まつりのあと。

作家: 樫山泰士
作家(かな): かしやまやすし

まつりのあと。

更新日: 2023/08/30 00:45
ホラー

本編


     *

 ハヌマンラングール (霊長目オナガザル科)のオスによる子殺しが発見・報告されたのは一九六五年のことであるが、この行動が自然に起きたものであることは長い間認められて来なかった。

 と云うのも、種の保存の観点から考えると、同種の仲間を殺すという行為は、自然淘汰の原則に反すると考えられたからである。

     *

 成都帰りの平井が、その晩私達に見せた土産は、杵形の把の両端に槍状の刃が付けられた仏具であったが、これが少々変わった代物で、把の部分に通常見られるような装飾がなく、代わりに、上下の刃の片方がもう片方のそれより二倍ほど長かった。

「何かの武器のようだな」と私が言うと、同席していた旧友で軍医でもあった出井が、これは本来インド神話に登場する神が起こす雷電を模した法具・法器であることを教えてくれた。

 そうして彼は、酔余の勢いもあったのだろう、この一風変わった土産物から連想するように、十数年前の――彼が未だ日本中を飛び廻っていた頃の、日本の或る地方で見聞きした (又は体験した)物語を聞かせてくれた。

 酒のせいか仏具のせいか、彼の話は断片が断片を呼ぶ形態のものであり、話頭は転々として奇を究め、要約することが困難な内容であったが、その幾つにも分れた断片を拾い集め、切り貼りしつつ、以下の物語をご披露出来ればと思う。

 ただ、右のような成り立ちをしたテキストであり、事実には即しているものの、その詳細に関する瑕疵や私の手によるちょっとした誇張、様々な文献からの引用・借用が見られる事については、どうかご容赦頂きたい。

 また、出井を含めた生存者らの希望もあり、人名その他の固有名については、変更を加えている事を合わせてお伝えしておきたい。

 もちろん、事件のその他の部分に関しては、死者達への弔いの意味もあり、出来得る限り忠実な再現を試みている。

     *

 この物語の舞台を正確にお伝えすることは出来ないし、舞台を正確にする事自体にさしたる意味もない。そもそも、例えば東京で、例えば呉と岩国の違いを述べたとして理解して貰えるとも思えない。

 なのでここでは、西日本の何処か――とだけ言っておけば、事は十分に足りるであろう。

 それよりも、何より重要な点は、某大手製薬会社が (或いは某大手自動車メーカーが)、大幅な工期遅れが懸念される新工場建設において、その地域の政治的・経済的統合も視野に置いた上で、彼らにとって有力な人物をその地に派遣した――と言う部分であろう。

 この人物は、母方の祖父母こそ近隣地域の出身であったものの、父母及びその当人は首都圏の生まれ育ちであり、この地域では結局、最後まで、余所者として扱われる事になる。

 私が彼女を見掛けたのは二度――いや、一度だけだが、五十手前とは思えない黒々とした髪に聢りとした顎、現場の職人の間に立ってさえも遜色のない広い肩幅、それに、知性と狡猾さを同時に感じさせる鋭い眼。御園生喬子――無論これは本名ではないが、彼女は、確かに、他人を屈服・服従させることに喜びを見出す側の人間だった。

 そんな彼女の性向は、赴任直後の最初の仕事――基礎工事監督の汚職と呼ぶには軽過ぎる過誤を根拠とした解任――からも伺われた。彼は、家族も職も評判も自尊心すらも奪われてから彼の地を去ったのであるが、空席となったその作業机を見た御園生女史は、満足そうな微笑みを浮かべたと云う。

 その後、工事は順調に進められたが、彼女がその手を緩めることはなかった。地域一丸となっての新工場建設であり、血気盛んな利害関係者が多いのも確かではあった。多額の金銭が飛び交い、労働者は活気に満ち、町は一見、平和そのもののように見えた。

