『猫』
『猫』
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
夏の虫の声が降り注ぐ酷暑の夏、あたしは生まれた。
兄弟は、弟がひとり。双子だ。
でもあたしたちは、ちっとも似てはいなかった。
弟は抜けるように色が白いのに、あたしは生まれつき色が黒い。
可愛い弟だったけど、あたしは何だかそれがしゃくで、時々意地悪しては泣かせていた。
「杏(あんず)。あなた、お姉ちゃんなのよ」
呆れながらたしなめるお母さんに、あたしは唇を尖らせる。
「だって。蒼空(そら)って、鈍くさいんだもん」
びーびー泣く蒼空の頭を撫でる優しい手が羨ましくて、あたしは余計イライラと足元の小石を蹴った。
お母さんは、いつもそうだった。滅多に名前を呼ばずに、あたしを『お姉ちゃん』と呼ぶ。ご飯に箸をつけるのも、髪をとかしてくれるのも、あたしより不器用で身体の弱い蒼空が先で、あたしは必ずそのあとだった。
「……杏だもん」
「なぁに?」
「あたし、杏だもん! 『お姉ちゃん』じゃないもん! お母さんも蒼空も、大っ嫌い!」
そう捨て台詞を残して、駆け出した。家の前の空き地より外には出たことがなかったけれど、夢中で走った。泣き顔を見られたくなくて。
どうしてあたしは、『お姉ちゃん』なんだろう。蒼空が『お兄ちゃん』だったら良かったのに。
勝手に口から飛び出した「大嫌い」の言葉が、お腹にたまってしくしく痛む。
涙はなかなか止まってくれなくて、あたしはでたらめに走り続けた。
どれくらい走っただろう。気が付いた時には見知らぬ街で、見たこともないほど沢山の人が、火傷しそうな熱い道を歩いていた。
「痛い!」
足を踏まれたような気がして声を上げる。本当は、履き古されたスニーカーのつま先が、ほんの少し触れただけだったのだけど。
「やあ、ゴメンね。気が付かなかった」
若いお兄さんが屈んで、声をかけてくれる。優しい笑顔。
怪我がないか確かめる為なのか、足先を握られた。
あたしは思わずサッと身を引いて、
「やめてください!」
と叫んだ。
知らない人に触られたら、大声を出しなさいって教わってるし。そ、その……恥ずかしいのもあるし。
あたしは初めて、地黒で良かったと思った。真っ赤な顔色が隠せるもの。
「大丈夫だよ。こんな街なかにひとりなんて、迷子かな? お腹は空いてない? ご飯食べる?」
「ご飯!?」
別の意味で恥ずかしいほど、あたしは『ご飯』という言葉に飛び付いてしまった。お腹がペコペコだったあたしは、お兄さんの後ろを恐る恐る着いていった。
お兄さんの出してくれたご飯は、今まで食べたこともないほど、美味しかった。
お母さんや蒼空に謝って、この美味しいご飯を分けてあげたい。そう言ったらきっとお兄さんは、あの優しい笑顔で良いよと言ってくれるだろう。
たまっていた「大嫌い」の代わりに、パンパンになるまで食べたお腹が苦しくて、仰向けでうとうととまどろむ。そっと、頭を撫でられた。
「――ちゃん?」
ううん。あたしは、杏だよ。
口をきくのも面倒なくらい眠かったあたしは、心の隅でそう応えた。
「君だよね。猫になっても……綺麗だな。綺麗な黒猫」
鼻の頭にお水がかかって、あたしはうっすらと目を開けた。
「僕、幸せだよ……」
そう言いながら、お兄さんは泣いていた。
どうして? 「幸せ」なのに?
ふいにお兄さんは、あたしに頬ずりした。まるで、あたしの毛皮で涙を拭うように。
だからあたしも夢うつつで、頬を濡らすしょっぱい涙をペロペロ舐める。
「幸せだ」
お兄さんはもう一度繰り返して、泣き腫らしたまぶたを閉じた。
「おやすみ。――ちゃん」
その日からあたしは『杏』じゃなくなった。でもお兄さんが幸せなら、好きに呼んで良いよ。
おやすみなさい……お兄さん。
End.
