東京駅で会いましょう
東京駅で会いましょう
更新日: 2023/06/23 05:52現代ドラマ
本編
旭川空港で天気予報を見ると、東京には雨マークがついていた。「降水確率90%」という文字を見た時、自分はつくづく運のない奴だと落胆する。旭川の空は雲一つなく、これからわざわざ雨の降る場所へ行くことがバカバカしくなる。まさか1年半ぶりの元恋人との再会に水を差されるとは思わなかった。「○○に水を差す」ということわざを考え出した人物は、もしかしたら私と同じような経験をしたのかもしれない。
――向こうで傘を買わないとな……。
200メートル先のコンビニに行くのも車を使うような超車社会の町に住んでいると、傘の出番はまずない。一応、車に2本積んであるが、旭川に引っ越してから、それを使った覚えはない。
飛行機内の小さな窓から、うっすらと雪化粧をした大雪山(たいせつざん)連峰と十勝岳(とかちだけ)連峰が見えた。10月中旬の旭川は晩秋で、日中でも気温が10℃に届かず、もう冬が目の前に迫っている。
――東京はまだ暑いんだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、飛行機のエンジンがうなりを上げ、機体を空へと持ち上げた。シートベルトの着用サインが消えるのと同時にリクライニングシートを倒し、眠る態勢に入る。後ろの席に乗客がおらず、ぐずって泣く赤ん坊もいないのは運が良い。こんなところで運を使いたくなかったが。
羽田空港から東京駅行きのリムジンバスに乗った途端、激しい雨が窓ガラスを打った。「降水確率90%」という天気予報にすら腹が立つ。残りの10%は、一体何だと言うのだ。
――さすがに500円のビニール傘はなぁ。
東京駅構内のコンビニで、ビニール傘へと伸ばしかけた手を引っ込め、黒くて丈夫そうな傘を取った。1,000円という金額のことは考えないようにする。別れた恋人に対する見栄ではない。30歳を過ぎたいい大人が、値段が最も安いビニール傘を買うことが許せなかった。
傘をさして丸の内中央口から出ると、雨が傘に落ちる音、雨がバチバチと地面を打ちつける音、車のタイヤが濡れた路面を切り裂く音……それらが混ざり合い、耳に刺さる。
――ああ、雨の音って、こういう音だったのか。
忘れかけていた雨の音に、ほんの少しの感動を覚えた。
「相変わらず早いのね」
傘をさした恵美(えみ)が隣にいた。全く気付かなかった。待ち合わせより15分も早い。
「その傘、どうしたの?」
「さっきコンビニで買った」
「いくら?」
「1,000円」
「もったいない。安いビニール傘でいいのに」
私は「そうだな」と苦笑した。去って行った1,000円が、また意識の中に戻ってきて、少しだけ後悔した。結局、見栄っ張りだと思われている。
「ここで何してたの?」
「見てたんだよ。東京駅を」
納得したのか、興味を失ったのか、彼女は「へぇ」と言って東京駅に視線を移した。時刻は午後6時を過ぎた。仕事が終わって帰るのか、これからどこかへ出かけるのか、東京駅に人が吸い込まれて行く。
1年半前、上司から申し訳なさそうに「旭川支社に行ってほしいんだが」と言われ、二つ返事でオーケーした時、上司が一瞬「え?」と驚いた顔をしたのをはっきりと覚えている。それから毎日、上司は私に「旭川はいいぞー!」と、まるで暗示をかけるように言った。きっと、私の気が変わるのを恐れていたんだろう。仕事とはいえ、1,000キロメートル以上離れた場所への転勤を言い渡さなければならない苦労は理解できなくはない。ただ、東京に飲み込まれて、どうにもならなくなっていた私は、むしろ旭川への転勤は救いに思えた。
旭川へ引っ越す前、東京駅で恵美に別れを告げられた。恋人がいながら、東京を出ることに何の躊躇もなかった自分への当然の報いだと、何も言わずに受け入れた。
2か月前、「会いたい」とメールを受け取った時、なぜか東京駅以外の場所が思いつかなかった。「別の場所がいい」と言われれば変えるつもりだったが、彼女からたった一言、「いいよ」と返事が来た。別れた場所での再会を何とも思っていないのか、それとも、それ自体を忘れているのか、いずれにしても、確認するつもりはなかった。
「雨、止んでるよ?」
「――え?」
いつの間にか雨の音は消えていた。たたんだ傘を持ったロボットのような人の群れが、私と恵美の横を通り過ぎて行く。
彼女は傘をさしたまま、少し前に出てスマートフォンを構えた。濡れた路面がまるで鏡のように東京駅を映している。横に並び、一緒に写真を撮りたい衝動に駆られたが、その場から動けなかった。
――恵美は、東京に飲み込まれたりしないのだろうか。
墓石のようにそびえ立つ高層ビル群の中、煌(きら)びやかな光を発する茶褐色の東京駅があまりに異様で、眩しすぎる光に、私は目を細めた。
「いいね、その傘」
後ろからそう声をかけると、彼女は「思ってないくせに」と言って、傘をくるくると回した。ピンクの花柄の傘は、彼女に良く似合っている。センスの良さというのは、やっぱりこういうところに出るのだと思った。
――この人を飲み込むなよ?
