【戦艦三笠】今、会いに行ける戦艦
【戦艦三笠】今、会いに行ける戦艦
更新日: 2024/05/22 23:28歴史、時代、伝奇
本編
1905年、5月27日。100年以上前のこの日、アジアの小国・日本の連合艦隊が、世界最強のロシア艦隊を相手に大勝利をおさめました。
日本海海戦。その戦いに出撃していた戦艦が、今もまだ日本国内にあり、誰でも乗りに行けるということはご存じでしょうか。
戦艦 三笠(みかさ)
日露戦争のこの海戦において旗艦(きかん)をつとめ、連合艦隊の先頭に立って活躍した戦艦です。
日露戦争は、1905年2月から1905年9月にかけて、大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争です。
日本とロシアがなぜ戦争に至ったのか。それは、日本海海戦の十年前に遡ります。
一八九五年、ユーラシア大陸北部のほとんどを支配していた巨大な帝国「ロシア帝国」は、さらなる領土拡大を狙い、太平洋沿岸部に拠点となる場所を探していました。
そこで目をつけたのが、清(しん)-今の中国の、遼東(りゃおとん)半島という場所です。
そこは、先の日清戦争で勝利した日本が手に入れていた場所でした。
日本の存在が邪魔だったロシアは、フランス、ドイツというヨーロッパ列強の国とともに『日本が遼東半島を領有(りょうゆう)するのは、清への侵害だ』と、日本に遼東半島を清に返還することを求めてきたのです。
軍事力をチラつかせながら三国で圧力をかけてきたこの出来事を『三国干渉(さんごくかんしょう)』といいます。
戦(いくさ)に勝利して勝ち取った権利を、関係のない第三国が返還を求めるというのは、あまりにも理不尽な言い分で、それは誰の目から見ても明らかでした。
しかし、当時の日本はまだ明治28年。ほんの30年前は江戸時代という近代化の初期段階だったこの国が、ロシア、フランス、ドイツの列強国に叶うはずもありません。
日本は致し方なく三国の要求に応じ、遼東半島を清に返しました。
ところがその後、ロシアはその遼東半島に我がもの顔で居座り、太平洋沿岸部への領土拡大に向けた軍事施設を次々に作り始めたのです。
国の目と鼻の先で、敵国が侵略の準備をするのを、当時の日本はただ見ているしかできませんでした。
それから10年。
日本は近代的な装備や技術を驚異的な速度で揃えていきます。
朝晩なく働いて外貨を稼ぎ、先端技術の機器を外国から買い求め、調べ、自前で作り上げる技術を開発し、想定される問題を徹底的に調査・研究。国が一丸となって近代化を進めていったのです。
そうやって猛スピードで成長した日本は、1905年2月4日、ついにロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まります。
日本海での熾烈(しれつ)な海上戦がにらみ合い状態になった頃、ついにバルト海に停泊していた世界最強のロシア艦隊・バルチック艦隊が、日本艦隊を殲滅(せんめつ)すべく進行してきました。
急成長したとはいえ、まだロシアの総軍事力にはかないません。まともに迎え撃っても、とうてい勝ち目はありませんでした。
少ない軍事力でいかに勝ち筋を見いだすか。
ここに日本の強さがありました。
1905年5月27日、午前4時50分。
九州北部で見張りをしていた船が、バルチック艦隊の到着を発見。総勢三十八隻の大艦隊でした。
『敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、これを撃滅(げきめつ)せんとす。本日、天気晴朗(せいろう)なれども、波高し』
三笠からこの電文が発せられ、日本海軍は出撃します。
九州北部を北上してくるバルチック艦隊を迎え撃つ形で、日本海軍は南へ向かいます。
両者の距離が八千メートルほどに接近したそのとき、先陣をきっていた戦艦三笠は、突然敵前逃亡するように旋回して進路を変更しました。
T字戦法。
敵艦隊がTの字の縦棒のように並んでいるところを、Tの字の横棒になるように進路を防いで並び、敵艦隊の先頭の艦艇を全火力で集中攻撃するという戦法です。
日本の海賊、村上水軍の兵法書を元に編み出された戦術で、この日のために訓練を重ねてきた秘策でした。
持てる戦力の全火力で集中砲火。徹底的な砲術訓練により、日本海軍の砲撃の命中精度の高さは、ロシアとは比較にならないほど優れていました。
ロシアも反撃しますが、多くの弾を発射する割には照準が不正確で、日本艦隊に大きな損傷を与えることはできませんでした。
十九隻のロシア艦を撃沈(げきちん)。
こうして東アジアの小国日本は、綿密な研究と努力、そして強い信念と大胆な作戦によって、世界最強のバルチック艦隊を打ち破ったのです。
現在、この戦艦三笠は記念艦として、神奈川県横須賀市の港にある公園内に保存されていて、誰でも見学することができます。
また、この戦いで連合艦隊司令長官をつとめた東郷平八郎をまつった「東郷神社」が、東京の原宿にあります。
ファンシーな雑貨と甘いクレープの香りがただよう若者の街から一本路地を入ると、勝利、強運の神様として崇敬(すうけい)を集める、厳かな神社が静かに迎え入れてくれます。
特に人気なのが勝利を願う勝ち守りで、大勝利をおさめた戦艦三笠が掲げていた、黒、黄、赤、青の四色の三角形で構成された信号旗、通称Z旗(ぜっとき)が刺繍されており、受験生やスポーツ選手、ビジネスマン等、それぞれの戦場で勝利を目指す人々が勇気を授かっていくそうです。
