お母さんのとなり
お母さんのとなり
更新日: 2023/06/02 21:46現代ドラマ
本編
私の両親は、仲が悪い。
明るい性格で、いつもニコニコしている母は私と兄からだけでなく、近所の人からも好かれている。
料理は上手だし、裁縫も得意。悩んだ時は相談に乗ってくれるし、勉強も教えてくれる。
これ以上、完璧なお母さんはいないんじゃないかと思う。
それに比べて、父は無口で、家族には無関心がないのか、ほとんど誰とも会話をしない。
平日は仕事で遅くなるし、休みの日もテレビを観たり、新聞を読んだりしているだけだ。
私や兄が学校でどんなことをやっているのか、どんなことが好きなのかさえ知らないと思う。
私や兄と会話をしないだけじゃない。母が楽しそうに話しかけたって、『あぁ』とか『そうか』と返事をするだけで無視をする。
だから、私は父が嫌いだった。
私が十六歳になった冬のこと。
大好きな母が病気になり、手術を受けることになった。
「杏南、落ち着け」
「落ち着けるわけないでしょ!? やっぱり不安じゃない。いくら大丈夫って言っていても、百パーセントの成功率の手術なんてないんだから」
手術室へと母を見送り、家族控室で待機している私は落ち着きなく、部屋の中を歩き回っている。
開始して、三時間は経っている。予定では六時間はかかると言われたらしい。それが一般的な長さなのか分からないから、余計に不安も大きくなる。
私の前に座る兄は落ち着いていて、普段と変わらないように見える。
「でも、大丈夫だと信じるしかないだろ。母さんなら、ちゃんと戻ってくるから。杏南、とりあえず何か飲もう」
おいで、と言って、兄は私の手を取って、控室の外にあった自販機まで連れて行ってくれた。
「お兄ちゃんは、怖くないの?」
「ん? そりゃ、怖くないわけじゃないよ。俺だって、不安には思う。本当に何も思っていないのは、父さんだけだろ」
「そうだね。一回も表情を変えないお父さんなんて、きっと心配もしてないよね。先生に『お願いします』くらい言えばいいのに! ただ頭を軽く下げるだけなんて。本当に、冷たい人」
「でも、とりあえず今日来ただけでも、父さんなりの気持ちの表れかもな」
「そんなわけない! 仕方なくいるだけだよ」
「せめて、俺が成人していたら違ったのかな」
「あんな奴いなくても、何とでもなるっていうとこを見せてやる! 家事だって何もできないし、お母さんの支えにだってなれないよ!」
拳を高々と上げようとするよりも一瞬早く、控室のドアが開いて父が顔を出した。聞かれたかと、内心ぎくりとしたが、すぐにそれどころではないと知った。
「先生に呼ばれたから、手術室前に行く」
その言葉に、体温を奪われたような気がした。
何か、あったんだ。
予定時間よりも前に呼ばれる理由は?
失敗?
まさか、お母さん、死んじゃったの?
「ど、どうしよう……お母さん、どうなっちゃったの? ねぇ、お父さん!」
「知らん」
眉間に皺を寄せて、面倒くさそうに言い放ち、父はさっさと歩き始めてしまった。
「な、何よ……どうして、そんなに冷たいの!? お母さんのこと、心配じゃないの!? し、し、死んじゃったかもしれないんだよ?」
「静かにしなさい」
そう静かに言ったが、こちらを振り向きもしない。
「杏南」
隣から兄の声が聞こえたけど、もう構っていられなかった。
「お父さんの悪魔!」
「バカ、言い過ぎだ。それに、ここは病院だから。とにかく、俺たちも行こう」
兄は私の頭をこつんと叩き、宥めるように優しい力で撫でてくれた。
私には優しい兄がいる。例え、悪魔のような父でも、二人いれば母を守れるかもしれない。
母の隣は、私と兄の場所なのだから。二人で両側から守ればいい。
震える足を叱咤しながら手術室の前に行くと、既に父は座って、涼しい顔をしていた。
長く感じた待ち時間は、手術室のドアが開いたことで終わりを告げた。
「お待たせしました」
グリーンの手術着に身を包んだ先生がマスクを取って、そして、微笑んだ。
「無事に終わりました。見立てよりも浸潤がなかったことが幸いでした」
「無事に、終わった……」
