機械嫌いの彼女
機械嫌いの彼女
更新日: 2023/10/09 09:38現代ドラマ
本編
夕暮れの教室。
部活動に励む運動部達の活発な声が教室まで僅かに届き、運動部の大声が教室内に囁き声程度に聞こえてくる。
陽の沈みが早くなってきた十一月。エアコンの点いていない教室内で大松華は、一人、カーディガンを羽織りマッチに火を点けていた。
右手でマッチを持ち、左手で小説を開いている。
「いつまで残ってるつもりだ? 不良少女」
灯りの点いていない薄暗い教室に残る華に、担任の有村翔太が電気を点けながら冗談交じりに注意する。
「電気を消してください」
華はマッチの火を息で吹き消し、開いていた小説を閉じる。
「この暗さで本を読んでいたら、視力を落とすぞ」
「かまいません、嫌いなんで、電気が」
一つため息を吐き電気を消し、有村は華の席に近付く。
「嫌いなのは、電気だけじゃないんだろ?」
「えぇ、機械仕掛けのものは全て嫌いです」
「変わってるな」
有村が本音をこぼすと、華は少し嬉しそうに笑う。
「何を笑ってるんだよ」
「いや、私のこの体質…体質ではないか。この思考を聞いた人は、みんな変に気を遣ったり、この話題を触れないようにしてきたから、素直な感想が聞けて嬉しくて」
理由を聞いた有村は『本当に変わってるな』と軽く笑う。
「先生だって変わってるじゃないですか」
「そうか? 俺は至ってノーマルで、個性がないのが悩みなぐらいだぞ」
「こんな、人畜無害な優等生を不良少女扱いするんですよ。相当な変わり者です」
「いや、もう十八時を過ぎてるんだぞ。とっくに下校時間の過ぎた教室で、マッチに火を点けて居残ってたら不良だと思うだろ」
有村が言うと、華は何も言わずに教室の外、校庭を指差す。
「部活に入ってる奴らの下校時間は、十九時だ。あいつらは不良じゃない」
「でも、私は文芸部ですよ」
「えっ! 大松って部活に入ってたのか!?」
「嘘です」
完全に騙された有村を見て、華は可笑しそうに笑う。
「それに、いきなり一か月ぐらい学校に来なかったろ」
「心配してくれましたか?」
「まぁ、ある程度は心配したけど、大松の場合は毎日連絡はくれてたからな」
「ほら、不良少女じゃない。不良少女だったら連絡なんてしませんよ」
「そうかも…クチュン!」
言葉の途中で有村はくしゃみをすると『先生のくしゃみって、女子力高いですね』と、華が笑いをこらえながら言う。
「悪かったな」
「先生は、寒いですか?」
そう問いながら、マッチに火を点ける。
「マッチは校則違反ではないですよね?」
「確かに、そんな校則は聞いたことがないな」
薄暗い教室内に僅かな明かりが灯り、マッチの擦れた独特な匂いが漂う。
「そのマッチは、明かりを灯すためのものではなく、暖を取るためのものだったのか」
「どっちもです。機械よりも優秀でしょ?」
「優秀ではあるが、不便だろ。ライターの方が楽じゃないか? ライターなら機械じゃないからOKってことで」
「ライターは煙草に使用するイメージが強くて買いづらいんですよ」
「そのイメージはあるな」
「先生って、やっぱり変わり者です」
「そうか?」
「普通は、マッチに否定的な意見を持ったりするのに、機械仕掛けではない代用品を提案してくるとは思いませんでした」
「妹が変わり者だからなー 変わり者の扱いに慣れてるだけで、俺は変わり者ではないよ」
「翔太って、お兄さんだったんだ」
「なぜに、いきなり名前を呼び捨てに?」
「翔太って、なんとなく弟っぽい名前じゃありません?」
「なんだそれって突っ込みたいところだが、なんとなく言いたいことは分かるな。じゃあ、華って名前はどんなイメージなんだ?」
「控えめに言って、可憐なお嬢様ですかね」
「教員クビになるのを覚悟で、ひっぱたくぞ」
「まぁ、怖い。なんて恐ろしい殿方ですの」
偏見のあるお嬢様口調で応える華の頭を、有村が軽く叩く。
「あっ、パワハラです」
「パワハラというより、体罰だろ」
「こんな体罰教師を持って、妹さんが気の毒だわ」
「酷い言われようだな」
「で、妹さんってどんな変人なんですか?」
