さよなら、カモミール
さよなら、カモミール
更新日: 2023/10/15 22:41恋愛
本編
ぽつぽつと降り始めた雨は、止むどころか勢いを増している。雨宿りにと古い喫茶店に飛び込んでそろそろ一時間。読んでいた文庫本はあと数ページだし、少しずつ飲んですっかり薄くなったアイスコーヒーも残りわずか。
『雨だから、迎えに来て欲しい』
あの人に送ったメッセージには既読すらつかない。タイムリミットか。
ここから駅までいちばん濡れずに歩けるルートを考えつつ、カウンター席から立ち上がる。
「もう少し、ゆっくりされたらどうですか」
さっきまでカウンターのなかで本を読んでいたマスターが、ちらりと私を見上げた。
「まだずいぶん降ってますよ」
「でも…」
「どうせ暇ですから」
優しいタヌキ顔のマスターは、店内を見渡して微笑む。はしっこのテーブル席でうとうとするご老人と、反対のはしのテーブル席でイヤホンをさし、キーボードを叩く青年がひとり。
「傘、お持ちでないんでしょう」
「…はい」
ゆっくり座り直すと、貸し出せる傘があればよかったんですけどね、すみません、とマスターは笑った。
改めて店内を見渡してみる。木製の壁やテーブルで揃えられた、落ち着いたお店だ。レジ前にはコーヒー豆やハーブティー、誰が作ったものなのか、ハンドメイドのアクセサリーやコースター等の小物が売られている。外観が古いから今まで入ったことがなかったけれど、こんなに素敵な店内ならもっと早く知りたかった。
「こちら、お嫌いでなければ。サービスです」
「えっ」
「カモミールティーと、ナッツのクッキー。傘のかわりに」
私の前に、カップと可愛いお皿が置かれた。良い香りが漂ってくる。
「…ありがとうございます」
両手でカップを包むと、温かくて、優しくて、涙が出そうになり、あわててカップに口をつけた。
「雨、止まないですね」
マスターは外を眺めながら、つぶやくように言った。
「そうですね」
「旅行ですか?」
「え、ああ、まあ、そんなところです」
私の傍らにあるキャリーバッグを見れば、そう思うのも無理はない。そういうことにしておこう。
「雨、早く止むと良いですねぇ。明日は雨の予報はありませんから、ゆっくり観光できるでしょう」
「はい」
「…と言っても、このへんはさほど見る場所もないですけどね。向こうの角を曲がったところにちょっとしたギャラリーはありますが」
「ああ、イタリアンレストランの向かいの。小さいけど、いろんな展覧会をしていますよね」
言葉を返すと、マスターは驚いたような顔をした。
「ご存知でしたか。このあたり、いらっしゃったことがあるんですね」
そうだ、私は観光客、ということにしていたんだった。
来たことがあるも何も、この町には三年以上暮らしている。そのギャラリーにだって何度足を運んだことか。何度あの人の絵を見に行ったことか。
「こんな町ですが、気に入っていただけたのなら嬉しいです。何度でもいらしてください」
マスターの笑顔があまりにも優しくて、胸がちくっと痛む。笑ってうなずいたつもりだけれど、きちんと笑顔になっていただろうか。
私はもう、二度とこの町に来るつもりはない。
「あのギャラリー、私も好きでよく行くんですよ。まだ有名じゃないんですが、この町出身の画家さんがいましてね」
あそこでよく展覧会をしているようですよ、とマスターは言った。
また胸が痛む。
さっきとは違う痛み。
その画家を、私は知っている。
「私もここに住んで長いですから、彼のこと少し知ってるんです。小さい頃から絵が好きで、描き始めるともう、夢中になってしまうんですよ」
それも知っている。