 しかし、或る暑い夏の夜、突然、何の前触れもなく、御園生喬子の姿が消えた。

 当然、町でも現場でも、彼女の誘拐や殺害の噂が立っては消え、消えては立ち、静かな混乱が全体を蔽って行く様子が窺えた。

     *

 一九六五年のハヌマンラングールの子殺しについて、報告された内容は概ね次の通りである。

一.先ず、或る単雄複雌の群れに対し、群れ外のオス達が協力して、その群れを攻撃、核オスを放逐する。

二.次に、群れを乗っ取ったオス達の中の一頭が、他のオス達を攻撃・放逐、新しい核オスとなる。

三.その後、このオスは、群れのメスたちから赤ん坊を奪い、その赤ん坊を噛み殺す。

四.そうして、全ての乳児が殺されると、授乳が止まったことによりプロラクチンの抑制が解かれ、エストロゲンの量が上昇した母メス達は発情、「自分の子どもを殺したオス」との交尾を始める。

五.やがて、この元・母メス達は、そのオスの子どもを妊娠・出産する。

     *

 私が現地に派遣されたのは、御園生女史の失踪から一週間が経過してからだった。

 彼女の一件は、本社からの意向もあり (或いはその意向以上に)報道はされず、地元警察による関係者への聴き取りも行われていなかった為、私は、全く一からの調査を行なう事になった。

「私人であれば調査が出来る」と発言した旧財閥系企業の (或いは世界的多国籍企業の)上司の言葉は気に入らなかったが、この地では恐らく全能であった御園生喬子も、彼女を捜すこの私も、これら複雑極まりない体制では駒の一つでしかないのであろう。現地へ到着した翌々日から私は、そんな希望も期待も抱き難い使命の為、この地方の町々を歩き廻った。

「そりゃあ、だれのことですかいのう?」

「そりゃあ、いつのことですかいのう?」

「そんなん、うわさもなんもありません」

「わたしら、なんにも聞いとりませんが」

「そんな人、見たら分かるんですかね?」

 同じような顔の人達が、同じような声と表情で聴き取りに応じる。皆が皆、丁寧に (或いは親切に)答えてくれるものの、彼ら・彼女らが言外に言おうとしていた・しようとしていたのは、ただただ『御園生喬子は存在しなかった』と云う事だった。

 何も知らない。誰かも分からない。見た事もない。聞いた事もない。私が調査に来た事もない――そう言われても、少しも不思議ではなかった。

「この人なら、若い男の人と歩きよったで」

「港の飲み屋でぎょうさん飲んだと聞いた」

「ようけ服を買いに来んさった方じゃねえ」

「奥の谷のじいさまの家に転がり込むどる」

「今し方、あの角の家に入って行きょった」

 また、その反面『今でも彼女は、そこかしこに存在している』と言い出す連中もいた。

 五分前に出て行った。昨日話した。別の男と歩いていた。あの家に泊まっている。そんな事を言っては彼女の欠片のある・あった場所へと私を連れて行くが――結局、彼女は消えたか『五分前までいた』事になっていた。

 平然と嘘を吐き、私がそれに苛立つとまた別の嘘を吐いた。嘘が嘘を呼び、話は飛んでは変わり、要約も叶わない。私は何も信じることが出来なくなっていたが、それでも耳を閉ざすことだけは止めなかった。

 そうしてある夕刻、一枚のメモが私のホテルのドアに挟み込まれたのである。

      *

 ハヌマンラングールの子殺しについて当時の資料を読むと、報告者はこれをオスの繁殖戦略である――と、当初から主張している。

 しかし、冒頭でも述べた通り、当時の学会及び研究者らの大半は、これを異常行動――何らかの人為的影響を受けた病的な行動である、としてしか捉えられなかったようだ。

 だが、その後、他の霊長類やライオンのオスによる子殺しが報告されるようになると、これらは異常行動ではなく、性選択理論で説明出来る自然行動であると認められるようになって行った。

     *

 指定された住所にタクシーは入れず、細く長いだらだらとした坂道を歩いて行くことになった。家と家の軒がぶつかりそうに近く低い。夕餉の支度と夫婦の怒鳴り声が同時に響くような場所で、坂の頂上近くで道が二つに分かれていた。

 右の道は引き続きのだらだら坂で、左の道の先には急な石段が見えている。奥の方から賑やかな声が聞こえて来る。地元の子ども達が、私を追い越し石段を駆け上って行った。木の陰に隠れて小さな白木の鳥居が見える。鳥居の向こうで祭りのようなものが催されているらしい、目指すべき道はこちらだ。

