栞の秘密
栞の秘密
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
私には忘れられない本がある。
正しくは、捨てられない、手放せない本だ。
私は仕事柄、転勤が多い。その度に引っ越し荷物をまとめなくてはならないのでなるべく物は増やさないようにしている。
それでも、読書が趣味の私はいつのまにか本が増えてしまう。そのため引っ越しするときには、ほとんどの本を売るなどして処分する。
しかしこの本だけは引っ越しの度に目にしては、結局、次の家へ持って行ってしまう。そういう本だ。
あれから6年も経っている。
いい加減、整理をつけなくてはと思うのだが上手くいかない。今回も手放せずに連れて行くのかと本を眺めながら自分に呆れていた。
一本の電話が鳴る。
スマホの画面には表示されるはずのない名前があった。私は高鳴る胸を抑えながら、電話に出る。
「…もしもし」
「…出てくれたんだな。久しぶり」
懐かしい声に、言葉が出てこない。
やっとの思いで声を出す。
「どうしたんですか?」
「ちょっと会えないかなと思って」
予想外の展開にどうしたらいいのかわからなかった。私が黙っていると彼は
「話があるんだ。電話じゃできない」
話…今更何を?
でも、断る理由が見つからない
「わかりました。どうすればいいですか?」
「明日、18時にあの喫茶店はどう?」
私は了承して電話を切った。
6年前に別れたあの人からの電話。
もう二度と会えないと思っていた。
今更という呆れた思いの中に、嬉しい気持ちがあることを私は隠すことが出来なかった。
翌日。
約束の喫茶店に私は時間通りに着いた。
彼はまだ来ていないようだ。
昔、よく待ち合わせに使っていた街から少し離れた喫茶店。
6年前のあの日のまま時が止まったかのような場所。私は当時と同じ席に座り、そして当時と同じくココアを頼んだ。
「…甘い」
その甘さがさらに記憶を呼び覚ます。
あの日も彼は、約束の時間に遅れて来た。それはいつものことで、私はあの日もいつものように文庫本を開いていた。
そう、6年間手放せなかったあの本を。
3分の2ぐらい、読み進めたところだった。彼が来たので私は栞を挟んで閉じた。
その後、彼は私に別れ話を切り出したのだ。
約束の時間から15分、まだ来ない。連絡ひとつよこさない。あの人らしいけど、少しは成長してほしい。
私はあの日から一度も開けていない文庫本を開いた。栞を指でなぞる。
ここから先はまだ読んだことがない。読めなかったのだ。この本を読み終わってしまったら、すべてが終わってしまう気がして。
あの人との、すべてが。
だけど今なら、読めそうな気がする。
あの日にタイムスリップしたかのような今なら…。
勢いよくドアベルを鳴らして彼が入ってきた。
「ごめん。仕事が長引いて…」
私は笑いがこみ上げてきた。セリフまであの日と同じ。この人は、変わらない。
「連絡ぐらいしてくださいよ。1時間の遅刻です」
「すまない…」
懐かしいやり取り。本当に6年前に戻ってしまったんだろうか。
彼はアイスコーヒーを頼むと、私をじっと見つめてきた。
「綺麗になったな」
「なっ…」
突然のことにびっくりしてしまう。
でも、彼はそういう人だった。女性が言って欲しい言葉を惜しげもなく言える人。
「…話ってなんですか?」
「あぁ…うん…」
彼は、しばらく沈黙したあと、意を決したように顔を上げた。
「今更俺が言えることじゃないんだけど、…妻と別れたんだ。だから…その…また俺と付き合って欲しい」
『妻と別れた』
6年前、私が欲しかった言葉だ。
いけないことだってわかってた。でも、私はその言葉が欲しかった。欲しくて欲しくて、だけど絶対にくれなかった。
「…ごめんなさい…。私、結婚するんです。だから…」
とっさに嘘をついた。
結婚どころか付き合っている人さえいない。
正直、心が揺らがなかったわけじゃない。でも、私は彼を待っている間に、あの本を読み終えてしまったのだ。
あんなに終わるのが嫌だったのに、実際、読み終えてみると特段、湧き上がってくるものなどなかった。
私の中で、とうの昔に終わったことだったのだ。
「そうか…。そうだよな。あれから6年も経ってるんだもんな。…幸せにな」
そう言うと、頼んだアイスコーヒーも飲まずに店を出て行った。
これで良かったんだと、思う。
私は喫茶店をあとにした。
あの本は、喫茶店のテーブルに置いたままだ。栞だけ持ってきた。次の読みたい本が見つかったら使おうと思う。
今度は繰り返し読める本に出会いたい。
0正しくは、捨てられない、手放せない本だ。
私は仕事柄、転勤が多い。その度に引っ越し荷物をまとめなくてはならないのでなるべく物は増やさないようにしている。
それでも、読書が趣味の私はいつのまにか本が増えてしまう。そのため引っ越しするときには、ほとんどの本を売るなどして処分する。
しかしこの本だけは引っ越しの度に目にしては、結局、次の家へ持って行ってしまう。そういう本だ。
あれから6年も経っている。
いい加減、整理をつけなくてはと思うのだが上手くいかない。今回も手放せずに連れて行くのかと本を眺めながら自分に呆れていた。
一本の電話が鳴る。
スマホの画面には表示されるはずのない名前があった。私は高鳴る胸を抑えながら、電話に出る。
「…もしもし」
「…出てくれたんだな。久しぶり」
懐かしい声に、言葉が出てこない。
やっとの思いで声を出す。
「どうしたんですか?」
「ちょっと会えないかなと思って」
予想外の展開にどうしたらいいのかわからなかった。私が黙っていると彼は
「話があるんだ。電話じゃできない」
話…今更何を?
