チキンヌードルスープ

作家: おのえ桜子
作家(かな):

チキンヌードルスープ

更新日: 2023/06/02 21:46
現代ドラマ

本編


 シェリー・コワルスキーは息子のジャックが大好きなチキンヌードルスープを作りながら、外を見た。10分ほど前に、今からアルバイト先を出る、とジャックから電話があった。

「今晩はあなたが好きなチキンヌードルスープよ」

 だから、気をつけて帰ってらっしゃい、と電話を切った。あと20分ほどで帰宅するはずだ。キッチンの窓から見える木々は、まもなくやって来る冬に対して準備万端であるかのように、茶色くなっていた。ここニューヨーク州バッファローの冬は気付かないうちにやって来る。ある年は12月に、またある年は9月の終わりに初雪が降る。彼女は窓を通して、どんな冬の気配をも見つけようとしていた。幸いなことに、冬の悪意は少しも見えなかった。リスが木々の間をとても活動的に走り回っているから、冬はそんなに早くは来ないだろう、と彼女は鍋に仕上げのエッグヌードルを入れた。それとも、リスが走り回っているのは、冬の兆候なのだろうか?

シェリーとジャックは5年前にシカゴから引っ越して来た。彼女がジョージと離婚し、シェリーの両親がバッファローに住んでいたからだ。ジャックの養育権はシェリーが獲得し、バッファロー市内で研究室の仕事も見つかった。ジャックは地元の高校を卒業し、一年前からコミュニティ・カレッジに通っている。ダウンタウンのショッピングモールで清掃のアルバイトも見つかり、彼はそこで週に四日働いている。
バッファローのニックネーム「良き隣人の町」が表す通り、シェリーとジャックの隣人は皆いい人達だった。左隣のアートはメキシコ生まれのアメリカ育ちで、常に二人がうまくやっているかどうか、気を配ってくれる。特に引っ越して来たばかりの時は、何度か家を訪ねてくれて、近所の情報を教えてくれたり、家の修理を手伝ってくれたりした。右隣のニールは大学教授を退職した人で、シェリーが仕事から戻る度に、裏庭から手を振ってくれる。ニールはシェリーが家に戻る時間、春と夏はたいてい裏庭で妻と一緒にバーベキューをしたり、ビールを飲んだりしている。

「料理する時間がないなら、言ってくれ。僕らはいつでも君たちを手助けする心づもりがあるからね」

 と、グリルの煙を手で払いながら彼女に声をかけてくれる。

 イリノイ州のシカゴはミシガン湖から吹く強い風のため「風の町」と呼ばれている。一方バッファローは豪雪で有名で、シカゴに負けないくらい風も強い。それはエリー湖とオンタリオ湖に挟まれているために起こる、湖水効果雪によるものだ。ジャックが高校を卒業した時、車を買う余裕はなかったので、その代わりにシェリーは彼にバイクを買ってやった。それに、彼自身が車よりバイクを好み、大学へもアルバイト先へもバイクに乗って行った。最近シェリーは、そろそろジャックに車を買ってやろうかと考え始めていた。というのは、去年の冬、ジャックが高速道路で事故を起こしたからだ。大きい事故ではなかったが、シェリーは十分に肝を冷やした。それからというもの、冬の間彼が出かける時は、時間の許す限り、なるべく車で送ってやるようにしていた。
シェリーは再び外を見た。空はいきなりその色を変え始めた。真っ黒な雲を見ていると、余りにも突然な変化に不安感が溢れ出した。その黒い雲はたちまち真っ白な雪によって覆われ、もう空は見えない。茶色の木々も、先ほどまで元気に走り回っていたリスも、すぐ目の前にある裏庭のデッキも、何もかも見えないほどの吹雪が突然始まった。ジャックがそろそろ高速の出口に差し掛かる頃だ。シェリーは、子供の時に読んだ童話を思い出しながら、ああ神様、どうか雪の女王がジャックを捕らえませんように、と祈った。
チキンヌードルスープはすっかり出来上がり、シェリーはジャックの帰りを待った。外は、空から地面へ伸びた糸で引っ張られているように、数えられないほどの筋を作って雪は降り続けていた。ジャックは慎重に走っているのか、電話をかけてきてからずいぶん時間が経っている。

