花満ちる廃墟にて

作家: 紫月音湖(旧HN/月音)
作家(かな): しづき ねこ

花満ちる廃墟にて

更新日: 2023/06/02 21:46
SF

本編


「おはようございます。お嬢様」

 眩しいくらいの朝日が降り注ぎ、室内に留まる夜の名残をかき消していく。
 風にそよぐレースのカーテンがふわりと膨らんで、お嬢様の眠るベッドに繊細な影の模様を浮き上がらせていた。

「もう少し休まれますか?」

 ベッドに眠るお嬢様からは返事がない。一向に動く気配のないお嬢様へと頭を下げ、私は部屋を後にする。
 静かに閉めたつもりだったが、先日の雨でだいぶ痛んでしまったのだろう。扉は耳障りな音をたてて、静かな屋敷の空気を無遠慮に響かせてしまった。
 所々朽ちた扉を見やり、私は今日の予定に扉の修繕作業を追加した。


 ***


 屋敷の庭は、沢山の花で彩られている。とは言っても、その大半は私が森で採取してきた野の花だ。
 生命力の強い野花に紛れて、庭の一角に特別な場所がある。白い柵で区切られた場所には、お嬢様が好きだというピンクの薔薇が植えられていた。
 私の主《あるじ》である館の主人が、娘のためにと生前に植えたものだ。

 素朴な野花に混ざって女王のように君臨するピンクの薔薇は、まるで己の存在を誇示するかの如く多くの花を付けている。辺り一面に漂う馨しい薔薇の香りに誘われて、私はそっと上品なその花びらに顔を近付けて香りを嗅ぐ真似をした。

 そう、真似だ。
 私の鼻が、匂いを嗅ぎ取ることはない。

 私は主《あるじ》に造られたアンドロイドだ。人の姿を真似てはいても、触覚や嗅覚は人のそれには到底及ばない。
 与えられた仕事を行う為に、感覚は必要最低限で良いのだ。
 今までも、そしてこれからも。

 私はただ、主《あるじ》の命《めい》に従い、動くだけだ。そうあるように造られたアンドロイドなのだから。


『私がいなくなってしまっては娘が寂しがるだろう。私が死んだ後も、お前には娘の世話をしてほしい』


 流行病で主《あるじ》が死んだのは、19,226日前のことだ。元々高齢だった体が病に打ち勝つことは難しく、予想していたよりも数日早く息を引き取った。
 主《あるじ》の遺言通りに遺体は屋敷の裏へ埋めた。先に埋葬されていた奥様の隣に墓標を建て、生前主《あるじ》がそうしていたように定期的に花を手向けている。
 命令されたわけではない。墓標を前にしたときに、人が行う一連の作業なのだと記憶している。

 摘み取った薔薇のひとつを墓前に手向け、記憶に残る主《あるじ》の姿を真似て目を閉じる。
 映像を遮断した画面が、ただ黒一色に塗り潰されただけだった。


 ***


 白い花瓶に摘んできたばかりの薔薇を生け、お嬢様の部屋へと戻る。形だけのノックをして扉を開けると、太く鈍い音をたてて扉の上部が傾いた。少し強引に引き戻すと、腐った扉の上部がバラバラと砕け散ってしまう。押しても引いても、それはもう扉としての役割を果たせずに、中途半端に傾いたまま床の窪みに引っかかって止まってしまった。

 あぁ……と、無意識に声を漏らして立ち竦む。

 またひとつ、屋敷が機能を止めた。

 広い屋敷は頑丈な作りではあったが、それでも人が住まないと言うだけで劣化のスピードは驚くほど早い。腐って穴の開いた階段や、床に散らばる割れた窓ガラスなどは可能な限り修繕したが、それでも一人で屋敷全部を管理することは難しい。
 必然的に管理・把握する場所は私の行動範囲のみに限定され、それはお嬢様の部屋と庭に出る為の階段など必要最低限の箇所だけに縮小された。その結果、美しかった屋敷の一部は損壊し、外から屋敷を眺めるとおよそ人が住んでいるとは思えないほど無残に朽ちかけた姿を晒している。

 それでも私の優先すべきことは、お嬢様のお世話が第一である。
 雪の降る凍える冬には毛布を重ねて掛けてやり、主《あるじ》が植えたピンクの薔薇が咲く頃にはこうして花瓶に生けてベッドの側に飾っておく。室内は出来るだけ綺麗に保ち、時々は主《あるじ》が昔用意した絵本を夜に読み聞かせてやる。
 その間も、お嬢様はずっとベッドに横になったままだ。

「お嬢様。今年も旦那様の植えた薔薇が咲きましたよ」

 サイドテーブルに薔薇の花瓶を置いて、ベッドに眠るお嬢様へと向き直る。
 美しく波打つ金色の髪。真っ白な陶器の肌。青空を思わせる瞳は、一度も閉じたことがない。

「今日はいい天気ですよ。少し外をご覧になりますか?」

 返事がないことを知っている。
 お嬢様には、生体反応がない。生体、と言っていいのかどうか、私は未だに答えを出せないでいる。
 私の中にある膨大なデータから弾き出された答えと、主《あるじ》が認識している「娘」であるお嬢様とでは大きな齟齬があるのだ。

 ベッドに横たわったままのお嬢様を抱きかかえ、私は窓際へと歩いて行く。バルコニーへ続くガラス戸はとうになく、代わりに垂れ下がったレースのカーテンを捲って陽光の下に出ると、文字通りお嬢様の陶器の肌がきらりと光を反射した。

「あそこにお嬢様の好きな薔薇が咲いているのが見えますか?」

 庭の一角を指して、お嬢様が見えやすいように少しだけ角度を変えてやる。その青いガラスの瞳が薔薇を見ることはないのだが、お嬢様を「娘」と呼んだ主《あるじ》が命令するのであれば、本来人形であるはずのお嬢様を主《あるじ》の「娘」として世話をするのは私の役目だ。それが唯一の、私の存在意義。

 風に揺れるピンクの薔薇。その馨しい香りを嗅ぐことの出来ない私とお嬢様。
 来年も、再来年も、同じように薔薇を見る。


 緩やかに時を止めていく屋敷の中で、私は今日もお嬢様の世話をする。

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