テセウス分岐点超過機体郡と生体少女
テセウス分岐点超過機体郡と生体少女
更新日: 2024/04/01 19:36異世界ファンタジー
本編
潤滑油のよく効いたスムウズな足取りでマアクは店へと入った。
「おや、珍しい。マスタア! マアクだぜ」
店でオイルを飲んでいたハゴット卿(きょう)は機械声帯からよく通る音質で店の奥へと叫んだ。そして、マアクが手を引いていた少女に気がついた。
「おや? マアク、珍しいものを連れてるじゃないか。完全生体のお嬢ちゃん。へへ。こんにちわあ」
彼が鉄兜(てつかぶと)と化した顔を近づけると、少女は明らかに怯えた表情でマアクの手を固く握った。
「ハゴット卿、止してくれ。怯えているじゃないか」
「すまんすまん。完全生体は珍しくてな。今やこの町、幼子もほとんどが、何処かしら機体化しているだろ。何処から連れてきたんだ?」
「連れてきたなんて人聞きの悪い。実はね、この店の前で迷子になっていたんだ。今、アルバが母親を探してる。僕はそれまでこの子を保護しているんだ。ミイという名前だそうだ」
「へえ、ミイちゃんね。さ、これに掛けて」
マスタアが店の奥から小さな椅子を持ってきた。疲労を知らない機体ばかりの店には椅子も机も無かったのだ。ミイは椅子に掛けるときょろきょろと辺りを見回した。
「さ、心配しなくていいよ。さっき、一つ眼機体のおじさんがいたろう? あの人が直ぐにお母さんを見つけてくれる。マスタア、オイルを二百と、人工乳。それからミイちゃん、卵は食べたことあるかい? そう。マスタア、卵を焼いてくれ」
それを聞いたマゴット卿がのけ反りながら感心した。
「豪儀(ごうぎ)なもんだな。卵とは。久しく食ってねえ。当然だ。俺もマアクもマスタアも完全機体だ。食ったって美味くもなけりゃ、適切に排出もできねえ。生体だった頃には食ったこともある気がするが、遠い昔。もう百十六年前になるか。あの頃、生体組織の残ってた頃の記憶はもう不確かだ。覚えちゃいねえ」
やがて出てきた目玉焼きを、ミイは美味しそうに頬張った。それを見つめるマアクの発光レンズが目を細める要領で暗くなった。
「おじちゃんたち、機械でかっこいいね。私も早く機械になりたい」
マアク以外が微笑んだ。
「なあ。マスタア。ハゴット卿。本当に機体化が幸せなんだろうか」
店内の空気に亀裂が走った。
「おい! マアク! お前、最後に調整を受けたのはいつだ。言え!」
ハゴット卿が詰問(きつもん)した。マスタアは受光レンズを不気味に反射させたまま動かなかった。ミイは怯えるでもなく、ハゴット卿の機械声帯を見つめていた。
「二十年前、になるかな」
それを聞いたハゴット卿はあきれたように石炭パイプをふかした。
「いいか、マアク。今のは聞かなかったことにしてやる。二度とそんなことを口にするなよ。俺たちには五年に一度、機体調整を受け、命と記憶を繋ぐ義務がある。どんな手を使って逃れているのか知らんが、それは重罪だ。明日にでも、いや、今からでも調整に行くことを勧めるぜ。理由を聞かず、調整してくれる技士を紹介したっていい」
マアクはそれに応えず、ミイの顔を覗(のぞ)いた。
「美味しいかい」
「うん。私、卵、食べたの二回目。ミルクは飲んだの初めて! 美味しい。おじちゃん、ありがとう」
マアクはまた発光レンズを暗転させた。
「ハゴット卿、マスタア。俺たちの仲だ。今から言うことは全部独り言だ」
二人は沈黙で首肯した。
「この子を見てくれ。生体の清らかさを。まだ指先さえ冷徹な金属になってない。この子を機体化して千年も生かすことが本当に幸せなのかい」
ハゴット卿が黒い煙を吐いた。
「それは、お前が調整を受けていないから、中枢回路のアップデエトをしていない不具合のために生まれた考えでしかない」
「本当にそうかい? 工場で調整という名の機体化を受け続け、生体組織は次々に機体化され、果ては思考も感性も中央局のコンピウタで管理される情報に置き換えられる。その結果が俺たちだ。中央から提供される情報内での思考と満足。不死身の身体で廃棄登録のその日まで管理される。これが幸せか? この子を俺たちと同じようにしていいのか?」
「マアク、お前、完全機体じゃないな? 脳組織が残っているだろう?」
「ああ、わずかだけどね。次に調整を受けたら、なくなるだろうけど」
「その影響、だな。いいか、二度と人前でそんな話をするんじゃない。それと、早急に調整を受けろ」
ハゴット卿は手早く支払いを済ませ、店を出ていった。