 シェリーの携帯が鳴った。きっとジャックだ。運転に気をつけて帰って来るように言わなければ。彼が戻ったら、早速温かいチキンヌードルスープを一緒に食べよう。そう考えを巡らしながら携帯に手を伸ばすと、それは見覚えのない番号だった。指が一瞬強張(こわば)ったが、「応答」をタップして携帯をそっと耳にあてがった。

「こちらバッファロー中央病院ですが、ジャック・コワルスキーさんのご家族でしょうか」

 くぐもった女性の声だった。シェリーはジャックの母親だと名乗った。中央病院はダウンタウンにある救急も兼ねている総合病院だが、そんなところからなぜ電話が? シェリーは自分の心臓の鼓動が高らかに速くなっていくのを感じた。

「息子のジャックさんが高速道路で事故を起こしたようで、こちらへ運び込まれました。今すぐ来られますか」

 シェリーは再び窓の外を見た。雪は白いはずなのに、彼女の目にはどす黒い塊が空から降って来て、空間を突き抜け、今自分がいるキッチンにまで押し寄せて来ているような感覚を覚えた。どす黒い、冷たい塊に取り囲まれたシェリーは、身動きできなくなった。頬の筋肉も、携帯を支えている左手も、だらんと下がった右腕も、リノリウムの床に突っ立った両脚も、動くという機能をすっかり忘れたように、硬直した。雪の女王に捕らえられたのは、シェリーの方だったかのように。

「もしもし?」

 その言葉が、シェリーを柔軟な筋肉を持った一人の人間に戻した。それでも唇は、先ほどまで本当に凍りついていたように、ぎこちない動きをした。すぐに向かいます、と言うのがやっとで、電話を切るとコンロの上の鍋を見た。そこだけが現実の世界のように、湯気が温かく立ち上っていた。

 ガレージへ出ると、雪は白いベールのようになり、シェリーの周囲を完全に包み込んでいた。周りが何も見えなくて、自分がこれから運転することの恐怖よりも、ジャックに襲い掛かった雪の猛威の方に心が囚われた。ただ運転中は、肘や膝に絆創膏をたくさん貼ったジャックを迎えに行くぐらいに思っていた。というよりも、そう思いたかった。雪の日は車でさえも運転に気をつけなければいけないが、囲いのないバイクで道路を滑るより、絆創膏の数はずっと少なくて済むだろう、と高速の出口を慎重に出た。

 悪天候がラッシュアワーと重なったために、中央病院への到着は思ったより時間がかかった。受付で名前を告げると、ジャックは集中治療室に入っていると聞かされた。集中治療室? シェリーは緊張のため、迷子が知らない大人について行くように、その場へ向かった。

 ナースステーションから続くいくつかの病室の一つを見せられた。初めそれがジャックだとは判らなかった。肘や膝にたくさん絆創膏を貼ったジャックが椅子に腰掛け、「やあ、お母さん」と右手を軽く上げて微笑む姿を想像していた。ところがそこには、口や喉からチューブが生えたジャックが横たわっていた。傍らにはモニターがあり、彼の心臓の動きと息づかいと血の巡りの強さを波で描いていた。シェリーは、自分とジャックを隔てている透明のガラスが、だんだん曇っていくような気がした。自分が真っ直ぐ立っているのか、座っているのか、首を横に向けているのか、目覚めているのか、とっくに分からなくなっていた。だから、誰かが彼女に声をかけているのに、自分の存在すら無くなっているように思えていた。

「ジャックさんのお母さんですか?」

 誰かに頭を持ち上げられて、無理やり左に向けられたような感じだった。そこには青緑色のスクラブを着て、茶色の瞳をした人が立っていた。首から「看護師」と書かれたバッジを掛けている。