先生の言葉がずっと遠くから聞こえて、まるで夢の中にいるように不確かで、その意味を掴み損なう。
「ICUに移動して、意識が戻ったら会っていただけますよ」
「お母さんに、会える、の?」
「頑張ったお母さんを、労ってあげてくださいね」
去っていく先生の後ろ姿が滲んで、瞬きをした瞬間、目の前で弾けた。
へなへなと力が抜けていく足は、とうとう立つことを諦めてしまった。
その場に座り込んだ私の前に兄がしゃがんで、微笑んだ。
「よかったな」
「……うん」
よく見ると、兄の目にもうっすらと涙が浮かんでいるようだった。
その向こうに立っている父は、相変わらずの無表情で、ただその場に立っているだけだ。
喜びの感情も安堵の表情もない。
これで、夫婦なんて言えるのだろうか。
それから、暫くして、私たちはICUに呼ばれた。
母は生きて戻ってきてくれた。
あの温もりを、あの笑顔を、あの優しさを、私たちは失わずに済んだのだ。
ただただ嬉しくて、私は手術を受けるということがどういうことだったのかを、忘れていた。
ベッドに横になっている母は、私の知っている母ではなかったのだ。
たくさんの管が付いていて、顔だっていつも以上に白い。
ピッピッと規則的になる心電図の音だけが、目を閉じて眠る母が生きていることを教えてくれる。
「意識は戻られているんですが、まだハッキリとはしていないんです。でも、声を掛けてあげてください」
看護師に言われて、私と兄は恐る恐るベッドサイドに行き、母の隣に立った。
兄が手を伸ばし、母の細い肩を叩いた。すると、眠っていると思った母の目がうっすらと開いた。
「母さん、俺だよ。杏南もいる」
兄の言葉に、母は少しだけ頷いた。閉じてしまいそうな目を必死に開けようとしているのが分かる。
「ほら、杏南も」
兄に言われて、私も母の顔を覗き込んでみる。
「……お母さん、杏南だよ」
母は私の言葉に、ほんのりと笑顔を浮かべて応えてくれた。もうその姿だけで、私の涙腺は崩壊してしまった。
本当に生きてる。まだ弱々しい笑顔だけど、笑ってくれた。
「お母さん、よかった!」
零れてくる涙を必死に手で拭う。
もっと母の顔を見ていたいのに、涙が邪魔で仕方がない。
そんな思いを、遠慮なく破ったのは、少し離れたところに立っていた父だった。
「どきなさい」
そう言って、私と兄の肩に手を置いて、少し強引に私たちを押しのけ、父は母の隣に立った。
「紗代《さよ》」
この時、私は生まれて初めて、父が母の名前を呼ぶのを聞いた。
低くて、ぶっきらぼうな声。
それでも、母は目を細めて、笑顔になった。
私が呼びかけた時に見せた母親の笑顔じゃない。
初めて見るような、かわいらしい笑顔。
「おかえり」
その言葉と同時に、父の口角が僅かに上がった。
驚いて、ふと視線を落とすと、父の手は母の手をしっかり握っていた。
触れるとか添えるとか、そんな優しいものではなく、ギュッと力強く。
未だにぼんやりしている母にもよく分かるようにしているかのように。
僅かに母の口が動く。小さすぎて、私には聞こえなかったが、父はふっと笑った。
「お前がいないと、つまらん。また来る。よく頑張ったな」
そうして、父はそろりと母の手を撫でて、私たちのことを置いて出て行ってしまった。
私と兄は言葉を失い、暫く動けなかった。
寒かった冬が終わり、季節は春になった。
薄紅色の桜が、ふわりと舞う。
見上げると、雲一つない青空に淡く色づいた花びらが映えて、とても美しい。
毎年、母と兄と私で来ていた桜並木。今年も、無事に来ることができた。
ただ、一つ違うことがある。
ゆっくりとしか歩けない母の隣には、不愛想な顔をした父が歩いているのだ。
「綺麗ですね」
「そうだな」
「いい天気ですね」
「あぁ」
忘れた頃に聞こえる会話は、やっぱり会話なんて言えるものではない。
それでも、母はとても幸せそうに笑って、父を見上げている。
「杏南」
「うん?」
「どうやら、母さんの隣は俺たちの場所じゃなかったみたいだな」
「……うん」
認めたくない。あんな父が母の隣に居座るなんて。
それでも、あの日見た光景が脳裏を過る度に、私は認めてしまいそうになる。
並んで歩く両親の後ろ姿に、違和感は全くない。