本当に夢中になるのだ。恋人のことなんて、目に入らなくなるくらい。
「コーヒーとハーブティーが好きでね。いろんな種類を取り寄せてるんですって」
それも知っている。
あの人のおかげで、私はハーブティーが飲めるようになった。
「お花も好きで。カモミールが特に好きなんだそう。なんでも、花言葉が良いらしくて」
知っている。
「逆境で生まれる力、ですよね」
「あなたもご存知なんですね」
あの人から何度も聞いていたから。
「なかなか絵が認められなくても、そんな状況だからこそ生み出されるものがあるのだと、語っていました」
あの人が言っていた通りのことを、マスターが言う。
「実は彼、ここでよくカモミールティーを飲んでいたんですよ」
「…そうなんですね」
それは知らなかった。この喫茶店に来たことがあるなんて、一度も聞いたことがない。
「そこにハンドメイドの商品があるでしょう。よく常連さんなんかが持ってきてくれるんですけど。そのなかに、彼のものもあるんですよ」
「えっ?」
そんなの、知らない。この花の絵のコースターですよ、とマスターは教えてくれた。
いろんな花のコースターがずらりと並んでいる。あの人が絵以外のものを作っていたことも、売っていたことも、知らない。
そして私は、あの人の作品だというコースターを見てもぴんとこなかった。絵柄だけではわからない。
それもそのはず。
私はあの人の絵が好きだったわけでも、絵を描くあの人が好きだったわけでもない。
私は、あの人のすべてが好きだったのだ。
おいしいハーブティーを淹れるあの人が。
花言葉に詳しいあの人が。
笑うとえくぼができるあの人が。
優しく抱きしめてくれるあの人が。
好きだった。
もちろんあの人の絵も、絵を描いているときのあの人も好き。けれどそれはあくまでもあの人のほんの一部分でしかなく、私にとっては欠けても問題ない部分だった。
「最近はなんだか焦っているようでね。早く売れて、一人前になりたいと、ちょっと必死な様子でした」
マスターはしみじみと言う。
「早く成功して、安心させたい相手でもいたのでしょうか」
「どうなんでしょうね」
できるだけ素っ気なく答える。
そんなの、知らない。
「そうそう、カモミールには他にも花言葉があるんです。ご存知ですか?」
「…いえ」
急に、どうしたのだろう。
「カモミールには『仲直り』という花言葉もあるんです。実はうちのカモミールティー、恋人とケンカした、って人が購入されることもあったんですよ」
「…そうですか」
マスターは、知らないふりをして、知っているのかもしれない。
私とあの人のことを。だって、あの人の知り合いであり、あのギャラリーにもよく足を運んでいるという。あの人といる私を見かけたことがあったとしても、何もおかしくない。
ただマスターは…、少し勘違いをしている。
これはケンカではない。仲直りも存在しない。
もう、終わりなのだ。
私はあの人が好きだった。
あの人の絵が。絵を描くあの人が。
でも、それよりも、もっともっと好きだったのは、私に「好きだ」と、伝えてくれるあの人だった。
あの人は絵に夢中だった。
最近は私のことには見向きもせず、必死で筆を握っていた。
その裏側に、あの人の想いがあったとしても。
もうその姿は、私が好きなあの人ではない。
キャリーバッグに荷物を詰め込んで、あの人と暮らす家を飛び出した。あの人は振り向きもしなかった。
雨が降りだしたとき、少し揺らいだ。
『雨だから、迎えに来て欲しい』
メッセージに応えてくれたら、考え直すつもりだった。考え直したかった。
でも、もう無理だ。
あの人はきっと今頃、夢中で筆を動かしている。…誰のために?
