役立たずの詩

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

役立たずの詩

更新日: 2024/08/01 23:53
その他

本編


  役立たずの詩
 ここにひとり、男があった。彼は、とんでもない幸運ととんでもない不幸をひとつずつ抱えていた。幸運とは即ち、彼は自らの|為《な》すべきことを知っていた。それは|詩《し》をつくること。心に渦巻く色とりどりのマーブル模様からスポイトで|一滴《いってき》、言葉を|採《と》る。それを|紡《つむ》ぐことの喜びを、彼は知っていたのだった。つまり、彼は本物の詩人だったのだ。天命を見つけたことは彼にとってこの上ない喜びであった。しかし、それを帳消しにする程の不幸をも、彼は持っていた。不幸とは即ち、生まれる世界を誤ったこと。一切を|違《たが》えない|筈《はず》の神はしくじった! 彼ほどの大詩人を、文明だけが進んだ世界に生み落としたのだった。
 世界は効率化と最適化に加速させられ、偉大なる詩人は日々、食いつなぐために労働を余儀なくされていた。詩人は少しばかり、人よりも感覚が過敏だった。LED電球が気味の悪い程|眩《まぶ》しい。雑音が|脳髄《のうずい》をかき乱す。そして彼は他人の顔色ひとつ、変わったのを見過ごさない。それがこの世界では|仇《あだ》になった。精神は少しずつすり減りその欠片が質量さえもって彼の心に溜まっていった。彼は次第に、上手く労働ができぬようになっていった。誰もが彼のことをカワリモノと呼んだ。誰もが彼のことを役立たずと認識するようになった。決して周囲が悪で彼が善というわけではない。神が、彼を生む世界を間違えたのであった。
 その世界に彼の詩を読む者はいなかった。それでも。嗚呼、それでも彼は詩をつくり続けた! そして日々を生きていた。誰にも届かぬと知っていながら己の為すべきことを為す彼の|勇敢《ゆうかん》が、君には分かるだろう? あるいは愚かと切り捨てるか?
 彼は、勇敢な大詩人である。

 彼は朝の十時きっかりに作業台についた。顧客情報をひたすらにコンピュータに入力するという作業を、彼はもうなん年も続けていた。今日も無味乾燥の労働が幕を開け、彼は指先を素早く動かしながらデータを入力していった。彼に自覚はなかったものの、その無意識化では常時、言葉の洪水が我を排出せよと言わんばかりに激しく|飛沫《しぶき》をあげていた。その一滴一滴に彼の注意力は|散漫《さんまん》になり、幾つもの入力ミスを生んでいた。
 昼過ぎになり、彼は休憩室に入った。先に居た女子高生が彼を認め、声をかけた。
「サッキー、きゅーけー?」
「うん。一時間ね。|引地《ひきち》さんは?」
「あとちょっとで戻んなきゃ」
「そう」
彼はパイプ椅子に腰かけ、買っておいたパンを食べようとしたのを、やめた。食欲が湧かなかったのだ。しばし、無言の空間に、女子高生がスマートフォンをいじっていた。彼は窓から外の町並みを眺めていた。

 ありきたりな表現だけれど、鳥は自由だ。僕は囚われたようだ。本当はもっと自由になれるんだろうか。僕が、その方法を知らないだけ? どうなんだろう。
「サッキーってさ、普段、何してるん」
「何してると思う?」
会話を繋ぎつつ、彼は必死に考えた。どう乗り切るかを。まさか詩をつくっているなどとは、言えなかった。しかし、適当なことを言ってごまかすこともできない。彼は不幸にも嘘のつけない男であったのだ。
「えー全然想像つかない。ネットで小説とか書いてそー」
一瞬、彼の|鼓動《こどう》が高鳴った。本質に迫られているという危機感に。
「いやいや。書いてないよ。引地さんは? 学校以外は何してるの?」
「こないだ友達とカラオケ行ったー。サッキーは……行かないよね。友達いないもんねー」
「なんだそら。居るわ! 友達くらい」
女子高生からの最大限の親しみの情を、彼は分かっていた。彼は人の情を察することにも長けていたのだ。表情、|声色《こわいろ》、仕草、目線、人が表出する情報から余分なものを排除し、本当に相手が言いたいことを直感で感じ取れるのであった。
「で?」
「でって?」
「だから、普段、何して――」
女子校生が話の流れを戻しかけたその時、休憩室のドアが開いて入ってきた人物があった。
「あ、私、仕事に戻らないと。じゃあねーサッキー」
女子校生は慌ただしく休憩室を出ていった。代わりに入ってきた人物、新谷上長がさっきまで女子校生の座っていた椅子にどっかりと腰を下ろした。たぐい稀なる直観力を持った詩人は、悪い予感に|撫《な》でられていた。新谷がしきりにメガネに触れている。何か良くないことの前触れであった。
「どうも」
彼は努めて何でもない様子を装い、挨拶をした。
「多いな、お前。入力ミス」
「どうも、すみません」
新谷はティッシュペーパーでメガネを拭きながらため息をついた。
「前から言ってるだろ? 全然減らない。なんで?」
「それは、その、注意力散漫で……」
新谷の表情を直視したくなかった彼は、視線を外した。
「注意力な。それもあるけど、やっぱり重要なのは自覚じゃない? 俺たちはみんな、仕事をして、金を貰ってるんだ。だから常にプロとして自覚を持って仕事しないと。分かる?」
「はい、分かります」
ふと上げた目が新谷の表情を捉えてしまった。そこに|侮蔑《ぶべつ》の表情はなく、指導者としての“自覚”と男の将来を案じる気持ちが宿っていた。新谷は机に両肘をつき、少し前のめりになりながら話を続けた。
「先ず、そこなんだ。どんな仕事をする上でも一番重要な事、それが自覚。それがない奴は何をやったって駄目なわけ。俺も昔は――」
詩人は話を聞くことも、上手かった。相手が今どんな|相槌《あいづち》を求めているのか、どんな話がしたいのか、どう返答してほしいのか、手に取るように分かった。新谷の話は二転三転しながら、詩人の休憩時間が終わるまで続いた。

