ヒグマフィッシング
ヒグマフィッシング
更新日: 2024/01/15 03:00現代ファンタジー
本編
――あれ?
意気揚々と渓流釣りに来てみると、ヒグマの親子が釣り糸を垂らしていた。僕と同じサケ狙いだろうか。その後ろ姿があまりにも様になっているので、一瞬だけ人間かと疑った。
僕は子熊から少し離れて、念のために、もう二歩離れて横に着き、恐れる気持ちを抑えつつ「横、いいかな?」と声をかけた。
「どうぞどうぞ」
微動だにしない子熊に対し、親熊はすっとこちらを向き、見事な人間の言葉で返してくれた。前に友人が「最近、釣りをしている熊の親子をよく見かける」と大真面目な顔をして言っていたのを思い出し、その時は「何をバカなことを」と相手にしなかったことを、僕は心の中で詫びた。
一体どこで揃えたのか、熊はわりかしちゃんとした釣り竿を持っており、後ろにはクーラーボックスまである。
「ああ、これ全部人間が捨てたものですよ。もったいない。まだ使えるのに」
僕がジロジロ見ているのに気付いたのか、親熊はそう言いながら、慣れた手つきでリールをキリキリと巻いた。「人間が捨てたもの」という言葉に罪悪感を覚えつつ、それを熊が器用に再利用しているのを|目《ま》の当たりにして、僕はすっかり感情の持って行きどころが分からなくなった。
「サケ、川に入って獲らないの?」
思い切って聞いてみた。どう考えても、熊にとっては釣るより直接獲った方がいいような気がする。
「実は去年、この子が足を滑らせて流されましてねぇ。危うく溺れるところだったんですよ。それ以来、この子は水が苦手になってしまいまして」
「それは災難だったね。でも、助かってよかった」
集中しているのか、はたまた僕に興味がないのか、さっきから子熊は一切表情を変えずに釣り竿を握っている。親熊の|躾《しつけ》を疑うわけじゃないが、少々不愛想が過ぎる気がした。
「でも、わざわざ釣るんじゃ、手間がかかって大変でしょう?」
「いえいえ、そうでもないんですよ」
親熊がクーラーボックスを開けると、中には大きなサケがぎっしりと詰まっていた。
「凄い! 大漁じゃないの!」
「まぁまぁですね」
人間ならいざ知らず、熊に謙遜されるとさすがに腹が立つ。僕は心の中で「熊のクセに生意気な」と毒を吐いた。川に入って獲っても、釣り竿で獲っても、やはり野生動物は食料を調達する能力に|長《た》けているようだ。
「あ、そうだ。このあと、仲間を呼んでバーベキューをするんですけど、ご一緒にいかがですか?」
「え? いやぁ、僕は……結構です」
「それは残念」
「残念」の意味が分からない。一体、熊はどういう意図を持って僕を誘ったのだろうか。どう考えても、僕が「バーベキュー側」になる未来しか見えない。
――何だかんだ言って、僕を喰おうとしているんじゃ……。
今さらながら、そんな恐怖心が全身を駆け巡った。僕はできるだけ自然に、ポケットの中の携帯電話をチラッと見た。
「あー、会社からメールがきてる。トラブルが起きたみたいだから行かなくちゃ」
「そうですか。人間はお忙しいですねぇ」
「それじゃ、これで失礼するよ」
慌ただしく帰り支度をして、歩き出した直後、背中の方から「あーそうそう」と不自然に大きな熊の声が聞こえた。
「ここ、携帯電話の電波、入らないんですけどねぇ」
僕は振り返らずに「よくご存じで」と言い放ち、走るのと同じくらいの早歩きで、その場から去った。
(了)
0意気揚々と渓流釣りに来てみると、ヒグマの親子が釣り糸を垂らしていた。僕と同じサケ狙いだろうか。その後ろ姿があまりにも様になっているので、一瞬だけ人間かと疑った。
僕は子熊から少し離れて、念のために、もう二歩離れて横に着き、恐れる気持ちを抑えつつ「横、いいかな?」と声をかけた。
「どうぞどうぞ」
微動だにしない子熊に対し、親熊はすっとこちらを向き、見事な人間の言葉で返してくれた。前に友人が「最近、釣りをしている熊の親子をよく見かける」と大真面目な顔をして言っていたのを思い出し、その時は「何をバカなことを」と相手にしなかったことを、僕は心の中で詫びた。
一体どこで揃えたのか、熊はわりかしちゃんとした釣り竿を持っており、後ろにはクーラーボックスまである。
「ああ、これ全部人間が捨てたものですよ。もったいない。まだ使えるのに」
僕がジロジロ見ているのに気付いたのか、親熊はそう言いながら、慣れた手つきでリールをキリキリと巻いた。「人間が捨てたもの」という言葉に罪悪感を覚えつつ、それを熊が器用に再利用しているのを|目《ま》の当たりにして、僕はすっかり感情の持って行きどころが分からなくなった。
「サケ、川に入って獲らないの?」
思い切って聞いてみた。どう考えても、熊にとっては釣るより直接獲った方がいいような気がする。
「実は去年、この子が足を滑らせて流されましてねぇ。危うく溺れるところだったんですよ。それ以来、この子は水が苦手になってしまいまして」
「それは災難だったね。でも、助かってよかった」
集中しているのか、はたまた僕に興味がないのか、さっきから子熊は一切表情を変えずに釣り竿を握っている。親熊の|躾《しつけ》を疑うわけじゃないが、少々不愛想が過ぎる気がした。
「でも、わざわざ釣るんじゃ、手間がかかって大変でしょう?」
「いえいえ、そうでもないんですよ」
親熊がクーラーボックスを開けると、中には大きなサケがぎっしりと詰まっていた。
「凄い! 大漁じゃないの!」
「まぁまぁですね」
人間ならいざ知らず、熊に謙遜されるとさすがに腹が立つ。僕は心の中で「熊のクセに生意気な」と毒を吐いた。川に入って獲っても、釣り竿で獲っても、やはり野生動物は食料を調達する能力に|長《た》けているようだ。
「あ、そうだ。このあと、仲間を呼んでバーベキューをするんですけど、ご一緒にいかがですか?」
「え? いやぁ、僕は……結構です」
「それは残念」
「残念」の意味が分からない。一体、熊はどういう意図を持って僕を誘ったのだろうか。どう考えても、僕が「バーベキュー側」になる未来しか見えない。
――何だかんだ言って、僕を喰おうとしているんじゃ……。
今さらながら、そんな恐怖心が全身を駆け巡った。僕はできるだけ自然に、ポケットの中の携帯電話をチラッと見た。
「あー、会社からメールがきてる。トラブルが起きたみたいだから行かなくちゃ」
「そうですか。人間はお忙しいですねぇ」
「それじゃ、これで失礼するよ」
慌ただしく帰り支度をして、歩き出した直後、背中の方から「あーそうそう」と不自然に大きな熊の声が聞こえた。
「ここ、携帯電話の電波、入らないんですけどねぇ」
僕は振り返らずに「よくご存じで」と言い放ち、走るのと同じくらいの早歩きで、その場から去った。
(了)