1兄弟は、弟がひとり。双子だ。
でもあたしたちは、ちっとも似てはいなかった。
弟は抜けるように色が白いのに、あたしは生まれつき色が黒い。
可愛い弟だったけど、あたしは何だかそれがしゃくで、時々意地悪しては泣かせていた。
「杏(あんず)。あなた、お姉ちゃんなのよ」
呆れながらたしなめるお母さんに、あたしは唇を尖らせる。
「だって。蒼空(そら)って、鈍くさいんだもん」
びーびー泣く蒼空の頭を撫でる優しい手が羨ましくて、あたしは余計イライラと足元の小石を蹴った。
お母さんは、いつもそうだった。滅多に名前を呼ばずに、あたしを『お姉ちゃん』と呼ぶ。ご飯に箸をつけるのも、髪をとかしてくれるのも、あたしより不器用で身体の弱い蒼空が先で、あたしは必ずそのあとだった。
「……杏だもん」
「なぁに?」
「あたし、杏だもん! 『お姉ちゃん』じゃないもん! お母さんも蒼空も、大っ嫌い!」
そう捨て台詞を残して、駆け出した。家の前の空き地より外には出たことがなかったけれど、夢中で走った。泣き顔を見られたくなくて。
どうしてあたしは、『お姉ちゃん』なんだろう。蒼空が『お兄ちゃん』だったら良かったのに。
勝手に口から飛び出した「大嫌い」の言葉が、お腹にたまってしくしく痛む。
涙はなかなか止まってくれなくて、あたしはでたらめに走り続けた。
どれくらい走っただろう。気が付いた時には見知らぬ街で、見たこともないほど沢山の人が、火傷しそうな熱い道を歩いていた。
「痛い!」
足を踏まれたような気がして声を上げる。本当は、履き古されたスニーカーのつま先が、ほんの少し触れただけだったのだけど。
「やあ、ゴメンね。気が付かなかった」
若いお兄さんが屈んで、声をかけてくれる。優しい笑顔。
怪我がないか確かめる為なのか、足先を握られた。
あたしは思わずサッと身を引いて、
「やめてください!」
と叫んだ。
知らない人に触られたら、大声を出しなさいって教わってるし。そ、その……恥ずかしいのもあるし。
あたしは初めて、地黒で良かったと思った。真っ赤な顔色が隠せるもの。
「大丈夫だよ。こんな街なかにひとりなんて、迷子かな? お腹は空いてない? ご飯食べる?」
「ご飯!?」
別の意味で恥ずかしいほど、あたしは『ご飯』という言葉に飛び付いてしまった。お腹がペコペコだったあたしは、お兄さんの後ろを恐る恐る着いていった。
お兄さんの出してくれたご飯は、今まで食べたこともないほど、美味しかった。
お母さんや蒼空に謝って、この美味しいご飯を分けてあげたい。そう言ったらきっとお兄さんは、あの優しい笑顔で良いよと言ってくれるだろう。
たまっていた「大嫌い」の代わりに、パンパンになるまで食べたお腹が苦しくて、仰向けでうとうととまどろむ。そっと、頭を撫でられた。
「――ちゃん?」
ううん。あたしは、杏だよ。
口をきくのも面倒なくらい眠かったあたしは、心の隅でそう応えた。
「君だよね。猫になっても……綺麗だな。綺麗な黒猫」
鼻の頭にお水がかかって、あたしはうっすらと目を開けた。
「僕、幸せだよ……」
そう言いながら、お兄さんは泣いていた。
どうして? 「幸せ」なのに?
ふいにお兄さんは、あたしに頬ずりした。まるで、あたしの毛皮で涙を拭うように。
だからあたしも夢うつつで、頬を濡らすしょっぱい涙をペロペロ舐める。
「幸せだ」
お兄さんはもう一度繰り返して、泣き腫らしたまぶたを閉じた。
「おやすみ。――ちゃん」
その日からあたしは『杏』じゃなくなった。でもお兄さんが幸せなら、好きに呼んで良いよ。
おやすみなさい……お兄さん。
End.