アロエ・ベラ

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

アロエ・ベラ

更新日: 2024/05/03 03:48
その他

本編


 なんのために生きているのだろう。
 世間の立派な人々が一度は考えるという、自問を、私だってすることがある。なんのためだろう。富か? 名声か? 奉仕か? 夢か? 違う。どれも違う。今の私には解答は得られそうにない。惰性(だせい)だ。惰性で生きているのだ。自らの歩いてきた道を振り返っても、どうしてこんなことになったのだか、とんと分からない。取り立てて立派なことを成した筈(はず)はないが、取り立てて残酷なことをした覚えはない。そんなありきたりな人間が、路頭(ろとう)に迷おうとしているのだ。
 路頭に迷う? いかにも人間社会を感じる表現だ。社会は私という存在を許さなかったのだ。朝起きて、出社し、夕方に帰宅。夕食を食べ、風呂に入って、ごちゃごちゃやって寝る。それが私にはできない。とても。恥も外聞(がいぶん)も失くしてもっと適切な表現をしようか。面倒くさくてしたくないのだ。一体、今の私には何もかもが面倒だ。空腹の苦痛さえなければ、いち日、なんにも食べたくはない。そもそも睡眠から醒(さ)めたくもないのだ。面倒事から逃れ、必要最低限という枠を縮小し続けているのが私の生だ。そんな結果、私は社会からはじき出されたのだ。おあつらえの言葉を知っている。自業自得。何かしたからこうなったのではない。何もしなかったからこうなったのだ。とても世間の人々に顔向けなどできぬ。こんな、社会不適合者の私の生活がどんなものであるのか、興味の湧く好事家(こうずか)もいないとは限らない。端的に書いてみようか。
 起床は、早くて昼過ぎ、遅くて夕方だ。これだって本当は起きたくて起きているのではない。肉体の条件反射みたいなものだ。面倒くさいと思いながらも歯を磨き、外に出る。外に出るのだ! 馴染(なじ)みの喫茶店に顔を出し、そこで一般人のふりをして、仕事をしているふりをする。帰宅し、小説の続きを書く。ちっとも身が入らない。一人で身をたてることを知っている人たちの出演する動画を見る。自分との格差に顔から火が出る思いをする。眠れないから小説の続きを書く。やっぱり身が入らない。私は作家には向かぬらしい。朝日の気配がすぐそこまで迫ってから、落語を聞きながら寝る。私は与太郎にすらなれぬ。そしてまた、昼過ぎ以降に起きる。
 どうだ。いかにも贅沢(ぜいたく)で無分別(むふんべつ)な生活だろう? 私も同感だ。もういっそこんな生活は終わりにしようとも思うけれど、生まれついての怠け者。どうしようもないのだ。許してくれとは、言わない。
 ちょっと切り口を変えてみよう。どうして私は死なないのだ? 少し物騒だけれど、新しい知見が得られるかもしれぬ。すぐに出てくる解答はやっぱり、面倒くさいからだ。それに苦しいことや痛いことはできることなら経験したくない。しかし、本当にそれだけか? 幾(いく)ら、ろくでなしだって、幾十年続く怠惰な生と一瞬間の苦痛を天秤(てんびん)にかけられぬ程お目出たくもない。何故だ。何故私は死なないのだ? 見つかった。いや、見つけていた解答とはこうだ。
小説を完成させるまでは。
 そうらしい。私は小説の霊にとりつかれているらしい。もっとも、それにすら身が入っていないのだから笑い話にもならない。私は追及を続ける。即ち、それで? 小説が完成したら死ぬのか? 多分、死なない。という解答。何故だ、目的は果たしたのだろう? 答えて曰く、読者が欲しい。もう私はすっかり私という人間にあきれ返った。結局は承認欲求ではないか。いや、飾らずに言おう。自己顕示欲が服を着ているぞ! そんなら、売り込め、己を。マアケティング、プロモオションだ。返答は? 面倒くさい。このマヌケ、小説のために死ねないと言いながら、それに殉(じゅん)ずる覚悟もないときた。とうとう手に負えない。案外、こんなのがしぶとく生き続けるのかもしれない。
 私はもう、こんな文章も切り上げようと思う。随分と退屈だろう? そろそろ朝日も顔を出す。肩も凝(こ)ってきたし、何より面倒くさくなった。
 未来、私が無様にも生きていたら、また会おう。じゃ。
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