終末絵図(彩花の場合)

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

更新日: 2024/07/02 20:36
SF

本編


 “緊急事態宣言”から、今日で三日。いまだに世界は小惑星衝突の難を逃れていないようだった。でも、具体的にいつ、それが衝突して人類が滅亡するのか、という情報は流れてこなかった。人々のこれ以上のパニックを抑制するためか、研究者にも分からないのか。どっちなんだ? 
 依然ニュース番組では各国が協力し、総力を挙げて対処する、という発表が繰り返し放送されるだけ。アナウンサーが連日、公共の電波を使って、大切な人との時間を過ごして、と感傷的なことを言い続けているのを見ていると、もういよいよ駄目なんだという気がしてきた。
 三日間で私の住んでいる町は随分変わった。|秩序《ちつじょ》はなくなり、訳の分からない犯罪が増えた。隣家の夫婦が心中しただとか、公園で怪しげな集団が祈りを捧げているだとか、各国の首相は既に地球の外へ脱出しただとか、嘘か本当か分からない、いや、別に知ろうとも思わない噂が|蔓延《まんえん》していた。
 ベッドに腰かけ、窓から外を見る。私は終末が発表された日から、一歩もとに出ていなかった。|幽閉《ゆうへい》された|王妃《おうひ》の気分が少しわかった。まだ人が住んでる|筈《はず》の町が、抜け殻のように見えた。向かいの通りをいつもの中年男性がダンクトップいち枚で絶叫しながら全力疾走していた。
「もうそんな時間?」
時計を見ると午後五時。夏の夕方はまだ明るかった。立ちあがって部屋の明かりをつける。
「今日も、電気は通ってる」
消す。電気はいつ、供給が止まるとも分からない。こんな状況でも、発電所は動いているんだろうか。発電所が停止しても、町のあちこちにある大型蓄電池から最低限の電気が供給されるという噂もあるが、真偽はやっぱり分からない。皆、なんとなく電気を浪費しないように生きているらしいが、意味があるのか、分からない。発電所が止まればそれまでじゃない? 全てが無駄な足掻きに見えた。ふと、ノックの音が聞こえた。
「ねえ、彩花。降りてきてお茶でも飲まない?」
弱々しい母さんの声。恒例の|陰気茶会《いんきちゃかい》だ。私は少し考えてから返事をした。
「分かった。行く」