母の隣は、最初からずっと、父の場所だったのだ。
*終*
0明るい性格で、いつもニコニコしている母は私と兄からだけでなく、近所の人からも好かれている。
料理は上手だし、裁縫も得意。悩んだ時は相談に乗ってくれるし、勉強も教えてくれる。
これ以上、完璧なお母さんはいないんじゃないかと思う。
それに比べて、父は無口で、家族には無関心がないのか、ほとんど誰とも会話をしない。
平日は仕事で遅くなるし、休みの日もテレビを観たり、新聞を読んだりしているだけだ。
私や兄が学校でどんなことをやっているのか、どんなことが好きなのかさえ知らないと思う。
私や兄と会話をしないだけじゃない。母が楽しそうに話しかけたって、『あぁ』とか『そうか』と返事をするだけで無視をする。
だから、私は父が嫌いだった。
私が十六歳になった冬のこと。
大好きな母が病気になり、手術を受けることになった。
「杏南、落ち着け」
「落ち着けるわけないでしょ!? やっぱり不安じゃない。いくら大丈夫って言っていても、百パーセントの成功率の手術なんてないんだから」
手術室へと母を見送り、家族控室で待機している私は落ち着きなく、部屋の中を歩き回っている。
開始して、三時間は経っている。予定では六時間はかかると言われたらしい。それが一般的な長さなのか分からないから、余計に不安も大きくなる。
私の前に座る兄は落ち着いていて、普段と変わらないように見える。
「でも、大丈夫だと信じるしかないだろ。母さんなら、ちゃんと戻ってくるから。杏南、とりあえず何か飲もう」
おいで、と言って、兄は私の手を取って、控室の外にあった自販機まで連れて行ってくれた。
「お兄ちゃんは、怖くないの?」
「ん? そりゃ、怖くないわけじゃないよ。俺だって、不安には思う。本当に何も思っていないのは、父さんだけだろ」
「そうだね。一回も表情を変えないお父さんなんて、きっと心配もしてないよね。先生に『お願いします』くらい言えばいいのに! ただ頭を軽く下げるだけなんて。本当に、冷たい人」
「でも、とりあえず今日来ただけでも、父さんなりの気持ちの表れかもな」
「そんなわけない! 仕方なくいるだけだよ」
「せめて、俺が成人していたら違ったのかな」
「あんな奴いなくても、何とでもなるっていうとこを見せてやる! 家事だって何もできないし、お母さんの支えにだってなれないよ!」
拳を高々と上げようとするよりも一瞬早く、控室のドアが開いて父が顔を出した。聞かれたかと、内心ぎくりとしたが、すぐにそれどころではないと知った。
「先生に呼ばれたから、手術室前に行く」
その言葉に、体温を奪われたような気がした。
何か、あったんだ。
予定時間よりも前に呼ばれる理由は?
失敗?
まさか、お母さん、死んじゃったの?
「ど、どうしよう……お母さん、どうなっちゃったの? ねぇ、お父さん!」
「知らん」
眉間に皺を寄せて、面倒くさそうに言い放ち、父はさっさと歩き始めてしまった。
「な、何よ……どうして、そんなに冷たいの!? お母さんのこと、心配じゃないの!? し、し、死んじゃったかもしれないんだよ?」
「静かにしなさい」
そう静かに言ったが、こちらを振り向きもしない。
「杏南」
隣から兄の声が聞こえたけど、もう構っていられなかった。
「お父さんの悪魔!」
「バカ、言い過ぎだ。それに、ここは病院だから。とにかく、俺たちも行こう」
兄は私の頭をこつんと叩き、宥めるように優しい力で撫でてくれた。
私には優しい兄がいる。例え、悪魔のような父でも、二人いれば母を守れるかもしれない。
母の隣は、私と兄の場所なのだから。二人で両側から守ればいい。
震える足を叱咤しながら手術室の前に行くと、既に父は座って、涼しい顔をしていた。
長く感じた待ち時間は、手術室のドアが開いたことで終わりを告げた。
「お待たせしました」
グリーンの手術着に身を包んだ先生がマスクを取って、そして、微笑んだ。
「無事に終わりました。見立てよりも浸潤がなかったことが幸いでした」
「無事に、終わった……」
先生の言葉がずっと遠くから聞こえて、まるで夢の中にいるように不確かで、その意味を掴み損なう。