でも、断る理由が見つからない
「わかりました。どうすればいいですか?」
「明日、18時にあの喫茶店はどう?」
私は了承して電話を切った。
6年前に別れたあの人からの電話。
もう二度と会えないと思っていた。
今更という呆れた思いの中に、嬉しい気持ちがあることを私は隠すことが出来なかった。
翌日。
約束の喫茶店に私は時間通りに着いた。
彼はまだ来ていないようだ。
昔、よく待ち合わせに使っていた街から少し離れた喫茶店。
6年前のあの日のまま時が止まったかのような場所。私は当時と同じ席に座り、そして当時と同じくココアを頼んだ。
「…甘い」
その甘さがさらに記憶を呼び覚ます。
あの日も彼は、約束の時間に遅れて来た。それはいつものことで、私はあの日もいつものように文庫本を開いていた。
そう、6年間手放せなかったあの本を。
3分の2ぐらい、読み進めたところだった。彼が来たので私は栞を挟んで閉じた。
その後、彼は私に別れ話を切り出したのだ。
約束の時間から15分、まだ来ない。連絡ひとつよこさない。あの人らしいけど、少しは成長してほしい。
私はあの日から一度も開けていない文庫本を開いた。栞を指でなぞる。
ここから先はまだ読んだことがない。読めなかったのだ。この本を読み終わってしまったら、すべてが終わってしまう気がして。
あの人との、すべてが。
だけど今なら、読めそうな気がする。
あの日にタイムスリップしたかのような今なら…。
勢いよくドアベルを鳴らして彼が入ってきた。
「ごめん。仕事が長引いて…」
私は笑いがこみ上げてきた。セリフまであの日と同じ。この人は、変わらない。
「連絡ぐらいしてくださいよ。1時間の遅刻です」
「すまない…」
懐かしいやり取り。本当に6年前に戻ってしまったんだろうか。
彼はアイスコーヒーを頼むと、私をじっと見つめてきた。
「綺麗になったな」
「なっ…」
突然のことにびっくりしてしまう。
でも、彼はそういう人だった。女性が言って欲しい言葉を惜しげもなく言える人。
「…話ってなんですか?」
「あぁ…うん…」
彼は、しばらく沈黙したあと、意を決したように顔を上げた。
「今更俺が言えることじゃないんだけど、…妻と別れたんだ。だから…その…また俺と付き合って欲しい」
『妻と別れた』
6年前、私が欲しかった言葉だ。
いけないことだってわかってた。でも、私はその言葉が欲しかった。欲しくて欲しくて、だけど絶対にくれなかった。
「…ごめんなさい…。私、結婚するんです。だから…」
とっさに嘘をついた。
結婚どころか付き合っている人さえいない。
正直、心が揺らがなかったわけじゃない。でも、私は彼を待っている間に、あの本を読み終えてしまったのだ。
あんなに終わるのが嫌だったのに、実際、読み終えてみると特段、湧き上がってくるものなどなかった。
私の中で、とうの昔に終わったことだったのだ。
「そうか…。そうだよな。あれから6年も経ってるんだもんな。…幸せにな」
そう言うと、頼んだアイスコーヒーも飲まずに店を出て行った。
これで良かったんだと、思う。
私は喫茶店をあとにした。
あの本は、喫茶店のテーブルに置いたままだ。栞だけ持ってきた。次の読みたい本が見つかったら使おうと思う。
今度は繰り返し読める本に出会いたい。