作家: 帆多 丁
作家(かな): ほた てい

更新日: 2023/10/23 17:57
異世界ファンタジー

本編



1.

 結社。
 男が二番目に覚えた文字だ。
 聖なる丘に建つ「結社」。その裏手にそびえる崖の上に身を伏せ、男は結社の御殿《ごてん》を無表情に眺めていた。
 伸び放題の髪と、赤黒く染まった外套《がいとう》は、男の身を隠すのに一役買う。春の羽虫どもにも構わず、男は夜を待っている。
 自らの名は忘れて久しい。男は爪と名乗っていた。
 男が肌身離さぬ物が三つある。
 その一つが「爪」という名の短刀だ。
 いや、短刀だったものだ。
 人を斬るたびに短刀は育ち、逆《さか》反《ぞ》りの黒刀《くろがたな》となっていった。今は鞘《さや》の中で静かに夜を待っている。
 崖の上からは、結社に出入りする女たちの姿が見える。セアラーも、かつてはあんな中にいたのだろう。
 もう顔は思い出せない。
 笑顔が好きだった事は、覚えている。
 男は孤児だった。生き抜くためには何でもやった。盗めと言われれば盗み、殺せと言われれば殺し、犯せと言われれば犯した。
 そうやって橋の下、穴蔵の中、下水口の脇、街の落とす陰の中を何年も転々とするうちに、気づけば隣にセアラーがいた。
 少女が金になるのは知っていた。
 そうしなかったのは、見たこともない蒼い髪が美しかったからだ。
 ガラスの欠片や、奇妙な形の石よりもずっといいものを拾った、それぐらいの気持ちだった。
 人里離れてひっそり暮らす、エルフと呼ばれる部族の子がどうやって街にきたのか、もう誰も知らない。
 彼女が隣に来てから、男は殺さなくなった。犯さなくなった。彼女が嫌がる事はやりたくなかった。そうして何年か生き延び、殺されそうになって、街を二人で逃げた。
 そのすぐ後だ。彼女の具合が悪くなった。
 雨も降り出して、たまたま目に付いた家に入り込んだ。家主が騒いだら適当に黙らせるつもりだった。
 しかし家主の男は騒ぐでもなく、責めるでもなく、彼女の容態を見て言った。

 ――身ごもっていますね。
 ――私は、貧しい母親を救うべく活動している者です。

 家主は毎日どこかへ出かけていく。その先で、女たちに読み書きを教え、母子に医術を施し、出産に立ち会うなどしているとセアラーから聞いた。
 家主には敵も多かった。大抵は、女たちの夫だった。
 後に「爪」となる男の怪異な風貌と腕っぷしは、大いに役にたったものだった。
 セアラーも、よく家主に付いていっては読み書きを教わって帰ってきた。帰って来てからも白墨を持ち、熱心に字の練習をしていたものだ。

 ――みてみて、これがアタシのなまえって。
 ――あんたのも書くよ?見ててね?
 ――ねぇ、いっしょにやろうよ。

 男は興味が持てなかった。線と図柄の組み合わせが読めなくても困った事などなかった。
 セアラーのお腹はどんどん大きくなっていく。
 文字に興味をもてなくても、セアラーとお腹の子には興味があった。この中に自分の子が入っているというのが、心底ふしぎだった。
 子どもが産まれるとは何なのか、親というのはなんなのか、家主の男から学んだ。
 そのうち、男も家主を心から信頼するようになった。この人なら間違いはないのだと。

 ――いよいよとなったら私が取り上げますから。
 ――なにも心配なんてする必要ないですよ。

 その家主の名は覚えている。
 忘れぬように、毎晩寝る前に唱えている。
 ウィジャ。ウィジャ。ウィジャ。ウィジャ。
 殺す。殺す。殺す。殺す。


2.

