終末絵図(彩花の場合)

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

更新日: 2024/07/02 19:29
SF

本編


 私は衣装ケースからなるべく大きめのサイズのジャージを取り出して着替えた。黒いキャップを目深に被る。ポケットには財布とスマートフォン。家の鍵も、持った。よし。作戦決行だ。部屋の電気を消し、廊下へ。わずかの足音もたてないよう、長い時間をかけて一歩を踏み出す。床の質感が靴下越しにでもはっきりと分かった。一歩、また一歩と足を進める。そして、階段へ。|慎重《しんちょう》に体重移動を。ゆっくり、音をたてないように――。
 パキッと、木製の階段が鳴った。
フリーズして三秒。目だけを動かして辺りを窺う。父さんも母さんも起きてくる気配はない。セーフ。スマートフォンの明かりを頼りに玄関で靴を履く。準備は、できた。
 扉に手をかける直前。
 ばれたら怒られるだろうな。なるべく早く帰ってこよう。世界が終わってしまうかもしれないという状況。両親に変な不安を与えない方がいいに決まっている。それでも、私は世界を見たい。私はワルイコなんだ。音のしないよう、力を入れて鍵を開ける。ゆっくりと扉を開けて外に出て、閉める。鍵をかけて……。よし。
 私は大きく息をついた、空には薄く雲がかかって、その向こうに星が光り、鎌のような月が|妖《あや》しく輝いていた。この夜空の|何処《どこ》かに人類をこれだけ騒がせている小惑星がある。そいつを見つけてやろうと目を凝らしたが、さっぱり分からなかった。足元へ目を向け、夜の街へと駆けだしたくなる気持ちをグッと|堪《こら》えた。落ち着け。終末の町へ繰り出すんだ。どんなことに巻き込まれたって、文句は言えない。言うけど。充分注意しないと。しかし、その危険の予感が極上のスリルとして私の交感神経に作用した。深呼吸して、私はいよいよ歩きだした。
 ひと気の無い住宅街。耳が痛い程の|静寂《せいじゃく》だった。どんどんと人が何処かへと出ていっているという噂はどうやら本当らしかった。空き家のようになっている家も、少なくない。そんな家に限って窓を見つめていると、誰かがこちらを|覗《のぞ》いているような気がした。私は手汗の|滲《にじ》む手をパタパタさせながら歩いた。
 そうだ。中央公園へ行ってみよう。あそこでは夜な夜な、奇妙な集会があるって噂があるらしい。確かめてやる。私は細い路地へと入った。
 !
 一定間隔に灯る街灯の向こうから、誰かがこちらへと歩いてくるのが見えた。どうする? 引き返す? いや、こんなのに驚いてちゃ、駄目だ。行こう。私はキャップをぐっと深く被り直し、こぶしを握り締めて歩きだした。一歩、また一歩とその人物が近づいてくる。男だ。|咥《くわ》え煙草でビニール袋を|提《さ》げている。足元が少しおぼつかないようだ。酔ってる? 次第に男の顔が分かるくらい距離が縮んできた。何かしてきたらどうしよう。急所への膝蹴りを脳内シミュレーションしながら、私は歩いた。男は火のついた煙草を路上に投げ捨てた。良識のある人間ではないようだった。大丈夫かな。逃げる? いや、ここまで近づいてたらもう遅い。このまま歩く。何かあれば、蹴る! もう男は間近だった。一歩一歩近づいてくる男と、とうとう! すれ違った。妙な達成感から私が振り返ったその瞬間!
「ダアアアックショイ!」
私は|比喩《ひゆ》じゃなく、飛び上がった。男の馬鹿でかいくしゃみが|森閑《しんかん》とした住宅街に響き渡っていった。
 ようやく路地を抜けた私は、公園への道を歩いた。終末だからといって、なんということはないじゃないか。きっと、皆、必要以上に怯えてるだけなんだ。なんにも普段と変わっていやしない。大丈夫、大丈夫。これがくしゃみ男をやり過ごしたことによる、かりそめの自信なのか、私が自身を|鼓舞《こぶ》するための偽りの|安堵《あんど》なのかは、分からなかった。そのうち、大きな車道のある通りに出た。ここまで来れば、中央公園までは一本道だ。見渡したところ、誰も歩いていなかった。一台、車が私を追い抜いていったきり、辺りは再び静寂に包まれた。信号機が赤色の点滅だけを繰り返していた。