「変わり者から昇格してないか?」
「変わり者の先生から変わり者扱いされてるんですよ。もう、変わり者では片づけられないでしょ」
「その理論から行くと、大松も変人になるぞ」
「あら、大変」
能天気に華が応える。
「妹は、簡単に言うと引きこもりだな」
「引きこもりが、変わり者なんですか?」
「いや、そうじゃなくて、変わり者が引きこもりになったのかな。オカルト趣味とかがあったんだけど、それが周りからは受け入れられなかったみたいで、突然引きこもりになった」
「先生の妹さんってことは、先生が四十を過ぎてるから、妹さんは三十後半?」
「俺は今年で三十だ。で、妹は歳が離れてて二十二歳」
「なら、妹さんは私と同い年ですね」
「どう計算しても、そうならんだろうが。何年留年してるんだよ」
あまりにも適当なことを並べ立てる華に、想像以上の変わり者だと呆れながら突っ込む。
「妹さんは、私と逆なんですね」
「大松と逆?」
有村が疑問符を浮かべると、二人の会話以外、静寂が支配していた教室内に電子音が鳴り響く。
気が付くと十九時を過ぎており、校庭から運動部の声も聞こえなくなっていた。
有村が、電子音の発生源である携帯電話を取り出し、着信相手を確認しようとした瞬間、華が突然立ち上がり、有村が持っていた携帯電話を叩き落とした。
派手な音を立てて叩きつけられた携帯電話は助けを呼ぶように、悲鳴を上げるように電子音を鳴らし続ける。
二人は、言葉を発しなかった。
しばらくすると、携帯電話は諦めたかのように鳴りやむ。
完全な静寂に支配される教室に、華の足音だけが響く。
華は鳴りやんだ携帯電話の前に立つと、携帯電話を拾い上げるのではなく、思い切り踏みつけた。
変な感触が足から伝わる。
もう一度足を上げて、自分の足に激しい痛みが走る勢いで踏みつける。
ミシッと、鈍い感覚が走るが、何度も何度も踏みつける。
その勢いで、華が持っていたマッチは消えてしまう。
数分後、携帯電話は元の形を成さないほどに砕けていた。
「怒らないんですか?」
華が、怒られるのを恐れているのか、有村の方を見ず携帯電話の残骸を見つめながら問う。
「頭ごなしに怒ったりはしないよ。こういうことをしたらいけませんって、叱るかもしれないけど」
「大人ですね」
「大人というより、大松も言ってただろ。俺は変わり者だからな」
有村はポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点ける。
先程のマッチの匂いとは違う煙の臭いが充満し、華は少し顔を顰めた。
「煙草、吸うんですね」
「たまにな」
「なんで、タバコを吸うんですか?」
「タバコは嫌いか?」
「嫌いと言うより、苦手です」
「なるほどな」
「で、なんで煙草を吸うんですか?」
「人それぞれだけど、俺の場合は集中したい時とか、リラックスしたい時とかかな」
「いま、そんな感じなんですか?」
「あぁ、集中して大松と向き合おうと思ってな」
立ち尽くしている華の傍に、有村は椅子を用意する。
「下校時間とかは気にしないでいいから、取り敢えず座りな」
華は、素直に椅子に座った。
それから三十分ほど沈黙が続いた。
その間、有村は携帯の灰皿を使用して、何本か煙草を吸いかえる。
何もせずに、ただ時間が流れていくよりも、煙草を吸ってくれている方が待たせて悪いという感情が薄れる感じがした。
「私は、機械仕掛けのものが嫌いなんじゃなく、憎いんです」
煙草の匂いに慣れてきた頃、華が意を決して口を開く。
「確かに、さっきの行動を見る限りだと、その表現が当てはまる感じがするな」
「私の父は、昔は凄い機械音痴だったんです。でも、ある時を境にスマホを多用する様になって、それから、私と向き合う時間よりも、スマホと向き合う時間が多くなってしまって」
家族と向き合う時間ではなく『私と向き合う時間』と聞き、華が父子家庭であるのを有村は思い出す。
「それで私は、さっきと同じように父のスマホを叩き落としたんです」
華の声が震え始める。
「そしたら、父が今までに見たことのない表情で私をた…殴って。凄く痛くて。もう、どうしたらいいか分からなくなって」