     *

 鳥居をくぐり損ねている私の横を、一人の老婆が通り過ぎて行く。杖を突き、影のように歩いていたかと思うと、突然その場にしゃがみ込み、そのまま石の様にジッと動かなくなった。

 石の様な老婆は、くすんだ菫色の被風を着ていたが、それは襤褸切れと言っても良いような代物で、同じ色をした御高祖頭巾の合い間からは、僅かな眼鼻が覗いていた。

 しかし、その眼鼻も、それは例えば、仔猫の屍骸めいたものが二つ三つ重なり合い風呂敷包みの間から覗いて見えている――と云う印象を私に与える風のものだった。

 夕闇が足元にまで拡がって来た。私は「失礼」とも「すみません」とも言わず、御園生喬子について知っていることはないかと老婆に尋ねてみたが、老婆は先ほどからずっと含み声でよく解らぬ事を呟いている。

 その呟きは、まるで念仏のようであったし、『念仏を唱える以外救いは無い』と云う独白のようでもあった。恐らく、私の声は聞こえていないだろうし、仮に聞こえていたとしても、理解の彼方であろう。

 私は再び、「失礼」とも「すみません」とも言わず、彼女から離れる為に、白木の鳥居をくぐろうとした。

「もちろん知っとるよ」鳥居の向う側で老婆が言った。

「町の皆が捜しとる。事件じゃなあかと気を揉んどる。じゃけど、そりゃ、えらい昔の話でしょう?何故、今頃になって、そんな古い話を聞きたいと言うんですか?アレは、栄の港が高潮でアカンようなる前の話でしょうがねえ。」

 思いも掛けない老婆の言葉に、私は驚きと緊張を隠せなかったが、ドアに挟み込まれたメモの事を思い出し、彼女にその『古い話』をするよう求めた。

「そないに古い話を聞いて、どないするんか知らんが、そもそも、きちんと想い出せるかも分からん。神さまなり仏さまなりの怒りに触れんようにするんが一番じゃが、果たして話せるかどうか?それもそもそも、あの頃は、みながみな腐っちょったし、みながみな黙って何もせんかった。お祈りもお念仏も呪いの言葉に変え、嘘や勘違いやおためごかしばかりを言うとった――まあ、でも、もちろん、みながみな、悪い人間と云うわけでもなかったけどのお」

 よくとは見えない老婆の、仔猫の屍骸めいた眼が、微かに笑った気がした。

「ほじゃけえ、この土地に工場が出来る言うたときは、そのために他所のひとが来る言うたときは、よほど悪い気を持っとるひとやない限り、みんな喜んだもんよ。お金の話だけでなく、もちろんお金の話でもあるけれども、それよりもなによりも、土地の者の無秩序よりは、他所のひとの秩序のほうがマシや、と、そう思うたんでしょう」

 老婆の体は小刻みに揺れているようだが、その小さな体を蔽う襤褸切れはちっとも揺れている気配がない。

「ほしたら、あの女がやって来たでしょう。すると今度はどうですか、賄賂と密告ばかりが飛び交うことになりました。誰が、何をやっても、あの女次第で、罪に問われにゃああかん人が大手を振って歩き廻って、お金さえ渡しゃあ、警察も誰も彼らを追わんようになった。最初は、わたしらあも『そういうもんかなあ』思うて、あの女の好きにさせよったんですよ。この土地の者には分からん、あちらの土地の、あちらの会社の、あちらの人たちの、なんがしかの、正当な理由がある思うとったんですかねえ」

 不意に、神社の奥からざわめきが聞こえた。

 私は一瞬、老婆から眼を離せなくなっている自分に気付いた。

 老婆は、ざわめきにすら気付かない様子で話を続けている。

「ほいでも、何か月か経つと、こっちも気付いて来ますよねえ。あの女が、ただただ、性根の腐り切った人間じゃあ言うことが……。まあ、でも、そん時には、もう、遅かったんですわなあ。あの女は、この土地で、勝手気ままに、まるで王さまか殿さまのように、振る舞うようになっとったわけですから」