 公園まであと少しというところで、私は足を止めた。声がする。私の足音すらしっかり聞き取れる程の静けさの中、公園の方から声がする。私はゆっくりと近づいてゆき、公園の名前が刻まれている石碑近くの植え込みから、中の様子を窺った。
「げっ」
そう広くない公園の砂場。このクソ暑い最中に真っ黒なフード付きのコートを着た大人がみっちりと詰まっていた。さながら死神の集会だった。その中からひとり、死神の親玉みたいなのが出てくると、砂場の向かいにあるベンチに乗り、水晶玉のようなものを空へ掲げ、何やら唱えだした。
「アンゴルモアの大王よ、アンゴルモアの大王よ。愚かなる我らを赦したまえ」
死神たちは一様に平伏した。
「許したまえー」
「来たる厄災を前に、我ら改心した人の子なり。手を取りノアの箱舟に乗れば二度と再び罪は繰り返さぬと誓うなり」
「誓うなりー」
「許したまえ、アンゴルモアの大王よ」
「大王よー」
「エイ、エイ、キエエエエ」
親分が奇声を上げるなり、死神たちは固まった。コミカルな|筈《はず》のその光景に、私はちっとも笑えなかった。町内にはこんなにもヤバイ奴らが平気な顔をして歩いていたのである。噂は本当だったのだ。早くここから離れようとした足が、植え込みの溝にはまり、私は音もたてず尻餅をついた。ゆっくり起き上がり、再び様子を窺うと、死神のひとりと目が合った。途端、彼は大声をあげた。
「|闖入者《ちんにゅうしゃ》だあ!」
「ひい!」
私は振り返ることもせず、全速力でその場から離れた。
「ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ」
目の前に見えてきたのはコンビニの明かり! 助かった! 私はそのコンビニに駆け込んだ。
「ラッシャッセー」
気怠い店員の声を聞くと、高まっていた|動悸《どうき》が収まってゆくような気がした。私は雑誌のコーナーで立ち読みをする風を装って、死神たちが追いかけてこないかと観察していた。どうやら、大丈夫。何かあってもここなら助けてもらえるだろう。落ち着きを取り戻した私は、手にしていた雑誌をもとの位置に戻し、店内を歩き始めた。店内には照明も冷蔵の設備も整っていた。もっとも、|陳列棚《ちんれつだな》には空いているスペースも多く、完全な品ぞろえというわけでないことはひと目でわかった。仕方ない。物流だって、これまでと同じようにというわけにはいかないのだ。コンビニが営業できるくらい商品があるのが不思議なくらいだ。私は紙パックのカフェオレとアヒルグミを持ってレジへと向かった。
「お預りしまーす。袋はお付けしますかー」
「はい。お願いします」
「はーい」
ダウナー系だ。私は店に入った時からの疑問をぶつけることにした。
「あの」
「はい?」
店員の前髪の向こうの目が私を見た。
「なんで働いてるんですか? 世界が、終わってしまうかもしれないのに」
「あー」
店員は会計の手を止めて考えるように宙を見た。少しの沈黙の後、ダウナーらしく答えた。
「惰性っすね」
「惰性?」
「はい。世界に危機が近づいてたって、俺にはどうすることもできないし、別にやることもないし、惰性で緊急事態宣言の前の生活をしているだけです」
「へー」
相槌を打ちながらも、私は何処か|腑《ふ》に落ちなかった。そんなもんだろうか。
「そんなもんっすよ」
私の思考を読んだかのように店員が言った。
「世界の危機だなんだって言ったって、結局惰性で生きてる人間も多いっすよ。まあ、もちろん中にはイカれる奴もいるけど。そんなのは一部なんじゃないっすか。大多数は普段と変わんないと思いますよ。だからこそ、社会がまだ回ってるんじゃないっすかね。時間が経ったら、もっと、はっきりすると思いますけど。それまで世界があれば。四百八十五円っす」
「あ、はい」
私は慌てて財布を開け五百円玉を出した。
「十五円のお返しでーす」
「ありがとうございました」
「あ、お姉さん」
立ち去ろうとする彩花を店員が引き止めた。
「そういっても、ヤバイ奴らが居ることも事実なんで、気をつけてくださいね。隣の公園でヤバイ集会があったの、見たでしょう」
「……はい」
「たまに俺も参加してるんすよ」
「へ?」
私は思わずビニール袋を落とした。
「冗談っす」
店員は初めて笑顔を見せた。