やがてアルバがミイの母親を連れて店を訪れ、親子は無事に再会を果たした。反機体化革命の起こる十年前の出来事であった。
0「おや、珍しい。マスタア! マアクだぜ」
店でオイルを飲んでいたハゴット卿(きょう)は機械声帯からよく通る音質で店の奥へと叫んだ。そして、マアクが手を引いていた少女に気がついた。
「おや? マアク、珍しいものを連れてるじゃないか。完全生体のお嬢ちゃん。へへ。こんにちわあ」
彼が鉄兜(てつかぶと)と化した顔を近づけると、少女は明らかに怯えた表情でマアクの手を固く握った。
「ハゴット卿、止してくれ。怯えているじゃないか」
「すまんすまん。完全生体は珍しくてな。今やこの町、幼子もほとんどが、何処かしら機体化しているだろ。何処から連れてきたんだ?」
「連れてきたなんて人聞きの悪い。実はね、この店の前で迷子になっていたんだ。今、アルバが母親を探してる。僕はそれまでこの子を保護しているんだ。ミイという名前だそうだ」
「へえ、ミイちゃんね。さ、これに掛けて」
マスタアが店の奥から小さな椅子を持ってきた。疲労を知らない機体ばかりの店には椅子も机も無かったのだ。ミイは椅子に掛けるときょろきょろと辺りを見回した。
「さ、心配しなくていいよ。さっき、一つ眼機体のおじさんがいたろう? あの人が直ぐにお母さんを見つけてくれる。マスタア、オイルを二百と、人工乳。それからミイちゃん、卵は食べたことあるかい? そう。マスタア、卵を焼いてくれ」
それを聞いたマゴット卿がのけ反りながら感心した。
「豪儀(ごうぎ)なもんだな。卵とは。久しく食ってねえ。当然だ。俺もマアクもマスタアも完全機体だ。食ったって美味くもなけりゃ、適切に排出もできねえ。生体だった頃には食ったこともある気がするが、遠い昔。もう百十六年前になるか。あの頃、生体組織の残ってた頃の記憶はもう不確かだ。覚えちゃいねえ」
やがて出てきた目玉焼きを、ミイは美味しそうに頬張った。それを見つめるマアクの発光レンズが目を細める要領で暗くなった。
「おじちゃんたち、機械でかっこいいね。私も早く機械になりたい」
マアク以外が微笑んだ。
「なあ。マスタア。ハゴット卿。本当に機体化が幸せなんだろうか」
店内の空気に亀裂が走った。
「おい! マアク! お前、最後に調整を受けたのはいつだ。言え!」
ハゴット卿が詰問(きつもん)した。マスタアは受光レンズを不気味に反射させたまま動かなかった。ミイは怯えるでもなく、ハゴット卿の機械声帯を見つめていた。
「二十年前、になるかな」
それを聞いたハゴット卿はあきれたように石炭パイプをふかした。
「いいか、マアク。今のは聞かなかったことにしてやる。二度とそんなことを口にするなよ。俺たちには五年に一度、機体調整を受け、命と記憶を繋ぐ義務がある。どんな手を使って逃れているのか知らんが、それは重罪だ。明日にでも、いや、今からでも調整に行くことを勧めるぜ。理由を聞かず、調整してくれる技士を紹介したっていい」
マアクはそれに応えず、ミイの顔を覗(のぞ)いた。
「美味しいかい」
「うん。私、卵、食べたの二回目。ミルクは飲んだの初めて! 美味しい。おじちゃん、ありがとう」
マアクはまた発光レンズを暗転させた。
「ハゴット卿、マスタア。俺たちの仲だ。今から言うことは全部独り言だ」
二人は沈黙で首肯した。
「この子を見てくれ。生体の清らかさを。まだ指先さえ冷徹な金属になってない。この子を機体化して千年も生かすことが本当に幸せなのかい」
ハゴット卿が黒い煙を吐いた。
「それは、お前が調整を受けていないから、中枢回路のアップデエトをしていない不具合のために生まれた考えでしかない」
「本当にそうかい? 工場で調整という名の機体化を受け続け、生体組織は次々に機体化され、果ては思考も感性も中央局のコンピウタで管理される情報に置き換えられる。その結果が俺たちだ。中央から提供される情報内での思考と満足。不死身の身体で廃棄登録のその日まで管理される。これが幸せか? この子を俺たちと同じようにしていいのか?」
「マアク、お前、完全機体じゃないな? 脳組織が残っているだろう?」
「ああ、わずかだけどね。次に調整を受けたら、なくなるだろうけど」
「その影響、だな。いいか、二度と人前でそんな話をするんじゃない。それと、早急に調整を受けろ」
ハゴット卿は手早く支払いを済ませ、店を出ていった。
やがてアルバがミイの母親を連れて店を訪れ、親子は無事に再会を果たした。反機体化革命の起こる十年前の出来事であった。