叩いてと言おうとしたが、殴ってと言い直す。
「もしかして、一か月休んだのは、それが原因か?」
「はい。本当は行きたかったんだけど、可愛い顔が腫れてたから」
声は震えているものの、華が久し振りに笑顔を見せる。
「それ以来、家に居るのが怖くなっちゃって。教室で本を読んでるのが一番落ち着くなって」
「引きこもりの妹と逆って、そういうことか」
短くなった煙草を消し、新しい煙草をくわえる。
慣れた手つきでライターを点けようとすると、華が立ち上がり有村の手を止める。
「火ならありますよ」
華が、マッチをこすり火を点ける。
有村は、マッチ独特の匂いを楽しみつつ、タバコに火を点けた。
「機械仕掛けのものが嫌いではなく憎いと言いましたけど、たぶん、八つ当たりなんです」
マッチの火を消さず、火を見つめながら続ける。
「父にスマホとかの操作を教えたのは、おそらく女性です。で、父が年中スマホをいじっていたのも、その女性相手。私はスマホではなく、スマホの先の人を壊そうとしたんだけど、失敗しちゃいました。私と父との関係が、壊れちゃったんです」
「再婚をしてほしくなかったのか?」
「どうなんでしょうね。特別に親離れが出来ていないとも思わないし、ファザコンではないからパ…父を取られるって感じでもなかったし」
「別に、無理して父と言わず、パパと呼んでいいんだぞ」
「無理してるんじゃなく、殴られてからパパと呼べなくなっちゃったんですよね。無意識に父と呼ぶようになってました」
「なら、呼びたい時にパパと呼べばいい」
「うん、分かった。パパ」
「俺をじゃねーよ。そんなの聞かれたらクビになるわ」
そう言いながら、有村は華に突っ込みを入れる。
今回の突込みは、先ほどのように後頭部を叩くものではなく、軽く頭をなでる優しい突込みだった。
「さっきは、ゴメンな。突っ込みとはいえ叩いたりして」
マッチを持っているため、有村との距離はそう近くはないが、正面から手を伸ばし頭を撫でられた華は、体が熱くなるのを感じていた。
顔を上げ、有村の顔を見る。その際、顔が赤くなっているのを隠すために、マッチの火を顔に近づけた。
薄暗い教室の中で、自分の顔の辺りだけがぼんやりと光る。
顔をはっきりと見られるが、火照りはバレないだろう。
「先生は、約束を必ず守ってくれますか?」
「当然だろ」
「じゃあ、何か奢ってくれたら許します」
「何が食いたいんだよ。ある程度な買って帰っていいぞ」
「違いますよ。買ってもらうんじゃなくて、奢ってもらうんです。どこでもいいんで、連れて行ってください」
「それは、まずくないか」
「じゃあ、明日から私は、先生のことをパパと呼びます」
「こらこら」
「呼びたい時にパパと呼んでいいと、約束してくれたので」
「いや、あれは…」
「楽しみだなー 明日、校長先生に『放課後の、人気のない教室でパパに叩かれた』と訴えかけるの」
あながち間違っていないので、有村は軽く天を仰いだ。
「分かったよ、次の日曜な」
「はい! そしたら、今度は私がお返しにお勧めのお店に案内するので」
「その次もあるのか?」
「当然です。私がお勧めのお店に案内するんだから、先生はお返しに、その次は奢ってくださいね」
「無限ループな気がするんだが」
「気のせいですよ。同じことの繰り返しではなく、毎回違う楽しさがあるはずだから」
華が、マッチの火を消す。
お互いの顔が、はっきりと見えなくなる。
「先生の妹さんは、気の毒です」
「体罰教師の妹でか?」
「そうじゃなくて、先生みたいな人が傍にいないから」
「俺は、妹を見放したりはしてないぞ」
「先生が傍にいるんじゃ駄目なんです。先生みたいな人が傍にいないから気の毒だなって。私は、先生と兄妹ではなく他人なので幸運でした」
華が、有村の手を握る。
「そろそろ、帰りましょう」
時刻は、二十時に迫っていた。
「こんな時間に可愛い女生徒が一人で歩いてたら危険なので、家まで送ってくださいね。先生♪」
華は満面の笑みを浮かべ、有村を見つめる。
薄暗い教室の中、マッチの明かりがなくとも分かるぐらい、自分の顔が赤くなっているのに気づかず、自分の正直な感情をそのまま出していた。