 セアラーが辛そうにしていても、どうにも出来ない事が多いと知った。だから他の事では、彼女が楽になるようになんでもやった。
 働いた。汚れ仕事も、危険な仕事も、あの糞まみれな街に比べればどうと言うこともなかった。
 辛い時期が落ち着いて、子の名前が決まった。男の子でも、女の子でも、どちらでも素敵な名前になった。
 いよいよ産まれるんじゃないかという頃になると、セアラーは白墨ではなく、ペンと紙で、子の名前を練習するようになった。

 ――産まれたら、きれいな紙で、きれいな字で、この子に名前を贈りたいの。

 そしてここに来てようやく、男も文字を覚えようという気になった。
 だから最初に覚えたのは、子の名前だ。忘れないように、練習できるように、彼女が練習で書いた紙をもらって、ペンも借りた。
 翌日に彼女は産気づいた。
 ウィジャがセアラーを馬車に乗せて連れ出す。

 ――大丈夫です、私に任せてください。
 ――不慣れな人間は邪魔になります。数日間かかりますから、ここで待っていてください。

 この時の事は何度も夢に見る。追いかけても、殴って止めようとしても、ウィジャは行ってしまう。
 それを追いかけて、追いかけて、何度も同じ光景を見る。
 現実においても、男はほとんど待てなかった。
 すぐに飛び出し、行き先を知らぬまま探し回り、いつか殴り飛ばした連中に追い回されつつも、ウィジャの行方を突き止めた。
 子どもが産まれそうだからウィジャを探している、そう言うと誰かの母親が教えてくれた。

 ──「結社の家」に向かうのを見ましたよ。

 男は走った。
 セアラーの顔が見たかった。
 家を出るときにも苦しそうにしていた。なにか励ましてやりたい、力になりたいと思った。

 結社の家は、ウィジャの家よりよほど大きく、しかし人の気配がなかった。ただ、昔に嗅ぎ慣れたにおいがした。
 においを辿って奥へと行き、半開きの扉を押し開けて目にしたのは、清潔な部屋の真ん中に据えられた清潔なベッドと、きれいな髪の蒼と、裂かれた腹だった。

 ――とられちゃった……とられちゃった……

 うわごとのようにセアラーが繰り返し、虚ろな瞳が、必死に男を見ようとしていた。

 ――お乳をあげたよ、お母さんになれたよ、なのに、
 ――とられた、とられちゃった。

 男はかつて、人の腹を斬って殺した事がある。
 腹を裂かれた者を助ける術は、男にはなかった。
 ただただ、彼女の手を握り、蒼い髪を撫で、声をかけ続けた。街にいた頃の話もした。あの文字通り糞まみれな暮らしでさえ、戻れるなら喜んで戻りたかった。

 ――ごめんなさい……
 ――ごめんなさい……
 ――ごめん……

 それが誰に向けた言葉だったのか、もう知る手段はない。
 セアラーは最後に、謝って死んだ。

 ――ちがう。
 ――おまえがいったいなにをした?

 あやまるのは、おまえじゃない。

 ベッドの脇に転がっていた、鋭利な短刀から声がした。
 「裂け。お前の女がされたように、我が身で復讐を果たせ」
 血に濡れた短刀は「爪」と名乗った。


3.

 男は、再び殺すようになった。
 最初は、ウィジャの家で待ち伏せていた連中だった。
 「結社」と「ウィジャ」、その二つを手がかりに放浪が始まった。追っ手がかかれば男は爪となり、容赦なく殺した。その度に「爪」は育った。
 数年のうちに「結社」はどんな鄙びた村でも見られるようになり、ウィジャの行方は杳として知れない。
 十年が経ったころ、男はエルフの暮らす集落に迷い込み、なぜ彼らが隠れて暮らすかを知った。
 エルフが人となした子を、母の産道を通すことなく取り上げると、強く神性を残した子になるという。
 そうやって、かつての帝王も産まれたと。だから人はエルフをさらうようになり、彼らは隠れたのだと。
 ウィジャは知っていたのだろう。それとも結社の命令か。
 どちらにしても、やることに変わりはなかった。

