ごきげんよう
ごきげんよう
更新日: 2023/09/25 08:44現代ドラマ
本編
「お前にとっちゃ自分以外はみんな他人なんだろうさ」
彼は妻に言い放った。
言ってどうなると言うわけでもない。しかし彼は言わずにはいられなかった。
娘を喪ってからこの三日、彼はあまり眠れず、水すらほとんど喉を通らなかった。
何の前触れもなく娘は高熱を出し、痙攣し始めた。
救急車で運ばれてから息を引き取るまで一週間。
悪夢としか言いようがない。
娘はおむつがとれたばかりで可愛い盛りだった。たどたどしく喋り、よちよちと歩く姿は涙ぐむほど愛らしかった。そのかけがえのない存在はピンク色の頬を藤色にし、冷たく固くなったあと、少しばかりの骨と灰になってしまった。
座る者のないベビーチェア、小さな手が毎日ガタゴトとひっかきまわしていたおもちゃ箱、匂いの残る布団や衣類。
彼は、娘の遺したあれやこれやの中に座って泣き伏し、|呆《ほう》けていた。妻とも口を利かなかった。
妻が病院や葬儀社、親族との折衝をこなし、ごく内輪だけの自宅葬を采配した。ひどく窶れてはいるもののてきぱきと動く彼女を、彼は冷たい女だと思った。
悲しみは怒りにすり替わりやすい。彼は続けて|詰《なじ》った。
「俺がこんなに悲しんでるのに、お前はいったい何なんだ。しれっとしやがって、お前はそれでも母親か」
彼女は視線を食卓に落とした。彼らの間で、魚の煮付けが静かに冷えていく。
「あなたはなにもしなかったじゃない。私が動かなかったらお葬式だって……」
「そんなのどうだっていいだろう! 世間体ばっか取り繕いやがって。だいたいお前はいつも誰に対しても冷たかったよな。肉親の情なんてお前にはないんだ」
彼女は彼をじっと見つめた。
「あの子は私のすべてよ。骨が割れそうな痛みに耐えて産んだのは私。ずっとだっこして母乳で育てたのも私。おむつを替えてトイレトレーニングしたのも私。一緒に本を読んで、歌って、お絵描きしていたのも私。みんな私よ」
顔は青ざめていたが、感情を滲ませず語るその目には涙の一粒も浮かばなかった。
「じゃあなんで泣かないんだ。お前おかしいだろ」
「私が泣いたら気が済むの」
その言葉を聞いた途端、彼は怒号とも悲鳴ともつかぬ声を上げ、食卓の上のものを薙ぎ払った。
彼女は床の上の食器の欠片、白い飯が煮魚の汁やみそ汁に浸っていくのを数秒見つめたあと、すっと席を立った。
そして、すでにまとめてあったとおぼしきボストンバッグを一つ手にして玄関から出ていった。
彼はただ鍵の閉まる音を聞いていた。
ひと月の後、娘を連れて行っていた公園から少し奥へ入った藪の中、彼女がひっそりと死んでいるのが見つかった。
お焚き上げのつもりなのか、傍らには娘のお絵描き帳やお気に入りのぬいぐるみ、服などのひねこびた燃えさしがあったという。
バッグの中にあった花柄のメモ帳にはこう書かれていた。
「あの子、きっと私を探して泣いています。マカロンちゃんも持って行ってあげなきゃ。では、さようなら、ごきげんよう」
0彼は妻に言い放った。
言ってどうなると言うわけでもない。しかし彼は言わずにはいられなかった。
娘を喪ってからこの三日、彼はあまり眠れず、水すらほとんど喉を通らなかった。
何の前触れもなく娘は高熱を出し、痙攣し始めた。
救急車で運ばれてから息を引き取るまで一週間。
悪夢としか言いようがない。
娘はおむつがとれたばかりで可愛い盛りだった。たどたどしく喋り、よちよちと歩く姿は涙ぐむほど愛らしかった。そのかけがえのない存在はピンク色の頬を藤色にし、冷たく固くなったあと、少しばかりの骨と灰になってしまった。
座る者のないベビーチェア、小さな手が毎日ガタゴトとひっかきまわしていたおもちゃ箱、匂いの残る布団や衣類。
彼は、娘の遺したあれやこれやの中に座って泣き伏し、|呆《ほう》けていた。妻とも口を利かなかった。
妻が病院や葬儀社、親族との折衝をこなし、ごく内輪だけの自宅葬を采配した。ひどく窶れてはいるもののてきぱきと動く彼女を、彼は冷たい女だと思った。
悲しみは怒りにすり替わりやすい。彼は続けて|詰《なじ》った。
「俺がこんなに悲しんでるのに、お前はいったい何なんだ。しれっとしやがって、お前はそれでも母親か」
彼女は視線を食卓に落とした。彼らの間で、魚の煮付けが静かに冷えていく。
「あなたはなにもしなかったじゃない。私が動かなかったらお葬式だって……」
「そんなのどうだっていいだろう! 世間体ばっか取り繕いやがって。だいたいお前はいつも誰に対しても冷たかったよな。肉親の情なんてお前にはないんだ」
彼女は彼をじっと見つめた。
「あの子は私のすべてよ。骨が割れそうな痛みに耐えて産んだのは私。ずっとだっこして母乳で育てたのも私。おむつを替えてトイレトレーニングしたのも私。一緒に本を読んで、歌って、お絵描きしていたのも私。みんな私よ」
顔は青ざめていたが、感情を滲ませず語るその目には涙の一粒も浮かばなかった。
「じゃあなんで泣かないんだ。お前おかしいだろ」
「私が泣いたら気が済むの」
その言葉を聞いた途端、彼は怒号とも悲鳴ともつかぬ声を上げ、食卓の上のものを薙ぎ払った。
彼女は床の上の食器の欠片、白い飯が煮魚の汁やみそ汁に浸っていくのを数秒見つめたあと、すっと席を立った。
そして、すでにまとめてあったとおぼしきボストンバッグを一つ手にして玄関から出ていった。
彼はただ鍵の閉まる音を聞いていた。
ひと月の後、娘を連れて行っていた公園から少し奥へ入った藪の中、彼女がひっそりと死んでいるのが見つかった。
お焚き上げのつもりなのか、傍らには娘のお絵描き帳やお気に入りのぬいぐるみ、服などのひねこびた燃えさしがあったという。
バッグの中にあった花柄のメモ帳にはこう書かれていた。
「あの子、きっと私を探して泣いています。マカロンちゃんも持って行ってあげなきゃ。では、さようなら、ごきげんよう」