知らない。
もしも、もしも私のためだったとしたら。
私のためだったとしても。
想ってくれているなら、絵を描く以外のことで示して欲しかった。言葉で示して欲しかった。
私はカモミールティーを飲み干した。雨はまだ降っている。
「ごちそうさま。おいしかったです」
「まだ降ってますよ」
立ち上がった私に、マスターは慌てて言った。
「いえ、大丈夫です。もう、大丈夫」
迎えがなくても、大丈夫。
「そうですか…。では、お気をつけて。もしよければ、カモミールティー、いかがですか?」
相変わらず優しく微笑みながら、マスターは売り物のカモミールティーを指さした。
おいしいけれど、優しいけれど、私には必要ない。
「カモミールティーじゃなくて…、これ、ください」
私は、コースターをひとつ手に取った。
「これ…、ですか」
マスターは戸惑っているようだけれど、私に必要なのは、これだ。
「もしその画家さんに会うことがあったら、このコースターが売れた、って伝えてください」
きっとそれで伝わるだろう。
コースターを大事に持って、喫茶店を出る。
店の外で、雨に打たれながら、ぼやけるコースターを眺めた。
そこには、可愛らしいスイートピーが描かれている。
0『雨だから、迎えに来て欲しい』
あの人に送ったメッセージには既読すらつかない。タイムリミットか。
ここから駅までいちばん濡れずに歩けるルートを考えつつ、カウンター席から立ち上がる。
「もう少し、ゆっくりされたらどうですか」
さっきまでカウンターのなかで本を読んでいたマスターが、ちらりと私を見上げた。
「まだずいぶん降ってますよ」
「でも…」
「どうせ暇ですから」
優しいタヌキ顔のマスターは、店内を見渡して微笑む。はしっこのテーブル席でうとうとするご老人と、反対のはしのテーブル席でイヤホンをさし、キーボードを叩く青年がひとり。
「傘、お持ちでないんでしょう」
「…はい」
ゆっくり座り直すと、貸し出せる傘があればよかったんですけどね、すみません、とマスターは笑った。
改めて店内を見渡してみる。木製の壁やテーブルで揃えられた、落ち着いたお店だ。レジ前にはコーヒー豆やハーブティー、誰が作ったものなのか、ハンドメイドのアクセサリーやコースター等の小物が売られている。外観が古いから今まで入ったことがなかったけれど、こんなに素敵な店内ならもっと早く知りたかった。
「こちら、お嫌いでなければ。サービスです」
「えっ」
「カモミールティーと、ナッツのクッキー。傘のかわりに」
私の前に、カップと可愛いお皿が置かれた。良い香りが漂ってくる。
「…ありがとうございます」
両手でカップを包むと、温かくて、優しくて、涙が出そうになり、あわててカップに口をつけた。
「雨、止まないですね」
マスターは外を眺めながら、つぶやくように言った。
「そうですね」
「旅行ですか?」
「え、ああ、まあ、そんなところです」
私の傍らにあるキャリーバッグを見れば、そう思うのも無理はない。そういうことにしておこう。
「雨、早く止むと良いですねぇ。明日は雨の予報はありませんから、ゆっくり観光できるでしょう」
「はい」
「…と言っても、このへんはさほど見る場所もないですけどね。向こうの角を曲がったところにちょっとしたギャラリーはありますが」
「ああ、イタリアンレストランの向かいの。小さいけど、いろんな展覧会をしていますよね」
言葉を返すと、マスターは驚いたような顔をした。
「ご存知でしたか。このあたり、いらっしゃったことがあるんですね」
そうだ、私は観光客、ということにしていたんだった。
来たことがあるも何も、この町には三年以上暮らしている。そのギャラリーにだって何度足を運んだことか。何度あの人の絵を見に行ったことか。
「こんな町ですが、気に入っていただけたのなら嬉しいです。何度でもいらしてください」
マスターの笑顔があまりにも優しくて、胸がちくっと痛む。笑ってうなずいたつもりだけれど、きちんと笑顔になっていただろうか。
私はもう、二度とこの町に来るつもりはない。
「あのギャラリー、私も好きでよく行くんですよ。まだ有名じゃないんですが、この町出身の画家さんがいましてね」
あそこでよく展覧会をしているようですよ、とマスターは言った。
また胸が痛む。
さっきとは違う痛み。
その画家を、私は知っている。
「私もここに住んで長いですから、彼のこと少し知ってるんです。小さい頃から絵が好きで、描き始めるともう、夢中になってしまうんですよ」
それも知っている。
本当に夢中になるのだ。恋人のことなんて、目に入らなくなるくらい。
「コーヒーとハーブティーが好きでね。いろんな種類を取り寄せてるんですって」
それも知っている。