 夜が来て、宙天に満月がかかる頃、男は爪になった。
 崖に浮き掘られた巨大な女の像の前に、松明の一団が輪を作った。ウィジャはいるのかわからない。間違いなら、また別を当たれば良い。
 背負った「爪」を手に取り、黒く闇に沈む逆反りの刀身を振って、飛び降りた。
 浮き彫りの像に「爪」を立て、縦に深く傷を彫りながら一気に着地する。色めき立つ一団の松明が激しくゆらゆら揺れ、その手近な一つに「爪」が振るわれた。
 とん。
 鎖骨のあたりに「爪」の先がかかり、膚《はだえ》の内側を掻き出して刃が抜ける。松明がひとつ、地に落ちる。
 ウィジャではない。
 またひとつ、松明が落ちる。
 ウィジャではない。
 またひとつ、またひとつ、またひとつ、またひとつ。
 最後の二人、片方を見て爪は手を止め、歯を見せて笑った。
 背後に一人をかばうように立つ、線の細い男。地に落ちた松明たちが照らすその顔を。
 会いたかった。
 ウィジャ。ウィジャ。ウィジャ。ウィジャ。
 殺す。殺す。殺す。殺す。
 炎光と月光の間を低く飛ぶように抜け、爪は「爪」を突きたてた。どう殺すのかは、すでに決まっていた。
 とん。
 脾腹《ひばら》の下、右の腰骨を掠めて柔らかな体内へ黒刀《くろがたな》が侵入する。その手応えを感じて爪はグルと刃をひねり、薙ぐ。

 中を掻《か》き出して一筋、宙空に走った赤じみた灰色の線。

「おとうさま!」

 くずおれる仇の背後から、幼い声がした。
 殺せ、忌まわしき神の依代《よりしろ》を殺せ。
 逆反りの刃が男に囁く。「爪」を振り上げ、幼い声を刈り取らんとして、蒼い髪が目に入った。
 面影があった。
 思い出すことができた。
 ウィジャの亡骸にすがりつく娘は、母親似だ。セアラーも泣くときはあんな顔で泣いていた。泣いたり、怒ったり、笑ったり、顔の忙しい女だった。
 ――笑った顔が見たい。

「よくもおとうさまを!」

 娘が顔を上げていた。その瞳に、怯え、悲しみ、怒り、そして憎しみ。
 幼い娘の肌から黄金の光が滲み、次の瞬間、男を幾本もの光の槍が貫いた。
 痛みはなかった。熱さだけがあった。右手の「爪」が振り上がり、娘めがけて投げられようとした。
 男は、手を離さなかった。
 そのまま抱きかかえるように、「爪」を自らに食い込ませた。喉を血が埋めて、声は出ず、土に倒れ伏して男は娘の姿を探す。
 騒ぎを聞きつけて結社の御殿から飛び出てきた連中がある。ユーリア様、ユーリア様、と娘が呼ばれている。
 ちがう。
 その子の名前は、ユーリアじゃない。
 その子は、俺とセアラーの娘だ。
 鉄の棍棒に打たれながら、男は手の中で暴れる「爪」を離さなかった。懐にしまった紙をもう一度見たかった。娘に名を贈りたかった。

 セアラーの叶わなかった願いを、叶えられないまま、爪だった男は骸になった。

 翌朝、男の骸が改めれた。
 腹に埋まった短刀はどうあっても抜くことができず、他に男の持ち物は、古びたペンと、一枚の紙片だけだった。
 紙には下手な字で何度も「イゥリ」と書き連ねられていた。表と裏で筆跡が違うようにも思われたが、そのまま男の骸と共にどこかに捨てられた。

 その後、「爪」の行方は杳《よう》として知れない。
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