桜色の季節とダメダメな私

作家: トガシテツヤ
作家(かな): とがしてつや

桜色の季節とダメダメな私

更新日: 2024/04/22 05:08
現代ドラマ

本編


 ――桜色の季節?

 とんでもない。私にとっては、まさに暗黒時代の幕開けだ。

***

「今年度から御社の担当となります、倉橋と申します。よろしくお願い致します」

 そう言って名刺を差し出すと、社長は私の顔をジロジロと見て、名刺をひったくるように取り上げた。

「あんたねぇ。それで営業やるつもり?」

 思わず「はい?」と気の抜けた声で聞き返す。さっき自分が言ったセリフを頭の中で|反芻《はんすう》してみたが、何もおかしなことは言ってないはずだ。

「もうちょっと愛想よくした方がいいんじゃない? 嫌々来ましたって顔に書いてあるよ? 前の担当者は、笑顔が素敵な人だったけどなぁ」

 そう言うと、社長は安全靴をドカドカと鳴らしながら現場に戻ってしまった。呆然と立ち尽くす私に刺さる、従業員達の視線が痛くて、私は「失礼します……」と独り言のように呟き、そそくさとその場を去った。

 ――だったら前の担当者に来てもらえっての!

 さっきの安全靴に負けないくらいにカツカツとヒールを鳴らしながら駅へと向かう。

 これだから営業部は嫌だった。入社して3年が過ぎ、いよいよ異動の話が出た時、心の底から「営業部だけは勘弁して! 神様仏様お釈迦様!」と都合のいいお願いをした。今の状況は、そんな自分への罰ではないかとさえ思う。

 スマートフォンが震えた。父からだ。

「なに?」

 不機嫌さを全く隠さずに電話に出る。

「あのさぁ、礼服ってどこ? どこ探してもないんだよ」
「この前、クリーニングに出したでしょう?」
「ああ、そうだった。すまんすまん……」

 ――何で謝るのよ!

 体中の血液が逆流しそうになって、何も言わずに電話を切った。1年前に母が死んでから、父はことあるごとに「すまんすまん」と言う。私はそれが大嫌いだった。はっきり言って、誰に対して――何に対して謝っているのか分からない。母の病気に気付いてやれなかったことを後悔して私に謝っているのかもしれないが、母の病気に気付かなかったのは私も同じだ。それに、私に謝ったところで、母は生き返らない。

 スマートフォンをバッグの中に放り込むと、桜の花びらも一緒に紛れ込んだ。顔を上げると、満開の桜並木のど真ん中に立っていた。

 ――ここ……どこ?

 駅に向かっていたはずなのに、途中で道を間違えたのだろうか。引き返そうとすると、一体どこから出て来たのか、真横で女性が桜吹雪を見上げていた。私には、その女性が誰なのかすぐに分かった。

「お母さん……」
「あらあら、なんて顔してるの? 由美ちゃんの笑った顔は世界一可愛いのに」

 母は私を見ずにそう言った。

「笑えるわけないでしょう? 笑っててほしいなら……どうして死んじゃったのよ! お母さんが死んで、お父さんはいつもすまんすまんって謝るし、さっきだって礼服をクリーニングに出したことも忘れて私に電話してきたし、もうダメダメよ!」

 まくし立てて、肩で息をする。なぜ母の幽霊にこんなことを言わなければならないのか。怒りなのか悲しみなのか、自分でもよく分からない感情がふつふつと湧き上がる。

「うふふ……」

 なぜか、母は突然笑い出した。

「そうね。お父さんもお母さんも由美ちゃんも、みんなダメダメね。なんか、笑っちゃうわね」

 ポカンとする私を見て、母はまた「あはは!」と笑い出し、私もつられて笑う。そう、私もダメダメだ。営業部に異動になって、取引先に挨拶に行ったら、いきなり怒られたんだから。

「お母さん、私、もう一度行って来る。このままじゃ、本当にダメダメになっちゃうから」
「そうそう、その笑顔よ! 胸を張って行ってらっしゃい!」

私は|踵《きびす》を返して走り出した。振り返ると、もう母の姿はなかった。

「社長!」

 私が駆け寄ると、社長は目玉が飛び出るのかと思うほど目を見開いて私を見た。

「私、さっきは嫌々来ました。行きたくなかった営業部に異動になって、絶望的な気分でした。でも、今は自分の意志でここに来ました」

 社長は黙ったまま、相変わらず目を見開いたまま私を見ている。

「やってみようと思います。ダメダメかもしれないですけど……よろしくお願いします!」

 頭を下げる。こんなに気持ちを込めてお辞儀をするのは、一体何年ぶりだろう。いや、初めてかもしれない。

「何があったか知らないけど、面白い人だねぇ。まぁ、よろしく頼むよ。倉橋由美さん」

 頭を上げると、社長は私の肩に手を伸ばし、桜の花びらを|掬《すく》い取った。

「ダメダメじゃない人間なんて、いないんだからさ」

 顔を上げて社長の顔を見た瞬間、何となくお父さんに似てる気がして、口角が上がりそうになるのを必死に堪える。どこがどう似てるか、うまく説明できないけど。

 ――帰ったら、お父さんに「今後はごめんなさい禁止!」と言い渡そう。

 ダメダメを卒業するために。
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