「ドクターからお話がありますので、こちらへどうぞ」

 シェリーは言われるままにその看護師について行くと、別室に通された。

「こんばんは、コワロスキーさん。ジャックさんを診た、外傷外科医のゴールドバーグです。救急隊の話では、ジャックさんは州間高速道路の出口近くのガードレールに頭からぶつかり、ここへ運び込まれました。ヘルメットを被っていたようですが、頭を非常に強く打ったのでしょう。運び込まれた時には、すでに自己呼吸は停止しており、人工呼吸器を直ちに装着しました。脳死判定を行った結果、大変残念ですが、ジャックさんは脳死状態です」

 この病院には外国人の医者を雇っているんだろうか、とシェリーは眉根を寄せた。医者が言っている言葉の意味が全く理解できなかった。これは、英語なんだろうか? 彼女は目の前の男性の澄んだブルーの瞳とグレーの短い髪、白いガウンを見ていると、やっと自分は病院で医者と話しているんだと思い出した。

「人工呼吸器を外せば、息子さんの心臓はいずれ止まります。そこで、今ここでお話ししにくい内容なのですが、ジャックさんは運転免許証に臓器提供の意思表示をされています。病院側としましては、健康な各臓器を直ちに取り出し、移植を待っているレシピエントに輸送するつもりです」

 シェリーの頭の中は混乱を極めていた。ジャックは死んだのだろうか? 脳死とは、彼が死んだことを意味するのだろうか? あのモニターを見る限り、ジャックはまだ生きている。だったら、人工呼吸器を外すことで、彼を殺すことになるのではないか?

「二回目の脳死判定を明日の朝行うこともできますが、息子さんが脳死であることは、ほぼ間違いがありません。それに明日まで待てば、現実問題、入院費もかかりますし、医師ですからこんな言い方しかできませんが、移植される臓器は新しければ新しいほどいいのです。手術は今晩中に行いますので、今の間にジャックさんと最後の時間を過ごしてください」

 ゴールドバーグ医師が、いかにもそこから立ち去りたそうにしていた。シェリーが何か言うのを待っているのかもしれないが、心理カウンセラーではなく外科医である彼が、ジャックがシェリーの一人息子であることやシェリーの身の上話を聞いて、慰めの言葉をかけなければいけない義務はない。

 医師は、すぐにその場を去ろうとしたが、何か思い出したように、シェリーに向き直った。

「息子さんのお父さんは?」

 シェリーは、5年前に離婚したのでジャックの父親はシカゴに住んでいる、と説明した。

「それなら、差し支えないようであれば、呼んであげてください。シカゴなら、ここまでざっと2時間はかかりますか? それまで手術を待つことはできますから」

 医師は去り際に「お気の毒に」とシェリーに言葉をかけ、その部屋を出て行った。先ほどの看護師がやって来て「息子さんの治療室へ行きましょう」と、シェリーを促したが、彼女は椅子から立ち上がれなかった。シェリーは自分の体が渦の中に巻き込まれ、ずっしりと椅子の中に沈んでいく感覚があった。今までに味わったことのないものだった。ただ一点を見つめて、思考は完全に止まってしまった。もう一度看護師に呼ばれ、彼女に腕を抱き抱えられて、やっと立ち上がった。立ち上がりながら、とても冷静に、ジョージと自分の両親に連絡しなければ、と思った。看護師はシェリーの伺いを受けて、構いませんよ、医師には連絡済みですから。摘出手術は、日付が変わるまでに行うことになっています、とシェリーに淡々と話した。彼女はすぐにジョージに電話をした。彼は状況を把握しているのかどうか分からなかったが、今から45分後に飛び立つ飛行機に乗れると、シェリーに震える声で言った。シェリーは自分の両親へも連絡した。電話を取ったのは母親だったが、シェリーの説明が飲み込めず、途中父親と代わった。彼もかなり動揺しているようだったが、急いで病院へ向かう、ということだった。