 エアコンの効いたリビングに降りると、ほのかに紅茶の香りがした。父さんと母さんが並んで行儀よく座っていた。誰も何も話さない。私は陰気な空気に気圧されながら対面する席に腰を下ろした。
「ねえ、これからどうなるのかしら」
三日間でこれが母の口癖になっていた。
「分からんな。政府の正式な発表を待つしかない」
父さんが真面目くさって返答していた。そんな様子を見ながら、今日の私は紅茶にミルクを入れてかき回した。
「水道やガス、電気なんかはいつ止まってしまうのかしら」
母さんは昨日とまるで同じ、到底知り様の無いことを聞いた。父さんも私も答えなかった。
「ハルマーーーーーーゲーーーーードーーーン。ハーーーーーーーーーーーー」
絶叫全速力タンクトップご帰還の時間だった。母さんは大げさに思える程震えていた。
「なんなの! もう。どういうこと。皆、おかしくなっちゃう。ねえ、どうして。私たちはまだ大丈夫よね。まだ、いつも通りよね」
かつての快活な母さんの姿はそこにはなかった。
「あの人ってさ、なんか、大企業に勤めてる人じゃなかったっけ」
紅茶を飲みながら、父さんに尋ねた。
「門倉さんね。確かにそうだった」
「へー。確か、前に会った時、高そうなスーツ着て、髪バッチリ決めてた。それがああなっちゃうんだ」
「そうだね。世界が終わってしまうかもしれないとなれば、人間の肩書も体裁も、何の意味も持たないんだろうね」
「そっか」
私は返事をしながら、終末を前にして全てかなぐり捨て、自分を解放しているタンクトップの門倉さんを少しだけ羨ましく思った。
「それより彩花。お兄ちゃんに連絡はついた?」
「え? あー全然。返事ない」
思わず、私は母さんに嘘をついた。連絡など、していなかった。
「そう。私や父さんの連絡にも返事をくれないの。こんな時ぐらい、戻ってきてくれたっていいじゃない。どうして連絡をくれないの? 家族が、家族が大事じゃないって言うの!」
母さんは少し、ヒステリーを起こしていた。
 兄さんだって、もう大人だ。家族以外に大事なものができたって不思議じゃない。という言葉を、私は紅茶で飲み込んだ。
「ねえ、彩花。彩花はずっと一緒にいてくれるわよね? |何処《どこ》にも行かないわよね? ね?」
母さんのヒステリー変化率は昨日よりもずっと急だった。終末を予感しただけで、人間とはこうも変わってしまうものかと、虚しかった。同時に、自分がどうしてここまで鈍感になれるのか、分からなかった。私にとって、どうするのが良い終末なんだろうと、答えの得られないようなことを自問しているうちにも、母さんのヒステリーボルテージは上がっていた。父さんはそれとは対照的に腕を組んだまま何も言わず、不安そうに母さんの様子を眺めていた。
「ねえ! 彩花! 黙ってないで何か言ってよ。家族でしょ、私たち!」
繰り返される“家族”という言葉が|癪《しゃく》に|障《さわ》った。
「何? 家族家族って。勝手に母さんの理想を押し付けないでよ! そんなんだから兄さんも戻ってこないんじゃないの?」
どんな言葉が母さんに大きなダメージを与えるのか、私にはよく分かっていた。
「なんなら、私も出て行ってやってもいいんだけど」
母さんにより重い一撃を見舞ってやろうと思って放ったこの一言がまずかった。母さんは私が瞬きするよりも早い動きで立ち上がり、カマキリが獲物を狩る勢いで私の|頬《ほお》に平手打ちを喰らわせた。驚いた父さんはカップを持ち上げたままの格好で全ての動作を停止させていた。
「彩花……。お願い。そんなこと言わないで」
蚊の鳴くような声の後、母さんは泣き崩れた。昨日よりも数段気まずい陰気茶会になってしまった。私は逃げるように自室に戻り、眠くも無いのにベッドに横たわった。階下では、母さんが父さんを相手取ってヒステリーを爆発させていた。
「悪いこと言っちゃったかな」
そう呟きながら、私は世界が終わるよりも前に家庭が崩壊するのではないかと半ば本気で心配していた。
 小惑星の衝突。世界の終末。
 実感が湧かなかった。何も私が生きてる時代に終わることないじゃん。世界。今、うちの外の世界はどうなってるんだろう。きっと人類が|醜態《しゅうたい》をさらしているに違いない。ヒステリーで喧嘩したり、自暴自棄になって人に迷惑かけたり、イカれて泣きわめいたり。もしそうなら、なんて|醜《みにく》いんだろう。これが人間なのかな。そう思うと、世界が気の毒だった。人間が、世界の終わりを醜く塗りつぶしている。でも、世界。勘違いしないでくれ。多分、きっと、これが人間本来の姿じゃない。よく、普段と違う状況に置かれた時に、人の本性が分かるって言うけど、私はあんまりそれを信じていない。普段じゃない状態に置かれたんなら、精神も普段と違ってしまうにきまってる。バグるんだ。やっぱり普段の人間の姿が本質だよ。母さんだって。今の母さんが本当の母さんじゃない。分かってる。そんなこと。普段に戻って、なんていうのは無理な願いだろうか。世界が終末を回避しない限り、日常はもう……。頼むよ、偉い人。なんとかして。

「ねえ、彩花。彩花。もう起きてる? ねえ」
扉の向こうからの母さんの声で目を覚ます。
「え? うん。起きた」
「良かった。返事してくれて。ご飯、できたから降りておいで」
「はーい」
特にお腹はすいていなかったけど、私はリビングに降りていった。焼き魚に味噌汁、卵焼き、玄米。もしかしたら、これが最後の|晩餐《ばんさん》かも。そう思ってみたところで、何の感慨も湧かなかった。仮眠を挟んでみても、家族に流れる気まずい空気は晴れていなかった。父さんが味噌汁をすする音と、テレビから流れるニュース番組の音声だけが沈黙を埋めていた。

 このような事件は依然、増え続けているということです。皆様、いかがお過ごしでしょうか。いまだ、政府から新たな情報は発信されておりません。また、各地では治安の悪化が進んで居るのが現状です。今は不要不急の外出は避け、トラブルや犯罪に巻き込まれないように十分注意した上で、大切な方との時間をお過ごしください。私共も最後まで、皆様に正しい情報をお届けできるよう、尽力いたします。

