熱湯がいちばんいいってことだけ覚えて帰ってほしい

作家: 柴
作家(かな):

熱湯がいちばんいいってことだけ覚えて帰ってほしい

更新日: 2023/09/05 09:06
エッセイ、ノンフィクション

本編


今の部屋に引越してきて一年半が経つ。

一階だから仕方のないことなのかもしれないけれども、だかしかし、はじめて――あの虫が出た。

幸い、発見場所が良かった。
すぐ手を伸ばせば届く場所にケトルがある。そっとスイッチを入れた。

その間も視線はけして離さない。
こういう時、こちらさえ目立ったアクションを取らなければ不思議と奴も身動きをしない。嫌な経験則だ。

睨み合う沈黙の中、ケトルの中の水が段々と熱を孕んでいく。

――その時は、意外と早くやってきた。
ケトルの水が沸点に達し、ぐつぐつと音を立て始める。

俺は刺激しないように細心の注意を払いながらケトルを手に取り、そっと、真上からお湯を、

注いだ。

初撃を喰らわせた瞬間、弾かれたように走り出す流線型の弾丸。
しかしそれは、すぐに弧を描くような軌跡で元いた場所に駆け戻ってきた。

…わかるぞ、思った方向へ走れないのだろう?

お前の体を構成するタンパク質は、瞬間的な高熱によって既に凝固を始めているのだ!

ほぅら、そうこうする間に仰向けにひっくり返っちまって。無様極まりないな。もう一度お湯を注いでくださいと言わんばかりの格好じゃないか!

…お望みならば仕方がないな?
お前がメスかどうかは別に知りたくもないが、体内に潜むかもしれない卵ごと、もう一度念入りに熱消毒してやろう。

…しっかりと茹だって息の根の止まった奴を、何重にも重ねたキッチンペーパーで包んで、それと一緒に水びだしになった床を拭く。

……この瞬間がいちばん泣きそうだった。

明日、バルサン買おう。強くそう思った。
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