桜月夜と白銀の秘密

作家: 青月クロエ
作家(かな): セイゲツクロエ

桜月夜と白銀の秘密

更新日: 2023/06/02 21:46
歴史、時代、伝奇

本編


(1)

 昔々、とある国の若き領主には真赭《まそお》と言う名の妻がおりました。
 隣国の領主同士であり、旧知の仲である父たちによって決められた夫婦ながら、ふたりは大変仲むつまじく。十四で嫁ぎ十年経ても尚、真赭は変わらず夫を慕い、支え続けていました。夫の殿もまた、真赭ただひとりを大切に、妾を持つことはありませんでした。

 しかし、そんな二人はひとつだけ、頭を悩ませる大きな問題を抱えていたのです。
 嫁いでからおよそ十年の間、真赭は子をひとりももうけていませんでした。

 桜の精のように儚く美しく嫋やか。殿や家臣、侍女たちは当然、国のすべての民へ慈愛を持って尽くす真赭は誰からも愛され、慕われています。
 けれど、石女《うまずめ》などと、くちさがなく言う者も少なからずいましたし、他ならぬ真赭自身がひそかに誰よりも悩み苦しみ、焦っておりました。

 身分高き女子《おなご》は二十五になればお褥《しとね》すべり──、夫と褥を共にしなくなります。二十五を越えた女子は年増の域に差し掛かるから。特に子のない女子なら尚更、そのしきたりを守らねばなりません。

 世継ぎは国のため、家のために必要。
 何より殿のために。愛する殿に我が子を胸に抱いて欲しい。
 そして、その子は側室ではなく真赭が腹を痛めた子でなくてはいけません。世継ぎのためとはいえ、他の女子になど触れて欲しくないからです。
 もしも殿が真赭以外の女子を……、考えるだけで気が触れてしまいそう。きっとこれまでの自分じゃいられなくなるのでは、と、ぞわり。遂に真赭は動き出しました。






(2)

 あれはこの国に嫁いで三年目の春。領内随一の桜の名所の山にて、城の皆で花見を行った日のことです。
 なごり雪に似た花びら舞い散る中での無礼講、喧騒に紛れて漏れ聞こえてきた他愛もない言い伝え。

『この桜がいちばん美しく咲く夜にだけ姿を現す神様がいる』
『桜の樹々のずっと奥深く、山の中。ふだんはない筈の池が現れて──』


 毎年恒例の花見の度に山へ入らねばと思いつつも、真赭はなかなか行動に移せずにいました。しかし、お褥すべりまで一年しか残されていないことが、真赭の背を強く押したのです。

 宵の刻が過ぎても続いた花見の宴がやっと終わり、皆が寝静まった頃。真赭はたったひとりで天幕をそろり、抜け出しました。

 日中の暖かな陽気から一転、夜更けはまだ肌寒く、冬の名残を未だ感じさせます。
 満開の桜が夜の闇から真赭を守るように咲き誇り、満月の淡い光が山へと繋がる道中をやさしく導きます。
 辺りの樹々の枝葉に艶やかな黒髪や袖を引っかけ、茂みにこけつまろびつしながら、山の奥へ、奥へ。濃くなる一方の闇に怯えて突き進んでいると、かすかな水音が聴こえてきました。

 水音を頼りにその源に近づいていくと、煌々と輝く白銀《しろがね》色の池──、と、池の中心に若者がひとり。

 振り返り様、若者の腰まで届く、まっすぐな深紅の髪が夜風になびき。正面で向き合った顔《かんばせ》は京人形に似た細面。涼やかな眦《まなじり》にはあざやかな朱。
 真っ白な小袖をまとい、人ならざる妖しさ美しさを持つ若者に畏怖の念から真赭はただ立ち尽くしていました。

『真赭か。そろそろ訪れる頃合いだと思っていた』
「なぜ、妾《わらわ》の名を……??」
『私はこの地の守り神ゆえ知らぬことはない。なんでも知っている』
「なんでも、ですか」
『そう、なんでも。主《ぬし》に子ができぬ理由もだ』

 単刀直入に告げられ、真赭は言葉を失ってしまいました。しかし、すぐにすがるように池の畔、落ちるか落ちないかの際まで這い寄り、深く頭を垂れました。

「その理由、是非とも妾に教えてくださりませぬか!お願い致します……!」
『なに、単に主の夫に子種がないだけじゃ』
「子……?!そんな!」

 真赭は再び言葉を失くすと同時に崩れ落ちました。衝撃のあまりに泣くことすらままなりません。
 胸元で拳をぎゅっと握りしめ、浅い呼吸はそのままに途方に暮れ。現実を見たくないとばかりに固く目を瞑り──

「では、いったい、どうすれば」
『任せるがいい。その願い、私が叶えてやろう』
「え……」

 辺りの気配が急にぐにゃりと歪んだ気がして、真赭はハッと周囲を見回しました。実際は特に変化は見られません。
 しかし、白銀の池に視線を戻すと真赭は小さく悲鳴を上げました。

 なんと、池の中の若者が深紅の瞳に白銀の鱗の大蛇へと姿を変えていたのです。

『恐れることはない。これまでも子種を持たない領主の妻は皆してきたこと』
「い、いや」

 血の色をした二又の長い舌をちろちろさせ、大蛇は真赭に少しずつ迫ってきます。

『家を国を、絶やしてもかまわぬと??』
「ひっ」
『……夫に子を抱く喜びを与えてやりたくないか??主の生んだ子を』

 大蛇の顔が真赭の眼前まで近づき、憐憫に満ちた声で囁きます。おそろしくて堪らない筈なのに、声の優しい響きにわずかに恐怖心が薄れ──、代わりに当初抱いた強い願いが浮上していきます。

 愛する殿のお役に立ちたい。喜ぶお顔が見たい。
 殿の子を生むのは真赭の役目。他の誰にも渡したくない。たとえ殿の方に原因があったとしても……、いいえ、原因など始めからありません。真赭に子さえできれば誰にもわからないことですから。


『覚悟を決めたようだな』
「はい」

 下生えの草の上、真赭は背筋をしゃんと伸ばし、正座します。
 するり、大蛇の頭が衿の中へ滑り込んでいきました。




 それから、十月十日ののち。
 殿と真赭の間に元気な男児が生まれ、国中が喜びに包まれたそうな。
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