 シェリーは、ジャックが運転免許証に臓器提供の意思表示をしているのは知っていたし、彼にそうするように勧めたのは彼女だった。なぜなら、シェリー自身が30年前、彼女がまだ十五歳だった時に、心臓移植を受けていたからだ。シェリーには先天性の心疾患があり、子供の頃から入退院を繰り返していた。あらゆる治療が試されたが、最終的には心臓移植しか助かる方法はないと言われた。シェリーの両親は、自分の娘が他の子供たちと同じように屋外を走り回れる日が来ることを望んでいたが、それは同時に誰かの死を待っていることと同じだということを知っていた。とうとうシェリーに移植の番が回って来た時、彼女の両親は、ああ、神様、このドナーの死を決して無駄にいたしません、と誓ったと、シェリーは両親から聞かされていた。心臓移植のおかげで、シェリーは高校と大学を卒業することができ、研究員として仕事をし、結婚してジャックを授かった。あのドナーがいなかったら、今私はここにいない。シェリーはいつもそう思って、感謝を忘れず暮らしてきた。

 ところが、まさか自分がドナーの家族になるとは思ってもみなかった。病室でジャックの手を握った。温かい手だった。今朝彼が出かける時にハグした温かさと同じだ。彼は今、たくさんのチューブを通してではあるが、ちゃんと生きている。それなのにこの後すぐ、全ての臓器を取り出し、それを見ず知らずの他の誰かにあげるって? 神様、私が誰かの大切な心臓をいただいたから、今度はジャックを取り上げてしまうのですか!?

シェリーは集中治療室に横たわるジャックの手を握り続けていたため、時間が過ぎていく感覚がなくなっていた。彼女の両親がガラスの向こうに見えた時、今自分がジャックの手を握っている理由や、両親が目の前に立っている理由が分からなくなっていた。

「おー、ジャック!」

 シェリーの母親は、変わり果てたジャックの姿を見るなり彼の名を叫んだ。次にシェリーを抱きしめると、再びジャックに目をやりそのままベッドの脇に崩れた。父親も彼女の横に跪(ひざまず)き、自分の孫の手を握った。二人は、シェリーが今まで聞いたこともない、猛獣や怪鳥のような声で泣き叫び、ジャックとシェリーの体を交互に抱きしめた。モニターから流れる規則正しい電子音は、まだジャックが生きていることを示していたが、その音をかき消すように慟哭とすすり泣きが病室を重く覆った。

 この光景がまるで永遠に続くかのように思われた時、シェリーの母親がベッドから顔をゆっくり上げた。その瞼は、初めから赤黒いアイシャドーを塗られていたかのように、醜く腫れていた。

「ねえ、30年前に、私たちと同じ気持ちになったご家族がいたのよね? 私たちはそのご家族と、幸せと悲しみの交換をしたのよね?」

シェリーは、母親のわずかに微笑む口元に吸い込まれそうになった。シェリーに心臓が与えられた時、彼女の両親はこれ以上の喜びはないと思った。悲しみに包まれたどこかの家族から与えられた幸せだった。

 ジャックの死後、彼の臓器が地球上のどこかで生き続けるのだと考えてみた。それが、自分たちの悲しみを消し去る唯一の方法であり、同時にジャックの意志を永遠に尊いものにすることができるのだと、母親が何度も大きく瞬きするのを見て、シェリーはようやく自分自信を説得することができた。彼女の両親も、今はこの世の果てにいるかのように嘆き悲しんでいるが、自分たちが辿る道をすぐに理解できることを、シェリーは分かっていた。それは、シェリーの命と引き換えに、どこかの素晴らしい家族が辿ってきた道だからだ。

「ジャックの臓器はどこかで生き続けるのよね?」

 と、シェリーの母親はジャックの頬を撫でた。その言葉に、シェリーも彼女の父も頷いた。

 ジョージが看護師に付き添われてやって来た。看護師か医師からジャックの状況をすでに聞いていたのだろう。ジョージは真っ青な顔をして、シェリーの隣に立った。看護師がジョージにも椅子を勧め「一時間後に臓器摘出手術を行います。それまで、ご家族の時間をお過ごしください」と、集中治療室のドアを閉めた。

 ジョージはまだ動揺を隠せない様子だったが、シェリーと彼女の両親はこの数時間で、ジャックが旅立つと同時にしなければならない彼の使命を、誇りに思うところまで気持ちの切り替えをすることができていた。シェリーは、自分はドナーの家族としては幸福な方だと思った。自分が一度レシピエントになっていることは、今や双方の家族の気持ちが理解できる。普通のドナー家族のように取り乱すことはしてはいけない。そんなことをしたら、ジャックの意志を踏みにじることになる。

