終末絵図(侑依の場合)

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

更新日: 2024/09/10 23:26
SF

本編


「おお! いいね、屋上というのは。見晴らしは良好、そして物が少ない。人が入った形跡もなし。ヤッホー」
|侑依《ゆい》は子供のようにはしゃぎながら手すりまで走っていった。|彩花《あやか》はそんな後姿を母親になったような気持ちで見つめていた。侑依は手すりまでたどり着くと、今度はずっと遠くを見据えたまま、動かなくなった。彩花はその背中に向かってゆっくりと近づいていった。侑依と同じ方向に目を向けたが、彼女が何を見ているのか、分からなかった。|凪《な》いでいるような街並みの中を自動車や人がまばらに行き交っていた。
「やっぱりここに来てよかった。町が見晴らせる。彩花、ボクはね。今、世界を見ているんだ。」
「純化された世界をってこと」
「そうさ。世界はだんだんとあるべき姿に戻りつつある。何より人間がそうなっているんだ。例えば、ほら、あそこを見てごらん。トラックが走っていくのが見えるだろう? あれは何を、何処に運んでいるんだろう」
「さあ」
アーティストの真意が彩花には伝わらなかった。
「もちろん、ボクにも分からないさ。食品か、衣類か、それとも家電か。ま、そんなことはどうだっていいのさ。あのトラックは今、走っているんだ。終末において、物流なんか、自分以外の誰かに任せておけばいいのに。どうしてだろうね? もちろん、何も運ばず、ただ走っているだけということもあるだろうけど、結局は同じことだ」
彩花には少し、侑依の言いたいことが分かってきた。
「それが、その人の為すべきことだから?」
「そう。規則もなんにもなくなった今、人を動かしているのは真なる意思のみだ。人は今、なんのしがらみもなく、ただ一個体として生きてるんだよ。階級も、役職も関係ない。山ほどの資産があってなんになる? 高い地位についていたからどうした? 優れた学歴がなんだ? 皆、皆、どうでもいいことだったんだよ! 見たまえ今のこの世界を。ボクたちの信じていたものはことごとく崩れ去って本質だけが残った。これが純粋世界の美だよ。ご覧! これが世界だ」
突然、侑依は手すりを乗り越えた。彼女の靴の先端が校舎の|縁《ふち》から中空にはみ出していた。
「ニッシー! 何してるの!」
彩花は思わず、彼女の制服の|襟《えり》を|掴《つか》んだ。
「彩花、落ち着いて」
彩花を動揺させた張本人は至って冷静だった。
「ボクが今飛び降りたなら、どうなるだろうね。無論、ボクは死ぬ。それで? 普段なら警察だか救急だかが飛んできて、先生は会見を開かなくなるかもしれない。地元の新聞社かなんかが入ってきて妙な記事を書くかもしれない。女子校生、謎の自殺、なんてね。でも今、そんなことをする人間が居ると思うかい? つまりはボクの生死すらどうでもいいんだよ。どうだ、世界というのはこんなにも無表情なんだ。ただただ、己の為すべきことを為せばいい! そんな世界に生きてるなんて、身震いがするよ。好きに生きればいい。以前、世を悟ったような連中が偉そうにコピーアンドペーストでまき散らしていた上っ面のだけの|戯言《ざれごと》がとうとう現実になった! 嗚呼、ボクは嬉しいよ」
彼女の襟をしっかりとつかんだまま、彩花は侑依がヘンなのではなく、ヘンタイなのだと確信していた。侑依はようやく手すりからこちらへ、ひらりと戻ってきた。
「ちょっと。驚かさないでよ」
「ごめんごめん。死ぬつもりはなかったんだ。ボクにはしなくちゃならないことがあるからね」
侑依は地平線の方に目を向け、動かなかった。
「ボクはこの世界を音楽にしたいんだ。以前作ったような世界への怒りなんかじゃない。そんな、そんなくだらない曲じゃない。今のこの世界、信じたもの皆消え去った純粋世界の美を表現したいんだ。タイトルはもう決めてある。アディオス、さ」
「アディオス?」
「そう。純化され、滅びゆく世界にボクからの挨拶さ。洒落てるだろ。もしかすると、これがボクの作る最後の曲になるかもね」
その言葉が、急に彩花に現実を突きつけた。
「ねえ、ニッシー」
「なんだい」
「絶対、絶対その曲、聞かせてね」
侑依は静かに頷いた。