了
0部活動に励む運動部達の活発な声が教室まで僅かに届き、運動部の大声が教室内に囁き声程度に聞こえてくる。
陽の沈みが早くなってきた十一月。エアコンの点いていない教室内で大松華は、一人、カーディガンを羽織りマッチに火を点けていた。
右手でマッチを持ち、左手で小説を開いている。
「いつまで残ってるつもりだ? 不良少女」
灯りの点いていない薄暗い教室に残る華に、担任の有村翔太が電気を点けながら冗談交じりに注意する。
「電気を消してください」
華はマッチの火を息で吹き消し、開いていた小説を閉じる。
「この暗さで本を読んでいたら、視力を落とすぞ」
「かまいません、嫌いなんで、電気が」
一つため息を吐き電気を消し、有村は華の席に近付く。
「嫌いなのは、電気だけじゃないんだろ?」
「えぇ、機械仕掛けのものは全て嫌いです」
「変わってるな」
有村が本音をこぼすと、華は少し嬉しそうに笑う。
「何を笑ってるんだよ」
「いや、私のこの体質…体質ではないか。この思考を聞いた人は、みんな変に気を遣ったり、この話題を触れないようにしてきたから、素直な感想が聞けて嬉しくて」
理由を聞いた有村は『本当に変わってるな』と軽く笑う。
「先生だって変わってるじゃないですか」
「そうか? 俺は至ってノーマルで、個性がないのが悩みなぐらいだぞ」
「こんな、人畜無害な優等生を不良少女扱いするんですよ。相当な変わり者です」
「いや、もう十八時を過ぎてるんだぞ。とっくに下校時間の過ぎた教室で、マッチに火を点けて居残ってたら不良だと思うだろ」
有村が言うと、華は何も言わずに教室の外、校庭を指差す。
「部活に入ってる奴らの下校時間は、十九時だ。あいつらは不良じゃない」
「でも、私は文芸部ですよ」
「えっ! 大松って部活に入ってたのか!?」
「嘘です」
完全に騙された有村を見て、華は可笑しそうに笑う。
「それに、いきなり一か月ぐらい学校に来なかったろ」
「心配してくれましたか?」
「まぁ、ある程度は心配したけど、大松の場合は毎日連絡はくれてたからな」
「ほら、不良少女じゃない。不良少女だったら連絡なんてしませんよ」
「そうかも…クチュン!」
言葉の途中で有村はくしゃみをすると『先生のくしゃみって、女子力高いですね』と、華が笑いをこらえながら言う。
「悪かったな」
「先生は、寒いですか?」
そう問いながら、マッチに火を点ける。
「マッチは校則違反ではないですよね?」
「確かに、そんな校則は聞いたことがないな」
薄暗い教室内に僅かな明かりが灯り、マッチの擦れた独特な匂いが漂う。
「そのマッチは、明かりを灯すためのものではなく、暖を取るためのものだったのか」
「どっちもです。機械よりも優秀でしょ?」
「優秀ではあるが、不便だろ。ライターの方が楽じゃないか? ライターなら機械じゃないからOKってことで」
「ライターは煙草に使用するイメージが強くて買いづらいんですよ」
「そのイメージはあるな」
「先生って、やっぱり変わり者です」
「そうか?」
「普通は、マッチに否定的な意見を持ったりするのに、機械仕掛けではない代用品を提案してくるとは思いませんでした」
「妹が変わり者だからなー 変わり者の扱いに慣れてるだけで、俺は変わり者ではないよ」
「翔太って、お兄さんだったんだ」
「なぜに、いきなり名前を呼び捨てに?」
「翔太って、なんとなく弟っぽい名前じゃありません?」
「なんだそれって突っ込みたいところだが、なんとなく言いたいことは分かるな。じゃあ、華って名前はどんなイメージなんだ?」
「控えめに言って、可憐なお嬢様ですかね」
「教員クビになるのを覚悟で、ひっぱたくぞ」
「まぁ、怖い。なんて恐ろしい殿方ですの」
偏見のあるお嬢様口調で応える華の頭を、有村が軽く叩く。
「あっ、パワハラです」
「パワハラというより、体罰だろ」
「こんな体罰教師を持って、妹さんが気の毒だわ」
「酷い言われようだな」
「で、妹さんってどんな変人なんですか?」
「変わり者から昇格してないか?」