 ジャックは子供の頃から優しくて、正義感の強い子だった。彼が小学四年生の時、近所の川の中洲で身動きできなくなっている猫を見つけたことがあった。前日までの豪雨で水嵩が増し、中洲に取り残されたのだろう。友達数人と協力して猫を救出することになったらしいが、川の流れが速く、中洲まで誰が行くか、ということになった。ところがジャックは何の躊躇もなく、ずぶ濡れになりながら、時に激流に足を取られながら、無事猫を救出した。その話を聞いたシェリーは、泳ぎがそれほど得意ではないジャックに、自分ではなく他の友達にやらせてもよかったし、どうして大人を呼ばなかったのかと、叱った。ジャックは、あれは自分がやらなくてはいけない使命のように感じたんだと、笑った。恐怖感は全くなく、自分が死んでもこの猫を助けたいと思った、と。

 そんなジャック自身、これを運命だと捉えていることだろう、とシェリーはもう一度ジャックの手を強く握った。心の底から悲しいが、ジャックが今日死ぬことは運命だった。そして彼の臓器で再び生きる喜びを感じる複数の人々が今日生まれる。そう思うと、ジャックの旅立ちを心から喜んでやろうと思った。

 一時間後、ジャックの体に取り付けられていたチューブや機器が取り外されて、ジャックは手術室へ連れて行かれた。シェリーはジャックの手の温もりを忘れることができなかった。その後、腎臓、肝臓、肺、心臓、腸がジャックの体から取り出され、それぞれ必要とされる人たちのところに輸送された。

 ジャックの遺体は葬儀社に運ばれ、シェリーは一人で帰宅した。帰ってすぐにコンロの上の冷たくなったチキンヌードルスープを見た。鶏肉の切り身、玉葱、人参、セロリを煮込み、そこにエッグヌードルを入れただけの簡単なスープだったが、寒い冬には体が温まり、引きかけの風邪ならすぐによくなる。ジャックはこのスープが大好きで、シェリーは彼が小さい頃からよく作ってやった。でも、もう二度と二人で一緒に食べることはない。ジャックが食べてくれなければ、作っても意味がない。もう二度と作らないわ! シェリーは鍋のスープをシンクに捨てた。排水口がむせるような音を立てて、スープを飲み込んだ。シェリーはそのまま床に崩れ落ちた。あぁ、ジャック! どうして逝ってしまったの? 「ただいま」も「さようなら」も言わないで、温かいスープも飲まないで、お母さんはまだあなたの手の温もりを覚えているのよ! あなたの臓器がどこかで生き続けても、もうあなたはいない。これからどうやって生きていけと言うの? シェリーは、ジャックの死を受け入れるにはまだ早過ぎたことに、今ようやく気づいた。

 シェリーはベッドから起き上がり、一番に窓の外を見た。昨夜はほとんど眠ることができなかった。うとうとすると、高速道路の急カーブが目の前に現れてバイクが転倒し、真っ黒な煙の中から「お母さん、助けて!」という声が聞こえて目が覚めた。その繰り返しで、一睡もできなかった。