はるか昔、江戸から明治の時代へと日本の近代化に尽力した人たちに想いを馳せながら、横須賀や原宿へ訪れてみるのはいかがでしょうか。
それでは、今回はこのへんで。また歴史の道標(みちしるべ)の導きで、再びお会いすることができますように。
0日本海海戦。その戦いに出撃していた戦艦が、今もまだ日本国内にあり、誰でも乗りに行けるということはご存じでしょうか。
戦艦 三笠(みかさ)
日露戦争のこの海戦において旗艦(きかん)をつとめ、連合艦隊の先頭に立って活躍した戦艦です。
日露戦争は、1905年2月から1905年9月にかけて、大日本帝国とロシア帝国との間で行われた戦争です。
日本とロシアがなぜ戦争に至ったのか。それは、日本海海戦の十年前に遡ります。
一八九五年、ユーラシア大陸北部のほとんどを支配していた巨大な帝国「ロシア帝国」は、さらなる領土拡大を狙い、太平洋沿岸部に拠点となる場所を探していました。
そこで目をつけたのが、清(しん)-今の中国の、遼東(りゃおとん)半島という場所です。
そこは、先の日清戦争で勝利した日本が手に入れていた場所でした。
日本の存在が邪魔だったロシアは、フランス、ドイツというヨーロッパ列強の国とともに『日本が遼東半島を領有(りょうゆう)するのは、清への侵害だ』と、日本に遼東半島を清に返還することを求めてきたのです。
軍事力をチラつかせながら三国で圧力をかけてきたこの出来事を『三国干渉(さんごくかんしょう)』といいます。
戦(いくさ)に勝利して勝ち取った権利を、関係のない第三国が返還を求めるというのは、あまりにも理不尽な言い分で、それは誰の目から見ても明らかでした。
しかし、当時の日本はまだ明治28年。ほんの30年前は江戸時代という近代化の初期段階だったこの国が、ロシア、フランス、ドイツの列強国に叶うはずもありません。
日本は致し方なく三国の要求に応じ、遼東半島を清に返しました。
ところがその後、ロシアはその遼東半島に我がもの顔で居座り、太平洋沿岸部への領土拡大に向けた軍事施設を次々に作り始めたのです。
国の目と鼻の先で、敵国が侵略の準備をするのを、当時の日本はただ見ているしかできませんでした。
それから10年。
日本は近代的な装備や技術を驚異的な速度で揃えていきます。
朝晩なく働いて外貨を稼ぎ、先端技術の機器を外国から買い求め、調べ、自前で作り上げる技術を開発し、想定される問題を徹底的に調査・研究。国が一丸となって近代化を進めていったのです。
そうやって猛スピードで成長した日本は、1905年2月4日、ついにロシアに宣戦布告し、日露戦争が始まります。
日本海での熾烈(しれつ)な海上戦がにらみ合い状態になった頃、ついにバルト海に停泊していた世界最強のロシア艦隊・バルチック艦隊が、日本艦隊を殲滅(せんめつ)すべく進行してきました。
急成長したとはいえ、まだロシアの総軍事力にはかないません。まともに迎え撃っても、とうてい勝ち目はありませんでした。
少ない軍事力でいかに勝ち筋を見いだすか。
ここに日本の強さがありました。
1905年5月27日、午前4時50分。
九州北部で見張りをしていた船が、バルチック艦隊の到着を発見。総勢三十八隻の大艦隊でした。
『敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、これを撃滅(げきめつ)せんとす。本日、天気晴朗(せいろう)なれども、波高し』
三笠からこの電文が発せられ、日本海軍は出撃します。
九州北部を北上してくるバルチック艦隊を迎え撃つ形で、日本海軍は南へ向かいます。
両者の距離が八千メートルほどに接近したそのとき、先陣をきっていた戦艦三笠は、突然敵前逃亡するように旋回して進路を変更しました。
T字戦法。
敵艦隊がTの字の縦棒のように並んでいるところを、Tの字の横棒になるように進路を防いで並び、敵艦隊の先頭の艦艇を全火力で集中攻撃するという戦法です。
日本の海賊、村上水軍の兵法書を元に編み出された戦術で、この日のために訓練を重ねてきた秘策でした。
持てる戦力の全火力で集中砲火。徹底的な砲術訓練により、日本海軍の砲撃の命中精度の高さは、ロシアとは比較にならないほど優れていました。
ロシアも反撃しますが、多くの弾を発射する割には照準が不正確で、日本艦隊に大きな損傷を与えることはできませんでした。
十九隻のロシア艦を撃沈(げきちん)。
こうして東アジアの小国日本は、綿密な研究と努力、そして強い信念と大胆な作戦によって、世界最強のバルチック艦隊を打ち破ったのです。
現在、この戦艦三笠は記念艦として、神奈川県横須賀市の港にある公園内に保存されていて、誰でも見学することができます。
また、この戦いで連合艦隊司令長官をつとめた東郷平八郎をまつった「東郷神社」が、東京の原宿にあります。
ファンシーな雑貨と甘いクレープの香りがただよう若者の街から一本路地を入ると、勝利、強運の神様として崇敬(すうけい)を集める、厳かな神社が静かに迎え入れてくれます。
特に人気なのが勝利を願う勝ち守りで、大勝利をおさめた戦艦三笠が掲げていた、黒、黄、赤、青の四色の三角形で構成された信号旗、通称Z旗(ぜっとき)が刺繍されており、受験生やスポーツ選手、ビジネスマン等、それぞれの戦場で勝利を目指す人々が勇気を授かっていくそうです。
はるか昔、江戸から明治の時代へと日本の近代化に尽力した人たちに想いを馳せながら、横須賀や原宿へ訪れてみるのはいかがでしょうか。
それでは、今回はこのへんで。また歴史の道標(みちしるべ)の導きで、再びお会いすることができますように。