夢海-痛みの章-
夢海-痛みの章-
更新日: 2023/07/31 20:32その他
本編
深夜。楓は自分のアパートメントに帰ってきた。彼は手早く風呂に入り、歯を磨き、床に就いた。早く眠りたかったのだ。しかし誤解してはいけない。彼は何も一日の疲れをとるために眠るのではない。彼が眠るのは夢のためである。楓は自らが望む通りの夢を見ることができた。しかし、ここにおいても誤解してはいけない。彼が毎晩のように見る夢は決して面白いものではなかった。それはとても苦しい夢であった。しかし、楓はその夢を好んだのだ。
楓は生暖かい闇の中を漂っていた。その体は重力を忘れたかのようだった。何の音も聞こえない、耳が痛くなるような静寂であった。楓は目を開けた。周りは薄い闇。時々小さな気泡が細かに動きながら昇った。ここは海中であった。暗い海の中、力を失った楓の体があてもなく浮遊していたのだ。しばらくの間、楓はぼんやりと目を開けたまま海中に身をゆだねていたが、やがて身を翻し、海底のほうへとどんどん泳いでいった。ここは楓の作り出した海、どこに何があるのかは彼自身がよく分かっていた。
やがて楓は海底に降り立った。素足に滑らかな砂の感覚が伝わってきた。彼は重苦しい水の抵抗を感じながらも、暗い海底を歩き出した。程なくして石段が現れた。僅か数段ほどの小さなものだ。その先には石畳の道が続いている。楓は石段を登り切り、少し立ち止まっていたが、やがて石畳の道へと足を踏み入れた。刹那。足に鋭い痛みが走った。硝子の破片をいくつも踏みつけたかのような痛みである。この石畳には割れた貝殻がその刃物のような割れ口を上にして、いくつも埋まっていたのだ。楓の顔はほんの一瞬、苦痛に歪んだ。しかし、それは同時に笑みを零したかのようにも見えた。彼が歩みを止めることは無かった。足の裏の皮膚が破れる感覚を確かめながら彼は二歩、三歩と歩みを進めていった。足元では彼の血が水の中に流れ出し、鮮やかな紅い煙のように揺らめいていた。しかし、それも束の間、楓が次の一歩を踏み出すと揺らめきはどこへともなくかき消え、また新たに紅い揺らめきが生まれるのであった。楓はこの感覚を喜んで享受した。痛い、という感覚を彼は喜んだ。彼は痛みに対して安心を見出していたのだ。
痛みには何の対価も必要ない。ただ受け入れればよいのだ。幸せ、喜び、快楽。これらは楓にとって必ず対価の伴う、憂鬱なものであった。一度これらを感じ取ってしまうと、楓はその対価に恐怖した。これから自分はどれ程に苦しまねばならないのか。それを考えると楓は恐ろしくてならなかった。だから彼にとって、対価を必要としない痛みは心の休まる安心であったのだ。
歩みを進めるにつれ、貝殻は鋭さを増し、大きくなっていった。楓は時々、手ごろな貝殻を見つけるとそれをゆっくりと踏み躙った。貝殻は砕け、幾辺もの鋭い欠片が楓の皮膚に突き刺ささり、その肉を抉った。楓は痛みに歪んだ笑顔で長い時間をかけてそれを楽しんだ。
しばらくすると、楓はようやく足を止めた。すでに足元には暗く紅い淀みが生まれていた。そのうち、楓は石畳を勢いよく蹴り、水中に身を投げ出した。そうして楓は心の中で友を呼んだ。無論、夢の中で彼が作り出した友だ。果たしてそれは現れた。楓とそう変わらない大きさをもった二匹の鮫である。楓はその鮫たちを愛し、鮫たちもまた楓のことを愛していた。鮫は初めのうちは楓の周囲を遊泳していた。彼らが楓の周りに水流を作ると紅い煙がきれいに揺らめいた。楓は共に腕を伸ばした。鮫は愛しい友のため、鋭い歯の並んだ大きな顎で、その腕の肉を食い破った。肉の一部は楓の皮膚につながったままで、ぼろぼろの雑巾のようになっていた。楓の身に確かな痛みが訪れ、紅い煙が綺麗に舞った。それから二匹の鮫は交互に楓の腕を、脚を、腹を食い破っていった。その力強さのために、楓の体は水中を激しく動き回った。体中に焼けるような痛みを感じながら、楓は幸福の中にいた。友に導かれるままに安心を享受し、水中に浮遊していた。
とうとう鮫が楓の首筋に噛み付いた。そうして最大限の慈しみをもってその身を食いちぎった。紅が舞う。もはや痛みは無かったが、それでも尚、楓は幸せであった。楓の体は僅かな浮力を得た。そうして海底のほうに紅い煙を撒きながら、少しずつ、海面へと昇って行った。体はほとんど動かなかったが、楓は僅かに動く、ぼろぼろの腕で友に手を振った。友は嬉しそうに泳ぎ回ると、どこへともなく消えた。