あの人のおかげで、私はハーブティーが飲めるようになった。
「お花も好きで。カモミールが特に好きなんだそう。なんでも、花言葉が良いらしくて」
知っている。
「逆境で生まれる力、ですよね」
「あなたもご存知なんですね」
あの人から何度も聞いていたから。
「なかなか絵が認められなくても、そんな状況だからこそ生み出されるものがあるのだと、語っていました」
あの人が言っていた通りのことを、マスターが言う。
「実は彼、ここでよくカモミールティーを飲んでいたんですよ」
「…そうなんですね」
それは知らなかった。この喫茶店に来たことがあるなんて、一度も聞いたことがない。
「そこにハンドメイドの商品があるでしょう。よく常連さんなんかが持ってきてくれるんですけど。そのなかに、彼のものもあるんですよ」
「えっ?」
そんなの、知らない。この花の絵のコースターですよ、とマスターは教えてくれた。
いろんな花のコースターがずらりと並んでいる。あの人が絵以外のものを作っていたことも、売っていたことも、知らない。
そして私は、あの人の作品だというコースターを見てもぴんとこなかった。絵柄だけではわからない。
それもそのはず。
私はあの人の絵が好きだったわけでも、絵を描くあの人が好きだったわけでもない。
私は、あの人のすべてが好きだったのだ。
おいしいハーブティーを淹れるあの人が。
花言葉に詳しいあの人が。
笑うとえくぼができるあの人が。
優しく抱きしめてくれるあの人が。
好きだった。
もちろんあの人の絵も、絵を描いているときのあの人も好き。けれどそれはあくまでもあの人のほんの一部分でしかなく、私にとっては欠けても問題ない部分だった。
「最近はなんだか焦っているようでね。早く売れて、一人前になりたいと、ちょっと必死な様子でした」
マスターはしみじみと言う。
「早く成功して、安心させたい相手でもいたのでしょうか」
「どうなんでしょうね」
できるだけ素っ気なく答える。
そんなの、知らない。
「そうそう、カモミールには他にも花言葉があるんです。ご存知ですか?」
「…いえ」
急に、どうしたのだろう。
「カモミールには『仲直り』という花言葉もあるんです。実はうちのカモミールティー、恋人とケンカした、って人が購入されることもあったんですよ」
「…そうですか」
マスターは、知らないふりをして、知っているのかもしれない。
私とあの人のことを。だって、あの人の知り合いであり、あのギャラリーにもよく足を運んでいるという。あの人といる私を見かけたことがあったとしても、何もおかしくない。
ただマスターは…、少し勘違いをしている。
これはケンカではない。仲直りも存在しない。
もう、終わりなのだ。
私はあの人が好きだった。
あの人の絵が。絵を描くあの人が。
でも、それよりも、もっともっと好きだったのは、私に「好きだ」と、伝えてくれるあの人だった。
あの人は絵に夢中だった。
最近は私のことには見向きもせず、必死で筆を握っていた。
その裏側に、あの人の想いがあったとしても。
もうその姿は、私が好きなあの人ではない。
キャリーバッグに荷物を詰め込んで、あの人と暮らす家を飛び出した。あの人は振り向きもしなかった。
雨が降りだしたとき、少し揺らいだ。
『雨だから、迎えに来て欲しい』
メッセージに応えてくれたら、考え直すつもりだった。考え直したかった。
でも、もう無理だ。
あの人はきっと今頃、夢中で筆を動かしている。…誰のために?
知らない。
もしも、もしも私のためだったとしたら。
私のためだったとしても。
想ってくれているなら、絵を描く以外のことで示して欲しかった。言葉で示して欲しかった。
私はカモミールティーを飲み干した。雨はまだ降っている。
「ごちそうさま。おいしかったです」
「まだ降ってますよ」
立ち上がった私に、マスターは慌てて言った。
「いえ、大丈夫です。もう、大丈夫」
迎えがなくても、大丈夫。
「そうですか…。では、お気をつけて。もしよければ、カモミールティー、いかがですか?」
相変わらず優しく微笑みながら、マスターは売り物のカモミールティーを指さした。
おいしいけれど、優しいけれど、私には必要ない。
「カモミールティーじゃなくて…、これ、ください」
私は、コースターをひとつ手に取った。
「これ…、ですか」
マスターは戸惑っているようだけれど、私に必要なのは、これだ。
「もしその画家さんに会うことがあったら、このコースターが売れた、って伝えてください」
きっとそれで伝わるだろう。
コースターを大事に持って、喫茶店を出る。
店の外で、雨に打たれながら、ぼやけるコースターを眺めた。
そこには、可愛らしいスイートピーが描かれている。