守護の霧

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

守護の霧

更新日: 2024/04/02 17:17
現代ファンタジー

本編


 すっかり寝そびれた私は明け方になってようやく観念し、寝床から出た。窓の外では鳥が鳴き、太陽が曇天越しに、シルクのような色の光を投射していた。机の上には未完成の小説が乱雑に散らばっていた。
 煙草を吸おうと手を伸ばした箱は空だった。ため息をつき、薄い上着をひっかけ、部屋を出た。コンビニへ向かう道すがら、くだらぬことばかり脳裏に浮かんだ。世間の言う「良い年齢」になっても尚、人並みに働けぬ薄弱の精神への蔑(さげす)み。まともになる努力すらせず、小説を書き続ける怠惰への落胆。小説でなんとかなろうとしているのならばまだ救いもあろう。私はそうでない。これを公募に出すことや商業化することなど一切考えていない。ただ、己の心に浮かんだ原風景としての心象を文字を介しできるだけ精密な近似として表出することに喜びを見出しているのだった。いや、飾るのは止そう。私は物語を考えている時だけ、全てを忘れられるのだ。
 コンビニで煙草を買い、帰路に就(つ)く。私はいつまでこんなことを続けるのだろう。私の書く小説が何になろう。なんにもならぬ。そう分かっていながら、物語を綴(つづ)ることを止められない情けなさ。いよいよ私は未来に希望を見出せなくなった。歩きながら何ら益をもたらさない螺旋(らせん)円環(えんかん)の思考に陥(おちい)っていた私は、ふと足を止めた。随分と長い間歩き続けているというのに、アパアトは一向、見えてこなかった。それだけではない。いつの間に現れたのか、濃霧(のうむ)が辺りを包み、周囲の景色がまるで分らなかった。数メエトル先すら見えない道を私は不安に駆(か)られながら進むしかなかった。
 舗装された歩道を歩いていた私は、いつの間にかベンチの傍らに立っていた。立ち込める濃霧のために周囲の様子はよく分からないものの、どうやら何処かの公園らしかった。私はベンチに腰を下ろした。深呼吸すると水の分子が肺に浸透するようで心地よかった。
「おはよう」
突然声を掛けられ、私は飛び上がって驚いた。私の隣に気温にそぐわない薄い服を着た若い女性が座っていた。
「これは、どうも……」
マヌケな返事をした。
「今日は待っていたの。貴方をね」
「私を? すみません。何処かでお会いしたことがありましたでしょうか」
「いえ。こうして会うのは初めて。でも、知っているわ。貴方のこと」
なんとなく、この女性が人ならざる者であろうと直感し始めていた。
「だから、今日、貴方をここへ呼んだの。この霧でね」
「では、この霧は貴女が?」
「ええ。私の本質は霧。いいわよ霧は。全てを隠してくれる。貴方たちの言う世間も社会も義務も。全てね。御覧なさい。見えるのはただ、今この時だけ。自分の魂の声に従順な貴方のことは好きだけれど、貴方は不必要なことにリソオスを割き過ぎている。だから私が来たの。貴方に霧の守護を授けましょう。貴方を害するものを見ないで済むように」
「止してください!」
私は思わず叫んだ。これを許容すれば私はいよいよ、まともに戻れなくなると直感したのである。
「何故?」
「見たくないものを見ないままにしておくなんてとんでもない。そんな馬鹿げた不誠実なことをしていたら、取り返しのつかないことになってしまう」
女性は私の言葉の意味を計りかねるというように首を傾げた。
「そうかしら? 難儀(なんぎ)ね。人間というのは。そんな通説の方がよほど馬鹿げているように聞こえるけれど。だって、実際、貴方はその考えに支配されて苦しんでいるんじゃないの。いいのよ。見たくないものは見なくたって。どう? 今だけがあるこの景色。素敵でしょう。それに、霧は守護の壁ばかりじゃないわ。別の世界へと接続することだってできる。霧の向こうに何があるのか、そんなこと、誰にも分からないわ。例えば、ほら」
女性が手を振ると、霧の向こうから小さな影が二、三こちらに走ってきた。猫だ。猫たちは私の足元に座り込んだ。私は無意識のうちに屈んで頭を撫でた。
「可愛いでしょう」
「ええ、そうです……ね!」
女性はいつの間にやってきたのか、巨大な獅子を撫でていた。
「驚くことないでしょう? この子も猫みたいなものよ。他にも、ほら」
再び女性が空間を撫でると、霧の外から現れた無数の魚たちが空中を泳ぎ回った。魚ばかりではない、アノマロカリス、オパビニア、名前も知らない顎の立派な巨大魚。およそ現実の光景ではなかった。しかし、私は笑っていた。
「いい? もう一度、言うわ。見たくないものを見て成長することが全てじゃないわ。望まないなら否定しなさい。そして世界をもっと自由に夢想しなさい。今のあなたにはそれが必要なの。貴方に霧の守護を授けましょう。霧は全てを隠し、夢想に接続する。さあ! 行きなさい!」
瞬間、霧が晴れ、私はアパアトの前に立っていた。足元で、猫が鳴いた。
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