いちょうさん

作家: トガシテツヤ
作家(かな): とがしてつや

いちょうさん

更新日: 2024/09/07 23:32
現代ファンタジー

本編


 ――ツイてない……。

 下校中、自転車の後ろのタイヤがパンクした。自転車屋まで、ここから4キロはある。4キロなんて、自転車だったらあっという間に走り抜ける距離だが、歩くとなると、思った以上に遠く感じた。11月も半ばを過ぎ、すっかり肌寒くなったものの、さすがに自転車を押して歩いていると、汗が出てくる。

 やがて、いちょう屋に辿り着いた。自販機でペットボトルのサイダーを買い、ベンチに腰掛ける。自転車屋まで、あと2キロくらい。

 いちょう屋は小さな個人商店だが、もうずっと前に潰れて、シャッターが閉められたままになっていた。今は、空に届きそうな大きないちょうの木が、自販機と一緒に佇んでいる。
 小学生の時は、ちょうど通学路の途中にあって、下校中に店のおばちゃんが「これ、持って行きな。お母さんは内緒だよ?」と、よくお菓子をくれたっけ。

 ――おばちゃん、元気なのかなぁ。

 ふと、そんなことを考える。中学生になって、いちょう屋の前を通ることはなくなった。おばちゃんの姿は、もうずっと見ていない。

 いちょうの葉が、風に揺られてざわざわと揺れる。冷たい風に当たっていると、汗が引っ込んだ。もうすぐ夕方になる。寒くなる前に自転車屋まで行かないと……。
 サイダーをグイっと飲み干し、自転車を見ると、小さな女の子がしゃがんで僕の自転車を見ていた。

 ――誰だ? 一体どこから来たんだ?

 女の子は浴衣……じゃなくて着物を着ている。祭りにしては、ずいぶん季節外れだ。面食らっている僕をよそに、女の子は僕を真っすぐに見た。

「自転車、壊れちゃったの?」
「うん。タイヤがパンクしちゃったんだ」
「ふーん」

 女の子は自転車の周りをぐるぐると回る。

「あのさ……これから自転車屋さんまで行かないといけないから」
「直ったよ?」
「は?」

 僕が間抜けな声を出した瞬間、強い風が吹いた。地面に落ちていたいちょうの葉が風に舞い、視界を遮る。

 風が止むと、女の子の姿はなかった。

 ――何だったんだ?

 呆気に取られていると、突然、ガラガラといちょう屋のシャッターが開いた。

「おや、久しぶりだねぇ」

 ――おばちゃん!

 あの頃と全く変わらない笑顔だった。

「どうかしたのかい?」
「自転車がパンクしちゃって、これから直しに……あれ?」

 ――直ってる!

 パンクしたはずのタイヤに空気が入っている。

「なんで? どうして?」
「あー、きっといちょうさんが直してくれたんだね。お礼を言わないと」

 おばちゃんはいちょうの木に手を合わせた。

 ――もしかして、さっきの女の子?

 いちょうの木とおばちゃんを交互に見る。

「運がいいねぇ。いちょうさんには、滅多に逢えないんだよ?」
「そう……なんだ」

 僕もいちょうの木に手を合わせ、心の中で「パンクを直してくれて、ありがとうございます」と、礼を言った。

「また寄っておくれよ? ベンチ、綺麗に磨いておくからさ」
「うん。分かった。じゃあ!」

 自転車に跨り、おばちゃんに手を振る。
 チラッといちょうの木を見ると、さっきと同じように葉がざわざわと揺れていた。風に乗って、金色のいちょうの葉が僕のところに届く。

 僕は勢いよくペダルをこぎ出した。

 ――次に逢ったら、直接お礼を言わなくちゃ。
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