 私はコンビニを出て、車道沿いに歩き、歩道橋の下までやってきた。コンビニで店員と話したのが夢のように思える程、辺りは寂しかった。歩道橋を上りきって、手すりから景色を眺める。幅の広い車道に、赤色点滅の信号、くしゃみ男の路地へ入る道、死神集団の公園にダウナー店員のいたコンビニ。全てが私の視界に入っていた。私はさっき買ったカフェオレの封を切って手すりに置いた。アヒルグミを食べる。レモン味。歩道橋からの景色は好きだ。なんでだろう。普段と視界が変わる、ちょっとした、非日常かな。怖くもあったけれど、出てきてよかった。父さんと母さんには悪いけど。ちょっとだけ、終末を前にした世界が分かった気がする。変なのもいたけど、|概《おおむ》ねいつも通り。危ないこともなかった。やるじゃん、人類。そう思ったら、世界存亡の危機ってのも、案外あてにならないもののように思えてきた。ある日突然、政府の緊急会見かなんかが開かれて、あれは全部間違いでしたってなっても、不思議じゃない。
 カフェオレをひと口。苦い。グミの後だからかな。思考が切り替わる。でも、八十パーセントくらいの確率で、そのうち、世界は本当に終わってしまうんだろう。「そのうち」はいつだろう。今夜中か、明日か明後日か。せめて最期の日が分かればいいのに。そうしたら、私はその日、でっかい花束を持って世界を見送ってやるんだ。お疲れ様って。カフェオレの苦さにも慣れてきた。人類、頼むぞ。平常心だ。これ以上壊れてくれるなよ。ついでに、このまま鈍感になってくれ。明日終わるかもしれない世界でも、義務感も正義感も救済へ|縋《すが》ることもなしにして、なんとなく生きてゆこうよ。ダウナーに。
 歩道橋の下を車が一台、通った。あっちへ行くと、国道に出る。国道……。そこまで行けば、海が見える。海……。スマートフォンで時間を確認すると、家を出てからまだ一時間と経っていなかった。時間は、ある。行こう。
 私はカフェオレを飲み干し、空いた容器をアヒルグミの袋に突っ込んで、歩道橋を、降りた。どうしようもなく、海が見たくなった。街灯に沿って、すれ違う人もいない深夜の街を私は走った。全速力で走った! 生きている、という実感が私を加速させて、その加速が生きている実感を引き起こした。私は、今、ここ数日で一番、生きていた。
 国道に出た時には、私は全身汗だくで、あがった呼吸のために肺が痛い程だった。夏に全力疾走など、するものではないと確信した。それでも、後悔はしていなかった。息を整え、高台になっている国道から海の方を見ると、港町の明かりが見えた。
 海は、暗くて見えない。しばらく海なんか見てない。どんな匂いだっけ。よし。浜辺まで行ってやる。私は腕まくりをすると、海へと続く下り坂を歩き始めた。昔、よく聴いていた世界の終末を描いた歌を口ずさみながら。
 終末なんてSFの世界に限られた話だと、ついこの間まで思っていた。きっと、私だけじゃない。世界中の皆が。でも、どうだ。三日前、その前提はあまりにもあっけなく崩れた。創作の中にしかなかった終末が、現実のものになった。終末が発表されたその日には、ネット上でいろんな情報が飛び交っていた。小惑星落下のタイムリミット、何処へ逃げれば生き残れるか、政府の発表は嘘だというデータ、これから起こる世界の荒廃の様子。悲観して自死に至った者も少なくなかったそうだ。きっと現実に多くの人が嘆き、悲しみ、怒り、放心したんだろう。でも、いまだに終末の実感がない人間も少なくない筈だ。私みたいに。なんで終わっちゃうんだよ。世界。もしかして、とふいに思い浮かんだ言葉があった。世界の自死。とんでもない筈の空想が、妙にしっくりきた。人間が|驕《おご》り、世界を好き勝手したから、世界はそれを悲観して……いや。こんな考えが、そもそも人間の驕りだ。ごめん、世界。なんで世界が終わるかなんて、今の私たちには知り様がない。仕方ない。終末を受け入れて生きるしかない。
 そう思ったところで、ふと、私の思考は|俯瞰《ふかん》へ移った。終末、海への坂道を下る女子高生。悪くない構図だ。まるでSFの世界そのものだ。口ずさんでいた歌では、結局終末は訪れなかったけど、私は今、その歌の世界観そのものに生きていた。妙な高揚感が生まれた。もし、私に少女という呼称が適用できるなら、まさに、終末と少女だ。なんて素敵な取り合わせだろう。ニッシーなら、これで一曲作れそうだ。

 坂を下り切った私は、踏切を渡ろうとした足を止めた。アヒルグミとカフェオレの容器が入ったビニールが邪魔だ。
「どっかで捨てたいな」
私はすぐ近くにコンビニがあったことを思いだした。踏切を渡るのをやめ、アヒルグミを消費しながらそちらへ向かう。記憶の通り、直ぐコンビニの駐車場についた。しかし。
「電気、ついてないな。コンビニ、やってないのかな」
私は少しずつコンビニへ近づいてゆき、やがて、足を止めた。
「マジか」
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