【戦艦長門】日本人の心を支えたヒーロー

作家: 華音(かのん)
作家(かな): かのん

【戦艦長門】日本人の心を支えたヒーロー

更新日: 2023/06/18 21:57
歴史、時代、伝奇

本編


1920年11月25日。
第一次世界大戦が終わり、大正デモクラシー、関東大震災、世界恐慌、そして、第二次世界大戦。そんな激動の渦に巻き込まれていく日本をずっと見守り続けていくことになる艦(ふね)が完成しました。

戦艦長門(ながと)
 
戦後生まれの私たちは、日本の戦艦というと、『大和』『武蔵』などを思い浮かべるのではないでしょうか。

しかし、大和や武蔵は第二次世界大戦開戦後に極秘に完成していたため、当時の日本人の中で知る人はほとんど居ませんでした。

その大和、武蔵が完成する二〇年も前。
 
戦艦長門は、第一次世界大戦でその名を世界に轟かせた、日本海軍の主力艦として完成しました。

皆さんは『戦艦』というと、どのようなイメージを持ちますか?

灰色の、大砲や機関銃を備えた怖い兵器。
 
そんな印象を持つ方も多いでしょう。勿論、その一面もあります。
 
しかし、特にこの戦艦長門は、第二次世界大戦開戦前から終戦後まで、ずっと日本人の心の支えになっていきました。

今回は、日本人に愛されたみんなのヒーロー、戦艦『長門』の、そんなエピソードをご紹介します。

長門完成から3年後の1923年9月1日。関東一帯で大地震が起きました。
 
「関東大震災」

震度7、マグニチュード7.9、死者約10万人。

沢山の方が犠牲になった2011年に起きた「東日本大震災」の死者が、約1万6000人。あの6倍以上の方が亡くなり、火災で火の海となった関東一帯の被害と衝撃の大きさは、計り知れません。

その時、長門は中国の海で演習中でした。震災の情報を聞いた長門はすぐに救援物資を積んで全速力で東京に向かおうとします。

ところが、対外的に公表していた長門の最高スピードは23ノット。実は26ノット出せるということは国の重要軍事機密で、最大速力を発揮することは固く禁じられていました。
諸外国にこの事実を漏らすわけにはいきません。東京には助けを求めて途方にくれる人たちが待っているというのに・・・。

長門首脳陣は処分覚悟で26.5ノットの全速力で急行し、救援に向かいました。
東京に駆けつけた長門の姿はとても頼もしく、絶望の淵に居た被災者達を勇気づけたと言われています。
 
その後、第二次世界大戦の終戦を迎えた翌年、1946年7月。

アメリカ軍に没収された長門は、核実験の標的とされるため、他数隻(すうせき)の艦艇(かんてい)と共に2度の核爆発を受けることになりました。
 
他の艦艇が次々に沈む中、爆発の中心地に配置されたにもかかわらず、長門はその4日後まで沈むこと無く耐え続けました。
 
そして、7月29日、実験から4日目の月夜の晩。長門は、沈みゆくその姿を誰にも見せることなく、静かに眠りにつきました。

これは日本でも報道され、「長門は二度の被爆を耐えた」「名鑑だった証拠だ」と、敗戦下の人々の心の支えとなったということです。

現在、長門の船体は、太平洋のマーシャル諸島共和国にある美しい珊瑚礁「ビキニ環礁(かんしょう)」で世界中のダイバーがあこがれる、有名なダイビングスポットになっています。

悲劇を繰り返さないための「世界文化遺産」として登録されているこの海を、長門は今、どのような思いを抱いて眺めているのでしょうか。

今日のお話はここまで。また歴史の道しるべの導きで、再びお会いすることができますように。
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