宵待桜

作家: 不知火昴斗
作家(かな): しらぬい あきと

宵待桜

更新日: 2024/01/25 23:45
歴史、時代、伝奇

本編


 月光があまりにも冴えて胸が騒ぐものだから、皆が寝静まった頃を見計らい、ひとりで屋敷を抜け出した。

 地を這う蟲たちのジーという鳴声とともに、裏山に続く道を歩く。ふと顔をあげれば、山の中ほどにある神社と、その隣でひっそりと咲く山桜が見えた。

 苔むした階段を上り、神社まで行く。静まり返った境内は空気が澄んでいて、なんだかとても居心地が良いように思えた。


「どうした、小僧。道にでも迷ったか」

 不意にかけられた声に、思わず首を竦めた。

「答えぬか。答えられぬか」

 どこかからかうような調子の声色にぎこちなく振り向いてみると、そこには一人の女がいた。後ろには、下で見たあの山桜がある。

「お前、わたしが怖くないのか?」

 そう言って、女は手にした酒盃と同じ色をした唇を吊り上げる。

 蒼い闇夜よりも濃い髪をきりりと結い上げ、艶やかに模様を散らした着物を纏い、緋色の裾襟からのぞくうなじはどこまでも白く。行儀悪く立膝をつき、片手には朱色の大盃。残る一方は、背を預ける幹の横、寄り添うように建つ小さな祠へと伸ばす。

 女は供えてある御神酒をひょいと取り上げて、片手で器用に封を開けた。途端、ぷんとした甘い匂いが周囲に漂いはじめる。

「お前にはまだ早いよ」

 嘲笑(あざわら)う声もそのままに、女は盃に口をつけた。

 舞い落ちる花弁は、さながら波打つ水面に揺れる小船のよう。それごと飲み乾(ほ)してしまう女の、喉のどを伝い落ちるものは。

「言ったはずだぞ。お前にはまだ早い」

 さ、と月が翳った刹那、周囲の空気ががらりと変わった。

 山頂からの吹き降ろしが、唸りをあげてやってくる黒い獣のように見えて、わぁわぁと叫びながら来た道を転がり、駆け下りる。その背を、女の哂(わら)い声がどこまでもついてくる。

 屋敷の見える場所まで戻ったあたりで、ようやく人心地がついて走るのをやめた。

 振り返ってみれば、月はすっかり雲に隠れ、山もどこからともなく湧き出た靄もやに包まれてしまっていた。

 中腹に見えていたはずの桜も見えず、たった今見聞きしたことが、まるで夢のようで。

 けれど。

「また来るといい。お前が大きくなって、その時もまだわたしを覚えていたら。そうしたら、今度はちゃんと酌をしてやるよ」

 肩に残った花弁が、微かに酒の香(か)を漂わせながら囁く。

 陶然と見上げる山の中では、狐の啼なく声が小さくこだましていた。

(了)
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