界は消える」
理科系の大学院生の脳でも、処理が追い付かなかった。
「つまりね。これは私たちのためでもあるんだ。君が今死ぬと、私たちも消えるかもしれない。そして、世界のそんな構造を探り当て、精密に構造を研究し、世界システムを実用化に結び付けた人がいる。その人はひたすら、過去の自分と同じような人を生まないためだけに、研究してるんだ。もっと未来の世界では世界システムで大勢の人が間違った選択をせずに済んだという報告もある。ね、君。これがどれほど偉大な事か分かるかい? 開発チームのリーダーであるその人の名前は、板垣悠。君だ」
時が止まったかのような衝撃が悠を撃ち抜いた。
「僕が? そんなの、嘘だ」
「嘘だと思うなら、確かめてみればいい。生き延びるんだ。生き延びた君を観測すると、どのような分岐を選んだとしても、必ず、この研究に携わることになってる。あらゆる形でね。そして、君の大規模な――チームのメンバーもまた、――だ。世界に沢山――。彼らは――。私はこれから、そんな人たちに――ステムを使って語りかけるんだ」
徐々に、声にノイズとモーターの鈍い音が混じるようになっていた。
「あれ、試運転――接続が安定しない。接続が――れそうだ。いいかい。君、いや板垣リーダー。――誤った選択をしな――。どんな手を――もいい。――生き延び――。君に幸せな――あることを、私は――。だから、どうか――」
声は途絶え、モーターの音も消えた。近くの道路を車が行き交う音が悠に認識され始めた。彼はしばらく、その場に座り込んだまま動かなかった。
「そんなの、ありえない」
そう口にしながらも、彼には今の話を何故か否定しきれなかった。これ言葉が己の発狂によるものなのか、真実であるのか、気になり始めていた。

 涙を|拭《ぬぐ》った悠は落ち着いて、窓を閉めた。世界にある超常的な現象を前にして、明日の怒号に対する恐怖がほんの少し、和らいだような気がした。
「どれだけやっても、結局怒られるんだよな。なんだよ、世界システムって」
急に様々なことが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
 悠はパソコンを閉じ、研究室の電気を消し、帰路についた。見上げた夜空は何処までも広く、彼を包み込んでいた。いまだ恐怖と不安を抱える彼は、今、世界の分岐を正しい方へと導いたのであった。
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