 鳥居の向うから一際大きな歓声が上がった。

 老婆も、今回は、一瞬だけだが、歓声の方に意識を向けたようだった。

「……それで、どこまで話しましたかのう?そうそう。勝手気ままな振る舞いが目に付くようになって。で、『どうにかしてやりたい』と考える人も出て来ましたし、口に出す人も出て来ました。すると当然、中には『それだけじゃあ足りん』って思う人たちも出て来ますわねえ」

     *

 オスによる子殺しが性選択理論で説明出来ると云う考え方は、その後、特にそれまでの社会生態モデルの欠陥を補う根拠として、広く利用されるようになった。

 と云うのも、それまで葉食・草食の霊長類のメス達が纏まりの良い集団を作る理由については『捕食される危険を逃れるため』としか考えられて来なかったのであるが、その理由だけでは『何故、彼女たちの集団に常にオスがいるのか?』と云う疑問に答える事が出来なかったからである。

 繁殖の為だけであれば、常にオスを抱え込んでおく必要はない。

 が、しかし、オスによる子殺しの危険があるとすれば話は変わる。集団外のオスによる子殺しから乳児を守るためには、集団内に、有力なオスを常駐させておく必要があるからである。

     *

 神社からのざわめきは未だ続いていた。

「『足りない』とは、どう云う意味ですか?」

 老婆の言葉が聴き取り辛くなった事に苛立ちながら、私は尋ねた。

「そんなもん、分かるでしょうに。『どうにかする』んですよ。捕えて何かしてもエエし、捕えずに何処かへやってもエエ……ただ、まあ、それでも、そんなこと考える男の人は、単純なひと、若いひとたちばかりでしたから、結局、『どうにかする』んは、いつもの通り、女の人らあでしたけどねえ。旦那や、子どもを、ひどい目に会わされた人は、まあ、ぎょうさん居りましたからのお」

 冷たい風が吹いた。

 私は、右手に抱え込んでいた背広を羽織ろうとして、その左の内ポケットから、件のメモが落ちて行くのに気付いた。

「信じてもらえんかも知れんけれど、彼女らあは、みんなで、あの女を捕まえ、車に載せ、町外れの――昔は『忌み小屋』って言われとった――小さな小屋に、あの女を閉じ込めたんよ。ほいで、ひどい目に会わされた人たち。あの女に、ひどい目に会わされた人たち。その人たちを呼んで、来させて、中には、ほら、私みたいな年寄りや私の孫みたいな子どもらあも呼んでねえ、みんなに、鋏やら針やら、好きなものを持たせて、小屋に来るように言うたわけよ」

 再び、冷たい風が吹いた。

 地面に落ちたメモが飛ばされそうになった。

 私は、右の爪先で、そのメモが飛ばされないよう、軽く踏んだ。

「一番最初は、左の手の人差し指の爪の間。針が刺された。次がその手の甲。皮を少し剝いだ。左足の親指。爪が割られた。右足首。金槌が振り降ろされた。左手の親指。右の膝。内太腿。左の頬の皮。だんだん、だんだん、だんだん、場所が増えて、やり方が増えた。「少しだけ」と始めたもんが、その「少し」がどんどんどんどんと増えた。
 あの女も、初めの方は我慢出来とる風やった。けど、声は出されんし、眠ろうとすると痛みが来る。体は動かせれんけれど、頭が働くんも止められん――で、まあ、最後の方には、そういう細切れの痛みに耐え切れんようになったんじゃろうねえ、あの女、裁判を開くよう言い出した」