「変わり者の先生から変わり者扱いされてるんですよ。もう、変わり者では片づけられないでしょ」
「その理論から行くと、大松も変人になるぞ」
「あら、大変」
能天気に華が応える。
「妹は、簡単に言うと引きこもりだな」
「引きこもりが、変わり者なんですか?」
「いや、そうじゃなくて、変わり者が引きこもりになったのかな。オカルト趣味とかがあったんだけど、それが周りからは受け入れられなかったみたいで、突然引きこもりになった」
「先生の妹さんってことは、先生が四十を過ぎてるから、妹さんは三十後半?」
「俺は今年で三十だ。で、妹は歳が離れてて二十二歳」
「なら、妹さんは私と同い年ですね」
「どう計算しても、そうならんだろうが。何年留年してるんだよ」
あまりにも適当なことを並べ立てる華に、想像以上の変わり者だと呆れながら突っ込む。
「妹さんは、私と逆なんですね」
「大松と逆?」
有村が疑問符を浮かべると、二人の会話以外、静寂が支配していた教室内に電子音が鳴り響く。
気が付くと十九時を過ぎており、校庭から運動部の声も聞こえなくなっていた。
有村が、電子音の発生源である携帯電話を取り出し、着信相手を確認しようとした瞬間、華が突然立ち上がり、有村が持っていた携帯電話を叩き落とした。
派手な音を立てて叩きつけられた携帯電話は助けを呼ぶように、悲鳴を上げるように電子音を鳴らし続ける。
二人は、言葉を発しなかった。
しばらくすると、携帯電話は諦めたかのように鳴りやむ。
完全な静寂に支配される教室に、華の足音だけが響く。
華は鳴りやんだ携帯電話の前に立つと、携帯電話を拾い上げるのではなく、思い切り踏みつけた。
変な感触が足から伝わる。
もう一度足を上げて、自分の足に激しい痛みが走る勢いで踏みつける。
ミシッと、鈍い感覚が走るが、何度も何度も踏みつける。
その勢いで、華が持っていたマッチは消えてしまう。
数分後、携帯電話は元の形を成さないほどに砕けていた。
「怒らないんですか?」
華が、怒られるのを恐れているのか、有村の方を見ず携帯電話の残骸を見つめながら問う。
「頭ごなしに怒ったりはしないよ。こういうことをしたらいけませんって、叱るかもしれないけど」
「大人ですね」
「大人というより、大松も言ってただろ。俺は変わり者だからな」
有村はポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点ける。
先程のマッチの匂いとは違う煙の臭いが充満し、華は少し顔を顰めた。
「煙草、吸うんですね」
「たまにな」
「なんで、タバコを吸うんですか?」
「タバコは嫌いか?」
「嫌いと言うより、苦手です」
「なるほどな」
「で、なんで煙草を吸うんですか?」
「人それぞれだけど、俺の場合は集中したい時とか、リラックスしたい時とかかな」
「いま、そんな感じなんですか?」
「あぁ、集中して大松と向き合おうと思ってな」
立ち尽くしている華の傍に、有村は椅子を用意する。
「下校時間とかは気にしないでいいから、取り敢えず座りな」
華は、素直に椅子に座った。
それから三十分ほど沈黙が続いた。
その間、有村は携帯の灰皿を使用して、何本か煙草を吸いかえる。
何もせずに、ただ時間が流れていくよりも、煙草を吸ってくれている方が待たせて悪いという感情が薄れる感じがした。
「私は、機械仕掛けのものが嫌いなんじゃなく、憎いんです」
煙草の匂いに慣れてきた頃、華が意を決して口を開く。
「確かに、さっきの行動を見る限りだと、その表現が当てはまる感じがするな」
「私の父は、昔は凄い機械音痴だったんです。でも、ある時を境にスマホを多用する様になって、それから、私と向き合う時間よりも、スマホと向き合う時間が多くなってしまって」
家族と向き合う時間ではなく『私と向き合う時間』と聞き、華が父子家庭であるのを有村は思い出す。
「それで私は、さっきと同じように父のスマホを叩き落としたんです」
華の声が震え始める。
「そしたら、父が今までに見たことのない表情で私をた…殴って。凄く痛くて。もう、どうしたらいいか分からなくなって」
叩いてと言おうとしたが、殴ってと言い直す。
