文字の降る日

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

文字の降る日

更新日: 2024/04/06 16:57
現代ファンタジー

本編


 安アパアトの猫の眉間(みけん)ようなヴェランダに出て国道を車が行くのを眺(なが)めていた。毎日がただ過ぎてゆく。別段の幸福も不幸も無かった。しかし、虚しかった。今、死のうとも思わないが、生きていたいとも思わなかった。空には厚い雲が張り詰め、今にも降り出しそうだった。
ふと、視界の端をかすめたものがあった。見るともなしに目を向けると、掌(てのひら)よりも少し大きな薄く黒い物体だった。それは空中に二、三度翻(ひるがえ)りながらアパアト下の路地に落ちた。目を凝らしているうちにそれは一匹の猫に変じ、何処かへ駆けて行った。
「見間違いかしら」
そうに決まっている。まさか猫の降るような天気でもあるまい。隣でがさっと音がした。驚き見ると、鳩が居た。彼はすぐに何処かへと飛び去った。それをあっけにとられながら見送っていると、中空に何か落ちてくるものがあった。
「まただ」
やはりそれは空気抵抗を受けながら落ち葉よりもゆっくりと落ちていた。
「文字? あれは土、と書いているのか?」
その物体はそのまま向かいの畑へと着地した。文字が落ちてくるなど聞いたこともない。私はとうとう自身の気がおかしくなってきたのかと不安になった。今度は意識して天を睨(にら)んでいた。
「あった!」
私の目がとらえたそれは、やはり文字だった。
「なんと書いてある」
目を凝らして読み取る。
「門? 間? いや、関? そうでないぞ、ええと、あの字は、そうだ! 閃(ひらめ)き」
私が認識した途端、とんでもない音をたてて、その文字へと雷が落ちた。心臓が早鐘を打ったのはその轟音のためばかりではなかった。
 雨が降り始めた。それは見上げるとおびただしい量の「水」の文字であった。空の中程で文字が融けるようにして次々に本物の雨粒へと変身していた。
「面白い! 今日は文字の降る日だ!」
バサッと隣で音がした。見ると複雑な文字。恐る恐る拾い上げながら、私はそれが「鯨」や「像」でないことを祈った。透かして見ると
“鼬”
「これは、何と読むのだったか」
私が首をひねった途端、文字が融け、イタチが現れた。
彼はひとつ鳴き声を上げ、私の手から素早く逃げだすと、開けたままにしてあった網戸から部屋の中へ駆けこんだ。
「おい、待て!」
私は急いで部屋の中へと駆け戻り、イタチを捕獲せんと奮闘(ふんとう)した。もう少し漢字を勉強しておくべきだった。あの字を知っていれば文字の内にヴェランダから外へ出せたものを!
 腕を引っかかれながらもやっとのことで闖入者(ちんにゅうしゃ)を野生へ帰した私は性懲りもなく、ヴェランダに出た。次は何が降ってくるか、その期待に誘われたのである。しかし、幾ら待てども、もう中空に文字は見えなかった。雨も、普段の通りだった。
 ため息をつき、室外機の上に腰かけた。弱い風が湿気を運んできた。
「一体、なんだったのか」
再びため息をついた私がふと膝を見ると小さな文字があった。ジインズの模様を見間違えたのではないことを確認した私はそれを手に取ってみた。上下左右の判別がつきづらい、その文字は一瞬間で溶け、何も残らなかった。その文字は恐らく、私に染み入ったのであろう。何故と言って、私は訳もなく雨雲のもとに清々しい気持ちでいたのだ。
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