「ICUに移動して、意識が戻ったら会っていただけますよ」
「お母さんに、会える、の?」
「頑張ったお母さんを、労ってあげてくださいね」
去っていく先生の後ろ姿が滲んで、瞬きをした瞬間、目の前で弾けた。
へなへなと力が抜けていく足は、とうとう立つことを諦めてしまった。
その場に座り込んだ私の前に兄がしゃがんで、微笑んだ。
「よかったな」
「……うん」
よく見ると、兄の目にもうっすらと涙が浮かんでいるようだった。
その向こうに立っている父は、相変わらずの無表情で、ただその場に立っているだけだ。
喜びの感情も安堵の表情もない。
これで、夫婦なんて言えるのだろうか。
それから、暫くして、私たちはICUに呼ばれた。
母は生きて戻ってきてくれた。
あの温もりを、あの笑顔を、あの優しさを、私たちは失わずに済んだのだ。
ただただ嬉しくて、私は手術を受けるということがどういうことだったのかを、忘れていた。
ベッドに横になっている母は、私の知っている母ではなかったのだ。
たくさんの管が付いていて、顔だっていつも以上に白い。
ピッピッと規則的になる心電図の音だけが、目を閉じて眠る母が生きていることを教えてくれる。
「意識は戻られているんですが、まだハッキリとはしていないんです。でも、声を掛けてあげてください」
看護師に言われて、私と兄は恐る恐るベッドサイドに行き、母の隣に立った。
兄が手を伸ばし、母の細い肩を叩いた。すると、眠っていると思った母の目がうっすらと開いた。
「母さん、俺だよ。杏南もいる」
兄の言葉に、母は少しだけ頷いた。閉じてしまいそうな目を必死に開けようとしているのが分かる。
「ほら、杏南も」
兄に言われて、私も母の顔を覗き込んでみる。
「……お母さん、杏南だよ」
母は私の言葉に、ほんのりと笑顔を浮かべて応えてくれた。もうその姿だけで、私の涙腺は崩壊してしまった。
本当に生きてる。まだ弱々しい笑顔だけど、笑ってくれた。
「お母さん、よかった!」
零れてくる涙を必死に手で拭う。
もっと母の顔を見ていたいのに、涙が邪魔で仕方がない。
そんな思いを、遠慮なく破ったのは、少し離れたところに立っていた父だった。
「どきなさい」
そう言って、私と兄の肩に手を置いて、少し強引に私たちを押しのけ、父は母の隣に立った。
「紗代《さよ》」
この時、私は生まれて初めて、父が母の名前を呼ぶのを聞いた。
低くて、ぶっきらぼうな声。
それでも、母は目を細めて、笑顔になった。
私が呼びかけた時に見せた母親の笑顔じゃない。
初めて見るような、かわいらしい笑顔。
「おかえり」
その言葉と同時に、父の口角が僅かに上がった。
驚いて、ふと視線を落とすと、父の手は母の手をしっかり握っていた。
触れるとか添えるとか、そんな優しいものではなく、ギュッと力強く。
未だにぼんやりしている母にもよく分かるようにしているかのように。
僅かに母の口が動く。小さすぎて、私には聞こえなかったが、父はふっと笑った。
「お前がいないと、つまらん。また来る。よく頑張ったな」
そうして、父はそろりと母の手を撫でて、私たちのことを置いて出て行ってしまった。
私と兄は言葉を失い、暫く動けなかった。
寒かった冬が終わり、季節は春になった。
薄紅色の桜が、ふわりと舞う。
見上げると、雲一つない青空に淡く色づいた花びらが映えて、とても美しい。
毎年、母と兄と私で来ていた桜並木。今年も、無事に来ることができた。
ただ、一つ違うことがある。
ゆっくりとしか歩けない母の隣には、不愛想な顔をした父が歩いているのだ。
「綺麗ですね」
「そうだな」
「いい天気ですね」
「あぁ」
忘れた頃に聞こえる会話は、やっぱり会話なんて言えるものではない。
それでも、母はとても幸せそうに笑って、父を見上げている。
「杏南」
「うん?」
「どうやら、母さんの隣は俺たちの場所じゃなかったみたいだな」
「……うん」
認めたくない。あんな父が母の隣に居座るなんて。
それでも、あの日見た光景が脳裏を過る度に、私は認めてしまいそうになる。
並んで歩く両親の後ろ姿に、違和感は全くない。
母の隣は、最初からずっと、父の場所だったのだ。
*終*