「もしかして、一か月休んだのは、それが原因か?」
「はい。本当は行きたかったんだけど、可愛い顔が腫れてたから」
声は震えているものの、華が久し振りに笑顔を見せる。
「それ以来、家に居るのが怖くなっちゃって。教室で本を読んでるのが一番落ち着くなって」
「引きこもりの妹と逆って、そういうことか」
短くなった煙草を消し、新しい煙草をくわえる。
慣れた手つきでライターを点けようとすると、華が立ち上がり有村の手を止める。
「火ならありますよ」
華が、マッチをこすり火を点ける。
有村は、マッチ独特の匂いを楽しみつつ、タバコに火を点けた。
「機械仕掛けのものが嫌いではなく憎いと言いましたけど、たぶん、八つ当たりなんです」
マッチの火を消さず、火を見つめながら続ける。
「父にスマホとかの操作を教えたのは、おそらく女性です。で、父が年中スマホをいじっていたのも、その女性相手。私はスマホではなく、スマホの先の人を壊そうとしたんだけど、失敗しちゃいました。私と父との関係が、壊れちゃったんです」
「再婚をしてほしくなかったのか?」
「どうなんでしょうね。特別に親離れが出来ていないとも思わないし、ファザコンではないからパ…父を取られるって感じでもなかったし」
「別に、無理して父と言わず、パパと呼んでいいんだぞ」
「無理してるんじゃなく、殴られてからパパと呼べなくなっちゃったんですよね。無意識に父と呼ぶようになってました」
「なら、呼びたい時にパパと呼べばいい」
「うん、分かった。パパ」
「俺をじゃねーよ。そんなの聞かれたらクビになるわ」
そう言いながら、有村は華に突っ込みを入れる。
今回の突込みは、先ほどのように後頭部を叩くものではなく、軽く頭をなでる優しい突込みだった。
「さっきは、ゴメンな。突っ込みとはいえ叩いたりして」
マッチを持っているため、有村との距離はそう近くはないが、正面から手を伸ばし頭を撫でられた華は、体が熱くなるのを感じていた。
顔を上げ、有村の顔を見る。その際、顔が赤くなっているのを隠すために、マッチの火を顔に近づけた。
薄暗い教室の中で、自分の顔の辺りだけがぼんやりと光る。
顔をはっきりと見られるが、火照りはバレないだろう。
「先生は、約束を必ず守ってくれますか?」
「当然だろ」
「じゃあ、何か奢ってくれたら許します」
「何が食いたいんだよ。ある程度な買って帰っていいぞ」
「違いますよ。買ってもらうんじゃなくて、奢ってもらうんです。どこでもいいんで、連れて行ってください」
「それは、まずくないか」
「じゃあ、明日から私は、先生のことをパパと呼びます」
「こらこら」
「呼びたい時にパパと呼んでいいと、約束してくれたので」
「いや、あれは…」
「楽しみだなー 明日、校長先生に『放課後の、人気のない教室でパパに叩かれた』と訴えかけるの」
あながち間違っていないので、有村は軽く天を仰いだ。
「分かったよ、次の日曜な」
「はい! そしたら、今度は私がお返しにお勧めのお店に案内するので」
「その次もあるのか?」
「当然です。私がお勧めのお店に案内するんだから、先生はお返しに、その次は奢ってくださいね」
「無限ループな気がするんだが」
「気のせいですよ。同じことの繰り返しではなく、毎回違う楽しさがあるはずだから」
華が、マッチの火を消す。
お互いの顔が、はっきりと見えなくなる。
「先生の妹さんは、気の毒です」
「体罰教師の妹でか?」
「そうじゃなくて、先生みたいな人が傍にいないから」
「俺は、妹を見放したりはしてないぞ」
「先生が傍にいるんじゃ駄目なんです。先生みたいな人が傍にいないから気の毒だなって。私は、先生と兄妹ではなく他人なので幸運でした」
華が、有村の手を握る。
「そろそろ、帰りましょう」
時刻は、二十時に迫っていた。
「こんな時間に可愛い女生徒が一人で歩いてたら危険なので、家まで送ってくださいね。先生♪」
華は満面の笑みを浮かべ、有村を見つめる。
薄暗い教室の中、マッチの明かりがなくとも分かるぐらい、自分の顔が赤くなっているのに気づかず、自分の正直な感情をそのまま出していた。
了