楓の体はゆっくりと、しかし確実に海面へと向かっていた。徐々に明るくなってゆく。楓にとって見たくもない明るさであったが、もう、体は動かなかった。楓は観念した。今日の夢はここまでだ。短い幸せの時間もついに終わってしまった。また来よう。もう目を閉じていても眩しいほどだ。体も重力を纏い始めた。鳥の鳴き声。嗚呼、朝だ。
0楓は生暖かい闇の中を漂っていた。その体は重力を忘れたかのようだった。何の音も聞こえない、耳が痛くなるような静寂であった。楓は目を開けた。周りは薄い闇。時々小さな気泡が細かに動きながら昇った。ここは海中であった。暗い海の中、力を失った楓の体があてもなく浮遊していたのだ。しばらくの間、楓はぼんやりと目を開けたまま海中に身をゆだねていたが、やがて身を翻し、海底のほうへとどんどん泳いでいった。ここは楓の作り出した海、どこに何があるのかは彼自身がよく分かっていた。
やがて楓は海底に降り立った。素足に滑らかな砂の感覚が伝わってきた。彼は重苦しい水の抵抗を感じながらも、暗い海底を歩き出した。程なくして石段が現れた。僅か数段ほどの小さなものだ。その先には石畳の道が続いている。楓は石段を登り切り、少し立ち止まっていたが、やがて石畳の道へと足を踏み入れた。刹那。足に鋭い痛みが走った。硝子の破片をいくつも踏みつけたかのような痛みである。この石畳には割れた貝殻がその刃物のような割れ口を上にして、いくつも埋まっていたのだ。楓の顔はほんの一瞬、苦痛に歪んだ。しかし、それは同時に笑みを零したかのようにも見えた。彼が歩みを止めることは無かった。足の裏の皮膚が破れる感覚を確かめながら彼は二歩、三歩と歩みを進めていった。足元では彼の血が水の中に流れ出し、鮮やかな紅い煙のように揺らめいていた。しかし、それも束の間、楓が次の一歩を踏み出すと揺らめきはどこへともなくかき消え、また新たに紅い揺らめきが生まれるのであった。楓はこの感覚を喜んで享受した。痛い、という感覚を彼は喜んだ。彼は痛みに対して安心を見出していたのだ。
痛みには何の対価も必要ない。ただ受け入れればよいのだ。幸せ、喜び、快楽。これらは楓にとって必ず対価の伴う、憂鬱なものであった。一度これらを感じ取ってしまうと、楓はその対価に恐怖した。これから自分はどれ程に苦しまねばならないのか。それを考えると楓は恐ろしくてならなかった。だから彼にとって、対価を必要としない痛みは心の休まる安心であったのだ。
歩みを進めるにつれ、貝殻は鋭さを増し、大きくなっていった。楓は時々、手ごろな貝殻を見つけるとそれをゆっくりと踏み躙った。貝殻は砕け、幾辺もの鋭い欠片が楓の皮膚に突き刺ささり、その肉を抉った。楓は痛みに歪んだ笑顔で長い時間をかけてそれを楽しんだ。
しばらくすると、楓はようやく足を止めた。すでに足元には暗く紅い淀みが生まれていた。そのうち、楓は石畳を勢いよく蹴り、水中に身を投げ出した。そうして楓は心の中で友を呼んだ。無論、夢の中で彼が作り出した友だ。果たしてそれは現れた。楓とそう変わらない大きさをもった二匹の鮫である。楓はその鮫たちを愛し、鮫たちもまた楓のことを愛していた。鮫は初めのうちは楓の周囲を遊泳していた。彼らが楓の周りに水流を作ると紅い煙がきれいに揺らめいた。楓は共に腕を伸ばした。鮫は愛しい友のため、鋭い歯の並んだ大きな顎で、その腕の肉を食い破った。肉の一部は楓の皮膚につながったままで、ぼろぼろの雑巾のようになっていた。楓の身に確かな痛みが訪れ、紅い煙が綺麗に舞った。それから二匹の鮫は交互に楓の腕を、脚を、腹を食い破っていった。その力強さのために、楓の体は水中を激しく動き回った。体中に焼けるような痛みを感じながら、楓は幸福の中にいた。友に導かれるままに安心を享受し、水中に浮遊していた。
とうとう鮫が楓の首筋に噛み付いた。そうして最大限の慈しみをもってその身を食いちぎった。紅が舞う。もはや痛みは無かったが、それでも尚、楓は幸せであった。楓の体は僅かな浮力を得た。そうして海底のほうに紅い煙を撒きながら、少しずつ、海面へと昇って行った。体はほとんど動かなかったが、楓は僅かに動く、ぼろぼろの腕で友に手を振った。友は嬉しそうに泳ぎ回ると、どこへともなく消えた。
楓の体はゆっくりと、しかし確実に海面へと向かっていた。徐々に明るくなってゆく。楓にとって見たくもない明るさであったが、もう、体は動かなかった。楓は観念した。今日の夢はここまでだ。短い幸せの時間もついに終わってしまった。また来よう。もう目を閉じていても眩しいほどだ。体も重力を纏い始めた。鳥の鳴き声。嗚呼、朝だ。