ばんにく

作家: 柴
作家(かな):

ばんにく

更新日: 2023/06/10 16:22
エッセイ、ノンフィクション

本編


所用で駅を歩いていたとき、耳が『ばんにく』という単語を拾った。

半分聞き流していたWebラジオ、イヤホンの向こうの女性パーソナリティが発したひとことだった。
本当に『ばんにく』と言ったかどうかは定かでは無い。あくまでそう聞こえた、という話。
確認しようにも、すでに次の話題へと移っていて、わざわざ巻き戻すのにも面倒臭さが勝った。

ばんにく…『晩肉』?
脳内変換とほぼ同時に、暗い部屋の真ん中にぼとっと落ちているひとつの肉塊のイメージが頭に浮かんだ。
表面からはじっとりと肉汁が滲み出している。

うじゅる うじゅる うじゅるるるる

…いや、普通に考えて「夕食の肉料理」のことだろう。晩に食べる肉だから『晩肉』。知らない単語ではあったけれど。
スマホに『晩肉』と打ち込み検索すると、1件のお店の名前がヒットしたが(誓ってもいいがパーソナリティはけしてハンバーグ屋の話はしていなかった)、あとは全て『挽肉』としての検索結果が表示された。

こころなしか、脳内の肉塊のキメが細かくなり、一層赤の色味が増した。

うじゅる うじゅる うじゅるるる

…そもそもなんでこの言葉がこんなに気になってるんだろう。我に返り思い返してみると、昔似たような言葉を聞いたことがあるからだと思い至った。
バンニク、バーンニク…。
たしか幼い頃に読んだ水木しげるの妖怪図鑑に、そんな名前の妖怪が載っていたような気がする。世界の妖怪をまとめた、系列の図鑑の中でもちょっとコアなやつ。
『バーンニク』で検索したら、今度はウィキペディアもヒットした。

バーンニク、ヴァンニクとも呼ぶ。スラヴ神話における浴槽の精霊。風呂場のある小屋やサウナに住み、森の悪魔や妖精を浴場に招待してしまう。人々は浴場を出る時に、バーンニクのために風呂の湯を残しておかないといけないとされる。バーンニクの入浴の邪魔をすると熱湯を浴びせてきたり、首を絞めて殺そうとしてくるという。

うじゅる うじゅる うじゅるるる

肉塊がより湿り気を帯びた気がする。絶えず垂れる肉汁かどうかもわからない汁が周囲に広がる。

バーンニクとは浴槽の精霊だったのか、そこまではすっかり忘れていた。ウィキペディアの画像には長い髭を生やしたやせぎすの老人の姿。海外発の挿絵のはずなのに、不思議と日本の妖怪「あかなめ」を彷彿とさせる。

…そういえば、独居老人が風呂場で死んでそのまま煮込まれてしまうっていう都市伝説あったよな。浴槽に浸かっている時に心筋梗塞で亡くなって、発見されるまでの数日間、風呂桶に煮込まれ続ける話。肌が浸かっていた部分だけぶよぶよに柔らかくふやけてしまって、警察が引き上げようとしたら首が背骨ごとズルズル引っこ抜けてしまったとか…。

うじゅる うじゅる うじゅるるる

肉塊からほんのりと湯気が立ちのぼる。表面に粘度の高そうな泡がぷくぷく浮かんでは弾けている。
果たしてこれは、何の肉なんだろうか。

そんな妄想をして遊んでいるうちにも、私は歩みを停めず駅連結の地下通路に辿り着いている。いつもよりじめじめしていると感じるのは昨日の雨の影響がまだ残っているせいだろうか。

通路脇の側溝に、雨水を吸うためなのか、いくつもの使い古したタオルや子供服が丸めて詰められていて目を疑った。
…あぁ汚い。漠然とした生理的嫌悪感を感じる。肉塊がぶくぶくと勢いよく大きくなる。

「うじゅる うじゅる うじゅるるる」

気づけば声に出していた。
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