 二人が食堂の前に差しかかった時には昼近くになっていた。何気なく食堂の中を覗いた彩花が足を止めた。
「ねえ、ニッシー。誰かいる」
「え?」
薄暗い食堂の一角、鍋を前にした女性とその近くに座る人物の後姿が見えた。
「なんだろうね。入ってみようか」
侑依が先に立って食堂の扉を開けた。
「いらっしゃいませ。カレー、いかがですか」
家庭的なエプロンを着けた女性が良く通る声を出した。座っていた人物も反射的に二人の方に目を向けた。|平生《へいぜい》なら時間を問わず混雑している食堂を、二人はスムーズに歩いていった。
「カレー?」
彩花の目はカレーの鍋と女性の顔とを交互に見ていた。
「そう。お代はいりませんよ」
「では、いただきます。彩花も食べないかい。ボク丁度、お腹がすいてたんだ」
侑依が手近な椅子に腰を下ろすと、彩花もそれにつられて腰を下ろした。
「はい、どうぞ」
二人の前に湯気の立つカレーが置かれた。
「わあ。美味しそうだ。いただきます。うん! 美味しいよ彩花」
カレーに舌鼓を打つ侑依の隣で、彩花はカレーとにらめっこしていた。
「カレー嫌いでしたか」
エプロンの女性は不安げな顔で彩花を覗いた。
「いえ、そうじゃなくて。あの、どうしてこんなことを?」
女性はしばらく宙を眺めていたが、やがて口を開いた。
「これぐらいしか、できることないですから」
彩花はまだ釈然としなかった。
「世界がもうすぐ終わってしまうとなって、色々、変になってしまいました。そんな中で、私は誰かのために何かしたいと思ったんです。でも、私にできることは少ない。だからせめて誰かが少しでも元気になってくれたらと、働いていたここで毎日料理を振舞うことに決めたんです」
儚げな笑顔が彩花には力強く思えた。為すべきことを為す。侑依の言っていた言葉の本質に、彼女は接した気がした。
「あの、もしかして、|東条《とうじょう》と西沢? 俺、清水」
振り向くと、これまで一人でカレーを食べていた人物と目が合った。
「あの清水君かい?」
侑依が声を上ずらせたのも、もっともであった。学校一の|美貌《びぼう》と称されたかつての生徒会長はやつれた|頬《ほお》で目の下にはくまを作っていた。
「ああ。あんまり話したことなかったけど、覚えててくれた?」
「もちろん。我らが生徒会長だからね。ね、彩花」
彩花はカレーを食べながら頷いた。
「そうか。それは嬉しいな。二人はどうして学校に?」
「きまぐれついでに世界を摂取しに来たんだよ」
「世界? 摂取? 相変わらず、西沢は独創的だな」
彩花はまたしても無言で首を振った。
「それで? 生徒会長はどうして学校に?」
カレーの匂いの立ち込める空間に、清水はしばらく|俯《うつむ》いたまま返事をしなかった。
「えっと。ここで臨時の食堂をやってるって聞いてね。それでなんとなく」
侑依は憔悴し、目を合わせようとしない彼の様子を注意深く、観察していた。
「清水君は時々来てくれるんですよ。ここがきちんと生徒の食堂になっていた時より|頻繁《ひんぱん》に。ね」
「家に居ても、誰とも話すことはないし、ここに来るとなんだか安心できるんだよ。二人とも、よかったら今後も来たらどうだい」
「それはいい。楽しみができたよ」
「うん」
カレーを食べ終えた彩花は大きく頷いた。
 これまで接点のなかった清水と二人は臨時食堂の中で急激に接近していた。話題は尽きなかった。校長のカツラが発覚した重大事件、トイレで喫煙した生徒がいたために起こった火災報知器騒動、昼休みに起きたシュールストレミング爆発事件、北塚君の二股に端を発した緊迫のホームルーム。少しずつ、彼女たちは終末の現実から解放され、ただの高校生に戻りつつあった。
「あったあった。そんなことも。北塚は濡れ衣だよ」
「そうなのかい? てっきりボクはクロだと思っていたんだけれど」
「うん、私もそうだと思ってた」
「そうじゃないんだよ、北塚はなんにもしてなくて、噂だけが独り歩きしていたのさ。一説によると、被害者の女生徒の自作自演だってさ」
「それであの騒ぎかい? 恐ろしいな」
取り戻せない|筈《はず》の平穏な日常が仮想としてでも、確かにそこに実現していた。
「清水君」
突然、侑依が清水の方へ目を向けた。
「何?」
「君、随分表情が柔らかくなったじゃないか」
「そう、かもね」
「確かに、さっきとは別人みたい」
「だって、こんな風に人と喋るのなんて、もうできないと思ってたから。それに、いつ世界が終わってしまうのかって考えると怖くて。でもふたりと話しててそれをすっかり忘れてた。ありがとう」
安堵の息をつく侑依の隣で彩花が声をあげた。
「じゃあ、これからも会おうよ。私も、世界が終わるのが怖くて、不安で仕方なかったんだ。でも、今は清水君と同じ思い。ニッシーはどう?」
「ああ。いいんじゃないかな。これでボクにも作曲以外の楽しみができたよ」
正午を過ぎても、彼らの声ががらんどうの食堂に響いていた。