 夜の間に雪が降り積もることはなかったようだ。夜明け前で辺りは真っ暗だったが、これならジャックがバイクで滑ることはない、と安心した瞬間、体がカッと熱くなり、涙が急に溢れてきた。そうだった、ジャックがバイクに乗って、怪我をすることはない。そう分かった時、なぜか安堵感が溢れて来た。彼が死んでとてつもなく悲しいはずなのに、その安堵感の存在が、自分は冷たい人間なんだろうかとシェリーに思わせた。悲しいはずなのにそれを否定するような感情が入り乱れる。
 頭の回転を正常にするためにコーヒーを飲み、研究室へ、しばらく仕事を休む旨の連絡を入れた。研究室の上司はシェリーの息子の死にひどく驚いていたが、そのお悔やみの言葉も彼女の心には素直に入ってこなかった。何も受け入れられない、何も手につかない、腐った木切のような気持ちのままで、葬儀までの時間が過ぎて行った。
 二日後のジャックの葬儀には、彼の高校時代の同級生や大学の友人、アルバイト先の人やわざわざシカゴから来てくれた人たちもいた。シェリーの親戚も来てくれて、ジャックが臓器提供をしたと聞いて、皆ジャックをとても誇りに思うと口々に言った。ただ、シェリーが心臓移植を受けていることから、皮肉な事実だということを拭きれないようではあった。
 エンバーミングを施されたジャックは生きているように美しかった。顔にあった多少の切り傷と擦り傷が癒えることはなかったが、あの日の朝、家を出た時と同じ顔だった。大役を終えて、むしろ少し大人びた顔にも見えた。シェリーは組まれたジャックの手に触れた。決して温かくないはずなのに、なぜか温もりを感じた。シェリーの耳には「お母さん、僕はどこかで生きてるよ。また会えるよ」と言っている様に聞こえた。ジャックの臓器がこの国のどこかで、新しい命を繋いだことは確かだった。

 次の雪の季節がやって来た。ジャックが亡くなってから、研究室の仕事がめっきり増え、おまけに新人教育まで任されるようになった。仕事の忙しさは寂しさを紛らわせてくれるが、大学から研修生が来たり、新人がジャックと同世代だったりすると、彼のことを思い出し、彼の人生があの日で止まってしまったことを後悔した。寂しさや悲しさを紛らわすことはできても、あの恐ろしい日の出来事を消してしまうことにはならない。一年経ってもため息をつかない日はないし、雪が降り始めると、存在しないジャックの安全運転を祈ってしまう。

 ある日、シェリーはニューヨーク州臓器移植ネットワークから一通の手紙を受け取った。ジャックの臓器が適合するレシピエントを探し、コーディネートをした団体だった。その手紙には、ジャックの心臓を提供された女性が、もし可能であれば、ドナーの家族と会って、ドナーがどんな人柄だったのか知りたいと願っている、と書かれてあった。そこには、このレシピエントからの感謝の手紙が同封されており、心臓移植のおかげで今私の命がここにある、今まで手にしたどんな贈り物よりも素晴らしく、価値のあるものだ、感謝してもしきれない、と書いてあった。シェリーは、彼女の手紙の一文字一文字を指でなぞった。この文章を書き、紙をたたみ、封筒に入れてネットワークに送ってくれた彼女のエネルギーの源は、ジャックの心臓の動きなのだと思うと、その手紙にジャックが宿っているようだった。ジャックの体を離れた心臓が、どこかでまだ動いていて、誰かの人生の再出発を導いたことを確認したかった。シェリーは、ネットワークに返事を書き、彼女と会えるよう、段取りをしてくれることを申し出た。同時に彼女への手紙も書いた。手紙には、初対面の日まで、お互い連絡を取り合うのはやめよう、と書いた。連絡を取り合っているうちに、何か別の感情が芽生えることを避けたかったからだ。

 二週間後、ニューヨーク州臓器移植ネットワークから電話連絡が来た。お互いが都合のいい時に、レシピエントの移植手術を行った、オハイオ州のノースイースタン大学病院で会うのはどうか、ということだった。シェリーは承諾し、一ヶ月後、ジャックの心臓のレシピエント、ナタリーに会うことになった。

 団体から連絡をもらってすぐに、ジョージにも電話していた。離婚したとはいえ、ジャックの父親なのだから、息子との「再会」に誘ってみた。彼からは初め戸惑いを感じた。離れて暮らし始めて最初の再会が、チューブだらけのベッドの上、というのがショックだったらしい。次の再会が他人の体越し、ということに、どう向き合えばいいのか分からないと言うのだ。