 拾い上げたメモの筆跡を確かめようとして意識が離れていたのだろう、老婆の言葉の意味を量りかねた私は、思わず彼女に聞き返していた。

「裁判?」

「それぞれの人に与えた痛みを、それぞれの人から返されとったら、そりゃあ、とてもじゃなあけど、体も心も保たんでしょう。裁判なら、裁判の判決なら、一つですもんね」

「しかし、それは、」

 と、私は言い掛けたが、その時、石段の下から女たちの話し声が聞こえ、私はその口を噤んだ。

 頭巾に隠れて見えるはずのない老婆の口元が笑っているように感じた。

「しかし、それは、あまりにも女に不利ではありませんか?」

 女たちが鳥居の向こうに消えて行くのを確かめてから、私は続けた。

「周りは、言わば、女の敵ばかりなのでしょう?」

「あんた、何処の人?」

 老婆が初めて、その顔を私の方に上げた。光の加減だろうか?頭巾の奥には暗闇が拡がっている。

「この土地の人間じゃあないんは、着とるもんとか、話し方から分かるんじゃけど」

 私は、素直に、自分の現住所を、老婆に教えた。

「ほいじゃあ、よう分からんかも知れませんけどねえ。そっちの人らあは、世の中、自分と同じような人間ばかりで出来とると思い勝ちでしょうけれども、でも、あんた、岸の向うとこっちとでも、原爆が落とされた所と、原爆が落とされんかった所とでは、其処に住む人らあの生活も、考え方も、感じ方も、なんもかんも、変わるはずでしょう?それに、広島に落ちた原爆が、そっちの人の生き死にに影響する事もあれば、そっちの人のちょっとした振る舞いが、何処かの国の、たくさんの人が殺されるような『何か』に影響するっちゅう事も、無いとは言い切れませんよねえ?」

 ここで今度は、神社から出て来る子ども達のために、またもや、老婆の話は中断された。

「無いとは言い切れん」老婆が繰り返した。

「ここの人らあも、どんどんどんどん増えていく黒いもんに耐えられんようになっとったんかも知れん」

 石段を駆け降りる子ども達の (嬉しそうな?)歓声が、遠く聞こえた。

「一度の裁判で復讐が済むんなら、それがええと思ったのかも知れん」

     *

 だが、ここで一つ疑問が残る。

『オスによる子殺しを、メスたちは止められないのか?』捕食される危険を減らすための集団を形成出来るのならば、オスによる子殺しも、集団の力で止められるのではないか?

 が、しかし例えば、これまで観察されたハヌマンラングールの群れでは、メスは、乳児への攻撃を仕掛けて来るオスに対し、赤ん坊を殺されまいと単独での抵抗はするものの、メス達で協力し合って赤ん坊を守ると云うような行動は取っていなかった。個体としてのメス自身を守るためであろうと推測はされるし、だからこそ、有力なオスの常駐が必要となって来るとも言えるわけだが、彼女たちの真意――そんな物があればだが――については、実際のところ、よく分ってはいない。

     *

「しかし、それでも」と、私は言った。

「しかし、それでも、私には理解出来ません。一体、誰が女を裁くのですか?誰がその裁判を取り仕切るのですか?」

「それは、籤で決めた」

 事もなげに、しかし真実それ以外に方法はなかったとでも云うように、老婆は言った。

「裁判の長は、女が持っとった鞄、それに石を入れて、その石の中から、たった一つ入れた黒の石を取ったもんがすることになった」

「女は?認めたんですか?」私は聞いた。

「もちろん、認めた」老婆が答えた。

「おそらく、こう考えたんじゃろう。仮に自分が許された場合、ここに一度でも来た人間は危険に曝される。だから、大勢に聞けば、その大勢は必ず『殺す』と言うはずじゃ。
 しかし、決めるのが一人なら?――誰でもええ、籤でもなんでもええ、そこで選ばれた一人、その一人だけを説き伏せれさえすれば、殺されなくて済む、と」

 ここで老婆は沈黙した。心の何処かに、何がしか引っかかるモノでもあったのだろう。しかし私は、その沈黙に耐え切れず、その先を急ぐよう、彼女を促した。

「そうして、ある若い女が、黒を引いた。あの女はその若い女のことを知らんかったし、若い女も、自分がどこの誰かは言わなんだ。裁判が始まった。朝も昼も夜も、代わる代わる、何人、何十人もの証人が呼ばれた。女は、それぞれの証言に対し、一つ一つ、その若い女の目をじっと見詰めながら、丁寧に、言うてみれば真摯に、弁解をした。しかし、どうせ嘘だと云うことは、皆分かっていた」