 ここ数日、私はニュースの上でしか、世界を知らない。今、外の世界はどうなってるんだろう。
「ね、彩花。テレビでも言ってるでしょう。外は危険なの。だから、冗談でも出て行くなんてこと――」
「大丈夫だって。しない。しないよ」
母さんがまた、泣き出しそうな声をあげ始めたから、私は慌ててそう返事をした。もちろん、わざわざ外に出て行こうなんて思っていなかった。あの時は。でも今、終末を前にして世界はどうなっているんだろう。そこには本当に醜い人間しかいないんだろうか。もしかしたら何処かに終末を美しく彩れるような人がいるかもしれない。終わってしまう前に、世界のありのままの姿を、見てみたい。
 とても両親の前では口にできない好奇心が胸に染み出すのを感じていた。終末を前にして、世界はどう変わったんだろう。人はどう変わったんだろう。私たちが失くしたものって……。
 私は焼き魚を解体しながらそんなことを考えていた。
 私が失くしたものは、週に五日の登校と、平和な日常、あとは、将来への展望? いや、展望なんか、もとからなかったけど、未来について考えることはなくなった。もし、夢がある人なら、どうなってしまったんだろう。あ、そうだ。ニッシーは音楽プロデューサ―になりたいって言ってたっけ。作詞も作曲もやってた。結局、ニッシーのつくる音楽がどう、すごいのか。私には分からなかったけど、彼女の音楽はなんとなく好きだったんだよな。ニッシーの音楽はどうなるんだろう。夢がなくなるって、どんな感じなんだろう。ニッシー、何してるんだろう。学校はどうなってるんだろう。町の人は、世界は、どうなってるんだろう。もしかしたら、この町の片隅にでも、美しい終末が在ったりしないだろうか。
 焼き魚を骨と皮だけにして、玄米を平らげてしまった私は、空いた皿を眺めながら、黙って座っていた。そして、決めた。
「ねえ、彩花。何考えてるの」
母さんが不安と怯えの表情で聞いた。
「別になんにも」
「本当? 本当なの?」
“本当だってば!”
と、私は言わなかった。
「うん、ちょっと眠くなっただけ。ごちそうさま。食器、洗っちゃうね」
「いいのよ。母さんがやるから置いておいて」
「ううん。たまには手伝うよ」
私は食器を洗い、お風呂を沸かし、洗濯物を畳んだ。今夜決行することのせめてもの罪滅ぼしに。

「じゃ、おやすみ」
両親にそう告げて、私は自室に戻ってきた。家では電気節約のため、うんと早い時間に就寝することになっていた。とはいえ、私はいつも夜中まで起きているから、電気の節約には全然|貢献《こうけん》できていなかった。ベッドに腹ばいになってスマートフォンで動画を見る。この三日間でいい加減な動画が随分と増えた。
“小惑星落下までのカウントダウン発覚”
“五次元からの救済! この特徴に当てはまった人だけは助かる?”
“地球滅亡のシナリオは秘密結社によって定められていた”
“小惑星落下にも耐えられる家庭用シェルターとは”
“生き残りたい人必見! 政府が発表しようとしない世界滅亡の真実”
うんざりだった。終末の騒乱に乗じた、くだらない動画ばかり。こんなのを信じる人間が何処にいるんだ、と、私は心の底からそう思っていた。この期に及んでまで小人欲求を満たしたいのか? いや、それとも動画の最後にシェルターの購入サイトが現れてお金を取られるのか? いや、今や必要以上のお金なんてあっても仕方ないだろう。どうでもいい。この動画のタイトルみたいに、限られた人しか生き残れないとしたら、私は別に生き残りたいとも思わない。きっと、滅亡後の世界は今以上に醜いだろうから。私はせめて、まともなままで死にたい。ため息をつきながら、くだらない動画と世界の滅亡が発表される前から投稿されていた平和な動画たちをスワイプしていた手が止まった。
“もちもちのアヒルが可愛すぎる”
これだ。私は動画をタップした。真っ白でもちもちのアヒルが飼い主を追いかけて庭を駆け回っていた。時々、何かに|躓《つまづ》いて盛大に転ぶ。
 キュートなアヒルの姿に、私は笑っていたことを自覚した。今日、初めて笑ったんじゃないかな。よし。夜が更けるまでアヒルまみれになろう。
 走るアヒル、泳ぐアヒル、親子のアヒル、鳴くアヒル、食べるアヒル、密集したアヒル、猫と一緒のアヒル、犬と一緒のアヒル。色んなアヒルを見ているうちに私は鬨の経つのを忘れていった。
 やがて時刻は午後十一時。どうだろう。そろそろいいだろうか。私は足音を忍ばせて階段を降り、リビングから両親の寝室の方を|窺《うかが》った。寝てる? 途端、ガチャリと寝室の扉が開いた。
「あら、彩花。起きてたの?」
「母さん。あ、えと。母さんも起きてたの?」
「ちょっと目が覚めてね。トイレに行こうと思って」
「あーそうだったんだ。私は、その、喉乾いたから、なんか飲もうと思ってさ。それじゃあ、おやすみ」
何か言いたげな母の視線から逃げるようにして、階段を上る。驚いた。まだもう少し時間を潰した方がよさそうだな。あと、一時間くらいかな。何しよう。またアヒルでも見るか? さすがに飽きたな。
 私はスマートフォンのアラームを一時間後にセットしてベッドに横になると目を閉じた。外に出たら何をしようか。あてはないけど、何処かへ行こう。世界が今、どんな様子なのかをこの目で見るために。父さんと母さんには、絶対見つかっちゃいけない。外の世界を見ようと先走る意識のために、結局、眠れないままアラームが鳴った。
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