「君が僕を説得してくれ。ジャックの心臓なんだって。ジャックの心臓に会いに行くんだって」

シェリーは、ジョージの本心が分かっていたので、彼が望む通り、同じ言葉を繰り返した。一度嗚咽のようなものが聞こえた後、ジョージは現地で会うことに同意してくれた。

 ジョージに連絡した翌日、シェリーは両親のもとを訪れた。父親は不在だったが、母親に今回のオハイオ行きを説明した。シェリーの母親は、彼女に背を向けたままお茶の準備をしていた。話の途中、シェリーは母親が何も聞いていないのではないかと思ったが、陶器のポットとカップがカタカタと細かく音を立てる度に、母親の動揺を悟った。

「アイスワインの香りがする紅茶よ」

 母親の皺の目立つ手が、シェリーの前に熱い紅茶を置いた。シェリーが話し終わると、「そうねぇ……」と、自分の紅茶の香りを嗅いだ。母親の言葉は、単に話を長引かせるための、相槌に過ぎなかったが、母親の気持ちの全てを語っているかのように、ソーサーの上でカップが震えていた。

「こんな歳になると、色々と複雑な感情を処理していくのが大変なのよ。もちろんジャックには会いたいわ。でもね、心が一杯一杯なの。ドナーの悲しい方(ほう)の気持ちで、もう十分よ。あなたのお父さんも、同じ気持ちだと思うわ」

 彼女は母親を見た。この人は、レシピエント家族の気持ちが分かっている人なんだ。だから今度はドナー家族の気持ちを味わいたい、などと言い出す人ではない。シェリーは既に母親の答えが分かっていた。

「親子だけで会ってくればいいわ」とシェリーの母親は紅茶をすすった。
 
 オハイオへ向かう日の朝、シェリーはチキンヌードルスープを作った。ジャックが死んだ日から、実は一度も作ったことがなかった。ただ、ジャックに会いに行く今日だけは、彼のために作ってやろうと決心した。オハイオから戻って来たら、ジャックと一緒に食べている気分になれる気がしたからだ。あの日と同じ材料で作った。仕上げに鍋をかき混ぜていると、胸が締め付けられたが、ジャックと一緒に食べるのだと思うと、穏やかな気分になれた。プラスチック容器に少量を分け、ジョージにも渡すことにした。三人離れ離れだが、今日は家族らしいことをしてもいいような気がした。

 ノースイースタン大学病院はバッファローから車で五時間ほどのところにあった。ジョージと病院のロビーで落ち合い、待っていてくれたコーディネーターと共に、ナタリーに会う部屋へ向かった。シェリーは高校生の時の初めてのデートを思い出していた。緊張し過ぎて胃がひっくり返りそうだった。心臓の鼓動が激しくなるばかりだった。指先が痺れるほど震えていた。どんな女性なんだろう? どんな生活をしているのだろう? 歳はいくつだろう? 毎日幸せに暮らしているのだろうか? 家族はいるんだろうか? ナタリーを待つ間、シェリーの頭の中には、絶え間なく次から次へと質問が湧いて出た。それら全ての答えは、ジャックの心臓がちゃんと誰かの生活を支えているかどうかの証明だったからだ。

 考えを巡らせていると、ドアが開いた。

「ナタリーです」

 背が高く細身の女性が入って来た。シェリーとジョージも自己紹介をして、すぐにナタリーを抱きしめた。初対面の人にこんなことをするのは初めてだった。だが、彼女の中にジャックの心臓が生き続けていると思うと、シェリーは彼女のことが愛おしくてならなかった。ナタリーは、

「あなたたちの息子さんからこの心臓をいただいて、私は今もこうして生き続けています。この心臓がなければ、私はここにいなかった。息子さんのご意志に大変感謝しており、私の人生でこれ以上の贈り物はありません」

 と、微笑みと涙で二人に語った。ナタリーは現在35歳で、心臓移植のおかげで職場にも復帰することができ、来年結婚することになっている、と続けた。シェリーは「幸せですか?」とナタリーの手を再び握った。ナタリーは、涙で言葉を詰まらせながら「もちろん」とシェリーの手を握り返した。今度はナタリーが、ジャックがどんな人物で、どんなふうに命を落としたのか聞きたがった。シェリーはジャックの事故のことを話した。心の優しい子で、あなたに自分の心臓をあげたことをきっと喜んでいる、と一粒涙をこぼした。その涙を見たナタリーが、
「私、以前はあまり好きじゃなかったんですが、心臓移植を受けてから、チキンヌードルスープがとても好きになったんです。息子さん、チキンヌードルスープがお好きでしたか?」