 ここで今度は、何人かの男たちが神社から出て来て、再び、老婆は沈黙した。

 彼らは、私と老婆の間を通り過ぎて行ったが、誰一人として、我々の存在を認めようとはしなかった。

 彼らから酒等の匂いはしなかったが、皆が皆、どの顔もどの声も、ひどく興奮しているように見えた。

 そうして、その内の一人が、通りすがりに、

「俺は、右が良いって、言ったんだ。
 俺は、右が良いって、言ったんだ。」

 と、呟いているのが聞こえた。

     *

 話は少し変わるが、他の霊長類の中でも、チンパンジーの子殺しには異様な特徴がある。

 それは、殺した子どもを群れの皆で食べる――文学的な表現が許されるならば『分かち合う』と云う点である。

 その光景は、獲物の肉を食べる――『分かち合う』時と酷似していて、オスもメスも、殺された子どもの肉に殺到し、分配を求めるのである。

 ある意味、文化人類学における食人俗を思い出させる光景ではあるが、この異様な興奮が、肉食という習性のためなのか、それとも別に要因があるのかは、これもまた、実際のところは、未だよく分っていない。

     *

「どうせ嘘だと云うことは、皆分かっていた」

 男たちが消えるのを待ってから、老婆はそう繰り返し、話を続けた。

「結果が出た。若い女は、先ず、他の女たちに、あの女の手と足を切るように言った。それから、女たちが道具の準備を始めるのを見届けてから、子どもたちに、あの女の眼を抜き、耳を焼くように言った。子ども達の道具は、男たちが揃えることになった。また、残った男たちには、手足を切り取られたあの女を入れておくための、小さな箱を作るように言った。そうして最後に、ある年寄りに、昔の伝手を使って、あの女の口が利けなくなる薬を持って来るように言った」

 老婆のくすんだ眼が、見えない頭巾の向こう側で、再び、ニヤリと笑った――ような気がした。

「年寄りが、あの会社から、薬を持って来た。
 あの女は、躊躇ことなく、その薬を飲んだ。
 引き抜かれるまえの眼で、年寄りを見詰た。
 睨むでも、憐みを乞うでもない、眼だった。
 そう云う、ある種のいさぎよさ、があった。
 あの女の、数少ない美徳のよう、に思えた。」

 まるで、今し方見て来たかのような物言いで老婆が言った。

「今の話は、いつ起こったことですか?」と、私は訊いた。

「あんたが訊きたいんは『どこ?』じゃないんね?」老婆が訊き返した。

「知っているんですか?」

 夕闇が増して来ていた。くすんだ老婆の眼はいよいよと見えなくなり、御高祖頭巾の中の暗闇が周囲に拡がって行く。

「知るわけがない」と、苛立ちとも諦めとも付かぬ口調で老婆が言った。

「ずうっと昔、誰も詳しいことを覚えていないずうっと昔のこと、『いつ?』も『どこ?』も『だれ?』も、誰もよう知らん。ただ、この土地か、この土地と変わりのない別の土地か、あの家か、あの家と変わりのない別の家か、どの土地か、どの土地とも変わりのない別の土地か、それぞれが異なることなぞ何処にも何もない。わしが知っとることと言えば、ただただ『この世は地獄』っちゅうことくらいじゃ」

 ここまで言うと、不意に老婆は立ち上がった。神社から最後の歓声が聞こえた。人々のどよめきとざわめきが鳥居の方に押し寄せて来る。祭りは終わったのだ。気付くと、老婆はいなくなっていた――いや、人々のどよめきとざわめきの中に沈んで行ったのかも知れない。

 人々のどよめきとざわめきは、何時しか祈りと歌声に変わり、町の中へと消えて行った。私は一人取り残された。神社から若い女の啜り泣きが聞こえた。右手に、小さな、槍状の刃の付いた道具を持っていた。刃は、血で汚れていた。彼女は、夫と息子を奪われていた。傍らに、作られて日の浅い、小さな箱が置かれていた。微かなうめき声が聞こえた。

     *

 出井は (或いは彼にこの話を聞かせた人物は)、その箱を開けると、近くに置かれていた所持品等から、その塊が、御園生喬子であることを理解し、その後数時間の記憶を失くしたのだと言う。 


(了)
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