 新谷に幾つかのミスを指摘されながら業務を行ない、彼は夕焼けがその見事な色彩をなくす頃になってようやく、自室に戻ってきた。手早くシャワーを浴びると、詩人は机に向かってノートを広げ、鉛筆を持った。本来であれば、ここから、偉大な詩人たる彼の真の作業が始まるのであったが、今日はなかなかそれが始まらなかった。情報過多な労働は、彼にとってひどく疲れるものであった。今、詩人の脳内では自分自身ですら認識できぬほどの速度で大量の情報が駆け巡っていたのであった。

 なんで僕は人並みにできないんだろう。いつまで経ってもミスばかりだ。僕より後にあの仕事を始めた人はもう、皆僕より仕事ができる。手早く、ひとつのミスもなく。なのに僕だけがいつまで経っても成長できないまま。落胆されるのが怖い。いや、もうされている? 期待に応えたいような、そんなことせずにひねくれてやりたいような。嗚呼、結局僕は優柔不断なんだ。何ひとつ決められやしない。僕は、やっぱり役立たずなのか。どうする? これから。いつまでこんな生活を続ける? 世間の人よりも短い労働時間で少ない給金を貰って、空いた時間で詩をつくる。こんな怠惰な生活をいつまで続けるんだ。やっぱり、詩なんてなんにもなりやしないのか。でも、僕はこれを止めることはできない。いや、これは甘えか? いっそ、正規の仕事に|就《つ》こうか。いや、きっと駄目だ。僕は今の仕事ですらまともにできないのに。嗚呼、なんで僕はこんなにも無力なんだ。なんでこんなにも役立たずなんだ。

 詩人を誰よりも役立たずと認めていたのは、彼自身であった。偉大な詩人よ、聞け! それは皆、妄想だ。幻覚だ。君は立派に詩人として在るじゃないか。それ以外に何が必要だ。惑わされるな。君ほどの人物が役立たずだなんて、そんな筈がないだろう。正気に戻れ。

 詩人はしばらく、腕を組んで考え込んでいた。やがて、小さく頷いて、鉛筆を走らせ始めた。

 |波線《はせん》を描くロボツトの
 軌跡がなんになりませう
 |錆《さ》びつく|四肢《しし》に差す油の一滴ありません
 もうただ機械は波線を外れず
 進むことを願うのみです
 技師はどうしてこんなにも
 |窮屈《きゅうくつ》なマシンを作つたのですか
 歩こうとしたロボツトまた転んだ
 プログラムの液が少し漏れました

 これは少し|卑屈《ひくつ》すぎると、詩人は顔をしかめた。しかし、その顔は自己否定に呑まれていた時よりもずっと晴れやかであった。少しずつ、詩人は詩人に戻りつつあった。そして自らの理想について考え始めていた。

 僕は、どうなりたいんだ。詩人として、身を立てる? 少し違う。つくった詩が表彰される? やっぱり違う。僕は、僕のつくった詩を本当に必要としている人に届けたいんだ。僕が死ぬまでに、いや、死んだあとだっていい。必要な人に届けば。僕はまだ、純粋にそれを実行できているか分からない。僕の詩を必要としている人なんて、居ないだろうって、心の何処かで信じてしまっているんだ。もし、強靭な精神で、いつかの誰かのために詩をつくり続けている人がいるなら、どんなに立派な事だろう。そんな詩人が居るのなら。

 黙殺の湖面に波は無く
 |尚《なお》|漕《こ》ぎゆく君の姿は勇敢で
 昇らぬ日の丘人は無く
 尚立ち尽くす君の姿は|可憐《かれん》で
 友よあれよと我は泣く
 友よあるぞと我が鳴く
 君の姿は蓮の花
 君の姿は雨の水
 
少し、良いものができたと詩人は頬を緩めた。勇敢で可憐な詩人を夢みて、偉大な詩人はノートを閉じた。
 詩人は電気を消し、布団に入った。しばらく目をつむっていた彼は急に飛び起きて机に向かい、月の光を頼りに、こう書き加えた。

 いつか君と会えたなら
 役に立たない者同士
 肩並べて|詩《うた》つくりませう
 役立たずの|詩《うた》つくりませう

 詩人の前途に、幸あれ。
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