「私は先に洗い物を済ませてしまうわ。ゆっくりしていってね」
やがて女性は空の皿を持って洗い場の方に消えていった。
「ところで彩花、清水君。今晩、抜け出せるかい」
侑依が声を潜めて尋ねた。唐突な質問に彩花だけでなく、清水も戸惑っていた。
「どうして?」
「海を見にいかないかい? 君が見た夜光虫の海を、ボクも見てみたい。清水君だって興味があるんじゃないかな。どう?」
「夜光虫って、あの光るヤツ? 見たことないな。見られるのかい」
「ああ。彩花が見てるんだ。今夜、どう?」
侑依は親指を立て指先を背後へ動かす素振りをした。
「小学生に戻ったと思って冒険ごっこさ」
「冒険、か。いいね。ウチの両親は不干渉だから何時でもいけるさ」
清水は笑みを作りながら賛同した。
「生徒会長に深夜|徘徊《はいかい》をさせることになるけど、いいのかい?」
「いいさ。こんな状況で規則も何もあるもんか」
彩花は湧き上がる興奮を抑えるのに精いっぱいであった。
「じゃ、行こう! ニッシー、清水君! なん時にしようか」
「今夜の零時。ここに集合だ。本当はそれまで一緒に居てもいいんだけど、ボクには作曲があるから、そろそろ家に戻るよ。君たちはどうする?」
「私は、もう少し清水君と話していようかな。いい?」
「ああ。東条がいいのなら。俺は別にすることもないし」
「そうかい。じゃ、ボクはいったん失礼するよ。また夜にね」
侑依は二人に別れ、正門の方へと歩きだした。
「純化された世界はかくも美しい。終末は嘘でした、なんて結末はあり得ないと思っていたけれど、それも悪くないのかな。いや、これも終末があったからこそのストーリー、か。さ、ボクはボクの為すべきことをしなきゃね。純粋世界の美を表現しないと」
侑依は正門を出るとアディオスのフレーズを口ずさみながら家路についた。
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