 と、微笑んだ。それを聞いたシェリーの涙は止まらなかった。移植する臓器にそのドナーの記憶が残るという話を聞いたことがあった。自分も心臓移植の後、食べ物の好みが変わったことを感じていた。あの日、ジャックはチキンヌードルスープを食べられずに亡くなった。さぞかし食べたかったに違いない。その記憶が心臓に残り、ナタリーの嗜好まで変えてしまったのかもしれない。ナタリーは、自分がチキンヌードルスープが好きになった理由がわかって、笑顔になった。

「息子さんの心臓の音、聴かれますか?」

 ナタリーがコーディネーターから預かった聴診器を自分の胸に当てた。まず、ジョージがナタリーの胸の奥で鼓動するジャックの心臓の音を聴いた。

「動いている……ジャックがここにいるんだね?」

 ナタリーは頷いた。次にシェリーが、ナタリーへ命のバトンを繋いだジャックの心臓音を聴いた。その音は力強く、お母さん、僕はここにいるよ、と言っていた。シェリーは耳から聴診器を外し、ナタリーを抱きしめた。聴診器など使わずとも、シェリーの体の奥で規則正しく鼓動する心臓の存在が目に見えるようだった。シェリーは再び、ナタリーを強く引き寄せた。まるで、我が息子を抱きしめているように。その途端、ナタリーがシェリーの体を強くはね除けた。シェリーの体が一瞬強張ったが、そこにナタリーの悪意があるようには見えず、むしろナタリーの驚愕する目に驚いた。

「お母……さん?」

 ナタリーは目を閉じ、大きく息を吸った。吸い込む息を味わっているような、長い深呼吸だった。目を開けると、彼女はシェリーの手を取り、その手で自分の頬をさすった。シェリーには、何が起こっているのか分からなくなっていた時、ナタリーもようやく目が覚めたように、シェリーの手を離した。

「すみません、いきなり。でも、今シェリーさんを抱きしめた時の匂いが、覚えている母の匂いのような気がしたんです。それで、深呼吸して味わってみたくなった。幼いときの記憶のはずなのに、確かだという自信もあって……。母のチキンヌードルスープの匂いがする」

 ささやかな予感のようなものが生まれ、シェリーの心臓が少し高鳴った。ナタリーによると、31年前、彼女がまだ4歳だった時に、彼女の母親クリスティが事故で亡くなり、その時に心臓を提供したらしい。シェリーは、先ほどの予感のようなものの理由が知りたくて、ナタリーの母親が亡くなった日を確認した。それはシェリーが心臓移植を行った日だった。

「何てことなの! 私はあなたのお母さんの心臓で生きていたのね?」

 シェリーの頬を涙が止めどなく流れた。シェリーはナタリーが持っていた聴診器を自分の左胸に当て、シェリーの、いや彼女の母親の心臓音をシェリーに聴かせた。心臓は娘との再会を喜んでいるかのように、穏やかに脈打った。

 シェリーはナタリーにもう一つ確かめたいことがあった。もしかして、ナタリーの母親はチキンヌードルスープが好物だったのではないかと。

「ええ、母は大好きでよく作ってっくれたんですが、私はあまり好きではなくて。変な子供でしょう? 母が亡くなった日、私の兄にも一緒に食べるように言ってから出かけたんですが、私は食べなかった。今でも心残りです。今、その匂いがするんです」
「今朝作ったこれのせいよ」

シェリーは自分のカバンから容器に入ったチキンヌードルスープを取り出し、ナタリーに手渡した。

「じゃ、私がチキンヌードルスープが好きになった理由は、あなたのお母様なのね。おかげで、ジャックが好きになって、そしてそれがあなたに移った」

 ナタリーはスープの入った容器を押し抱き、体を震わせた。シェリーは、ナタリーにスープを持って帰るように言うと、メモ用紙に最高のチキンヌードルスープのレシピーを書き始めた。

(了)
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