浸水地区04-C

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

浸水地区04-C

更新日: 2024/07/15 18:27
SF

本編


 晴天下。真夏の日光を反射させながらトウゴの運転する水上バイクが水没地区を走っていた。近年、都市は少しずつ、水没していた。今、彼が走っている地区もかつてはトウキョウ・シティで指折りの|繁華街《はんかがい》として知られていた。しかし、数年前にとうとう政府から水没認定を受け、|水底《みなそこ》の遺産と成り果てた。「確か、この辺、昔、親父と来たことがあったっけ」彼は水上バイクを停止させた。水面からまばらに、かつての商業ビルや信号機が顔を出していた。真夏の晴天と人の営みから切り離され、水没した人工物とのコントラスト。彼はこの光景がえも言われず、好きだった。水中に目を向けると、道路標識の近くに小魚が群がっていた。「水、透明度高いな」彼は胸ポケットから煙草を取り出し、電熱ライターで火を点けた。吐いた煙が、空に溶けていった。
 「仕事なんかほったらかして、ここでのんびりしたいわ」
彼は都庁の職員。今日は都市水没対策チームの任務として、水没手前の浸水認定を受けた地区04-Cへと向かうのだった。住民の避難は完了しているとの報告はあったが、念のため、職員が実際に|赴《おもむ》いて、取り残された者がいないか、確認するのであった。しかし、この暑い最中にそんな面倒事、誰だって引き受けたくはない。トウゴは|貧乏《びんぼう》くじを引いたのであった。
 「政府からの指示も何度だって出てるんだ。取り残されてる奴なんていないだろ。居るとしたら、よっぽどのマヌケか、よっぽどの物好きか……」
煙を吐いて、浸水地区の方を眺めると、土地が高いために、ほとんどのビル群が完全に水没することなく、丁度、水面から生えているように見えた。取り残された人工物。物好きの気持ちも、分からないではないような気がした。「さて、行きますか」トウゴは|吸殻《すいがら》を携帯灰皿に収めると、エンジンを|駆動《くどう》させ浸水地区へと向かった。

「うーん。水は建物の二階くらいまでは来てるか。思ったより浸水が進んでるな」
水上バイクをゆっくりと操りながら、トウゴは建物の間を|縫《ぬ》って移動していた。てっぺんの緑を|覗《のぞ》かせる|街路樹《がいろじゅ》が、等間隔に並んでいた。覗き込んでみると、幾らか色の変わった葉が弱い水流に揺られていた。 水上バイクのエンジン音だけが響く、人の居ないビル街に風が吹いた。少し、潮の香りがする風だった。 トウゴはなるべく音をたてないよう、エンジンを最低限に動かしてゆっくりと地区を見回った。
「ちょっとぐらい、さぼったっていいだろう」

 彼は、ある集合住宅の前にたどり着いた。二階の窓まで、完全に浸水していた。
「浸水の基準って、どこまでだっけ。確か、建物の二階まで? だっけか? なら、やっぱり、ここもその内、水没認定か。確か少し前に来たときは、浸水の初期だったから、水の気配なんてまるでなかったけど。どこまで沈むんだろうかな。この都市は」
そう言いながら、彼はその集合住宅の入り口に視線を落とし、そこに幽霊のような人影を投影した。
「あそこから、人が出入りしてたんだ。そして家に帰ったり、出勤したりしてた。どんな生活があったんだろうな。建物は変わらずにあるのに、人間だけが居ない。それが、こんなにも奇妙で、不自然で。でも、なんか、|綺麗《きれい》だ」
集合住宅の公園だった場所に目を向けると、|凪《な》いだ水面が巨大な鏡のようになって周囲の景色と空を映していた。
「人が居なくなって取り残された人工物は少しずつ、自然に返ってゆく。それがあるべき姿なんだ。人類は居ない方が、世界は美しいのかもな」

 住宅街に出た。二階建ての建物のベランダから上と、電柱が点在していた。
 「もう、今日の任務は終わりだな。流石にこんな状況で取り残されてる奴なんていないだろうし」
エンジンを切り、煙草を吸おうと胸ポケットに伸びた手が、止まった。
「ん? あそこ……」
トウゴは目を細めて、あるベランダを|眺《なが》めた。
「誰か、立ってる? 立ってるよな!」
人影をみとめた彼はエンジンをうならせてそちらへと向かった。水上バイクの作った波が水面を分けるように広がった。