東京駅に向かって呟く。
かつて私を飲み込んだ東京駅が、一瞬だけ怯んだように見えた。
0――向こうで傘を買わないとな……。
200メートル先のコンビニに行くのも車を使うような超車社会の町に住んでいると、傘の出番はまずない。一応、車に2本積んであるが、旭川に引っ越してから、それを使った覚えはない。
飛行機内の小さな窓から、うっすらと雪化粧をした大雪山(たいせつざん)連峰と十勝岳(とかちだけ)連峰が見えた。10月中旬の旭川は晩秋で、日中でも気温が10℃に届かず、もう冬が目の前に迫っている。
――東京はまだ暑いんだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えていると、飛行機のエンジンがうなりを上げ、機体を空へと持ち上げた。シートベルトの着用サインが消えるのと同時にリクライニングシートを倒し、眠る態勢に入る。後ろの席に乗客がおらず、ぐずって泣く赤ん坊もいないのは運が良い。こんなところで運を使いたくなかったが。
羽田空港から東京駅行きのリムジンバスに乗った途端、激しい雨が窓ガラスを打った。「降水確率90%」という天気予報にすら腹が立つ。残りの10%は、一体何だと言うのだ。
――さすがに500円のビニール傘はなぁ。
東京駅構内のコンビニで、ビニール傘へと伸ばしかけた手を引っ込め、黒くて丈夫そうな傘を取った。1,000円という金額のことは考えないようにする。別れた恋人に対する見栄ではない。30歳を過ぎたいい大人が、値段が最も安いビニール傘を買うことが許せなかった。
傘をさして丸の内中央口から出ると、雨が傘に落ちる音、雨がバチバチと地面を打ちつける音、車のタイヤが濡れた路面を切り裂く音……それらが混ざり合い、耳に刺さる。
――ああ、雨の音って、こういう音だったのか。
忘れかけていた雨の音に、ほんの少しの感動を覚えた。
「相変わらず早いのね」
傘をさした恵美(えみ)が隣にいた。全く気付かなかった。待ち合わせより15分も早い。
「その傘、どうしたの?」
「さっきコンビニで買った」
「いくら?」
「1,000円」
「もったいない。安いビニール傘でいいのに」
私は「そうだな」と苦笑した。去って行った1,000円が、また意識の中に戻ってきて、少しだけ後悔した。結局、見栄っ張りだと思われている。
「ここで何してたの?」
「見てたんだよ。東京駅を」
納得したのか、興味を失ったのか、彼女は「へぇ」と言って東京駅に視線を移した。時刻は午後6時を過ぎた。仕事が終わって帰るのか、これからどこかへ出かけるのか、東京駅に人が吸い込まれて行く。
1年半前、上司から申し訳なさそうに「旭川支社に行ってほしいんだが」と言われ、二つ返事でオーケーした時、上司が一瞬「え?」と驚いた顔をしたのをはっきりと覚えている。それから毎日、上司は私に「旭川はいいぞー!」と、まるで暗示をかけるように言った。きっと、私の気が変わるのを恐れていたんだろう。仕事とはいえ、1,000キロメートル以上離れた場所への転勤を言い渡さなければならない苦労は理解できなくはない。ただ、東京に飲み込まれて、どうにもならなくなっていた私は、むしろ旭川への転勤は救いに思えた。
旭川へ引っ越す前、東京駅で恵美に別れを告げられた。恋人がいながら、東京を出ることに何の躊躇もなかった自分への当然の報いだと、何も言わずに受け入れた。
2か月前、「会いたい」とメールを受け取った時、なぜか東京駅以外の場所が思いつかなかった。「別の場所がいい」と言われれば変えるつもりだったが、彼女からたった一言、「いいよ」と返事が来た。別れた場所での再会を何とも思っていないのか、それとも、それ自体を忘れているのか、いずれにしても、確認するつもりはなかった。
「雨、止んでるよ?」
「――え?」
いつの間にか雨の音は消えていた。たたんだ傘を持ったロボットのような人の群れが、私と恵美の横を通り過ぎて行く。
彼女は傘をさしたまま、少し前に出てスマートフォンを構えた。濡れた路面がまるで鏡のように東京駅を映している。横に並び、一緒に写真を撮りたい衝動に駆られたが、その場から動けなかった。
――恵美は、東京に飲み込まれたりしないのだろうか。
墓石のようにそびえ立つ高層ビル群の中、煌(きら)びやかな光を発する茶褐色の東京駅があまりに異様で、眩しすぎる光に、私は目を細めた。
「いいね、その傘」
後ろからそう声をかけると、彼女は「思ってないくせに」と言って、傘をくるくると回した。ピンクの花柄の傘は、彼女に良く似合っている。センスの良さというのは、やっぱりこういうところに出るのだと思った。
――この人を飲み込むなよ?
東京駅に向かって呟く。
かつて私を飲み込んだ東京駅が、一瞬だけ怯んだように見えた。
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