 目的のベランダに到着してみると、果たして、そこに立っていた人物があった。|端正《たんせい》な服をまとった女性であった。トウゴは水上バイクを停めると、身分証を出しながら大きな声で呼び掛けた。
「都庁水没対策チームの者です。こんなところでどうなさったんですか」
「いえ、何も」
女性は|淡々《たんたん》と答えた。
「早く非難してください。これに乗って!」
「必要ありません」
トウゴは少し、気味が悪くなってきた。困り果て、女性の顔を見つめているうちに合点がいった。
「あんた。もしかしてアンドロイドか」
「はい」
トウゴの思った通りだった。|昨今《さっこん》のアンドロイドは人間とまるで区別がつかない程の|精巧《せいこう》さだと、聞いてはいた。そして今、それを実感していた。
「アンドロイドが何でこんな所に」
「こちらに仕えておりました」
「仕えてって、もう誰も居ないだろう?」
「はい。主は私を|廃棄《はいき》なさいました」
「なんでまだ動いてるんだ」
「電源が完全に切られていなかったためです」
「何してた?」
「何も」
向かいの屋根に海鳥が止まった。トウゴは水上バイクの上にゆったりと|身体《からだ》を預け、煙草に火を|点《つ》けた。
「喫煙は身体に悪影響を与えると統計のもとに立証されています」
「いいじゃねえか。さてはあんたの主人も喫煙者か?」
「もう私にあった主の情報は削除されています。また、残っていたとしても個人情報ですのでお答えできません」
「そうかい」
トウゴとアンドロイドは同じ方を眺めていた。水面の遥か延長上にトウキョウ・シティが金属質に光っていた。
「あんた、これからどうするの?」
「何もしません。ここに居るだけです」
「じきに水没するぞ。この地区も」
「はい。およそひと月で水没認定が下されると推測されます」
「|幾《いく》ら防水加工がしてあったって泳げはしないだろう?」
「はい。私は水中で全ての機能を停止させると推測されます」
「いいのか。それで」
「いい、とはどういうことでしょうか」
「生きていたい、とか、無いのか」
答えの分かっていることをトウゴはあえて聞いた。
「そのような判断は私が下すものではありません。主が廃棄を決定なさった時、私の運命も決まったのです」
「アンドロイドの口から運命なんて言葉が出るとはね」
トウゴが見たアンドロイドの|頬《ほお》は限りなく人間に近くも、確実に違っていた。
「好きか。ここからの眺めは」
「私にはその様な感情は定義されていません」
「なんでここに立ってた? 充電ポイントが近いのか?」
「住宅の情報が関わる質問にはお答えできません」
「暑いな、今日も」
「本日の気温は三十五度、湿度は八十五パーセントです。大多数の人間にとって暑いと判断される気候です」
「あら、そう」
水上バイクの揺れを感じながら、トウゴは煙草の煙を吐き出した。
「俺さ、水没認定が下りた所とか浸水末期の地区によく行く、いや、行かされるんだけどさ。その度に思うんだ。綺麗だなって。なんかこう、人工物とさ、水とが混ざり合ってるっていうか、そういうのが綺麗だなって思うんだ。水没で家がなくなってる奴もいるのに、|不謹慎《ふきんしん》かもしれないけど。なんでだろうな」
解答を期待していなかったトウゴの方をアンドロイドは、向いた。
「それは決して不可解なことではありません。水に沈んだ町や風景が人の心を|惹《ひ》くのは珍しいことではないのです。その要因としては人工物と自然の明確な境界を持った|融合《ゆうごう》や、廃墟と化した地区の雰囲気と静かな水面のイメージが合致しているということが挙げられるでしょう。そして」
「そして?」
煙草をもみ消し、トウゴは前のめりになってアンドロイドを見つめた。
「自然への回帰を連想するからだと言えます」
「自然への、回帰?」
「はい。人工物とは人間がいた証。流動の証。それが|唐突《とうとつ》に役目を終え、水に浸食されてゆく。そこから人は諸行無常を感じ、それらがあるべき姿に戻ってゆくのを感じるのだと推測されます」
トウゴの感性に、情報の骨格が与えられた。海鳥の鳴き声が遠く、聞こえた。

「じゃ、もう行くわ」
これ以上居れば情が移りそうだ、とは言わなかった。
「さようですか。お気をつけて」
「またな」
言ったとたん、トウゴは挨拶を間違えたことに気がついた。
「あ、いや、えっと」
アンドロイドは訂正することなく、綺麗な姿勢でお|辞儀《じぎ》をした。
「さようなら」
「ああ、さようなら」
水上バイクは住宅街を抜け、メタリックに輝く大都市へと一直線に走った。
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