狐火葬
狐火葬
更新日: 2023/06/02 21:46恋愛
本編
りん、りん――と。
夏の夜を涼やかに彩る虫の声がする。
日中の強い日差しに照らされた地面からは熱気が溢れ、肌を撫でる夜気は少しだけ生温い。川縁《かわべり》に生い茂る緑は悠々と流れる蛍川に沿って、緩やかに蛇行しながらどこまでも続いていた。
闇夜に揺蕩う幻想的な光は、蛍だ。昔は手に届く星空のように乱舞していた蛍も、今は目にすることの方が珍しい。蛍川はその蛍にちなんで付けられたと聞いている。
毎年二、三匹見られれば良い方だった蛍だが、今夜はいつもよりも数が多かった。当たり年かなと得した気分になりながら手を伸ばすと、指先を淡い光が掠めて飛んでいく。その光に誘われるように一歩踏み出せば、いつの間にか背後に赤い鳥居が建っていた。
りぃん、りぃん――と。
鈴虫の声が、まるで水の膜をすり抜けたみたいに重なって木霊する。音は遠く不明瞭で、生温かった夜気もすっかり冷え切っている。凍えるほどではないが、肌に感じるあまりに神聖な空気に思わず着物の衿をぎゅっと掴んだ。
「ほら、思ったほど長くはなかっただろう?」
不意に聞こえた声に振り向けば、赤い鳥居の下――柱にもたれかかるようにして、ひとりの青年が立っていた。白地に紫の模様が入った狩衣を着た彼は、閉じた扇子で口元を隠している。けれども銀色の髪の隙間から覗く濃紫《こむらさき》の瞳はやさしく細められ、彼が微笑んでいるのが容易に見て取れた。
髪の色。瞳の色。時代にそぐわない衣装。加えて頭に生えた狐耳と背中で揺れる大きな尻尾が、彼の正体を雄弁に物語っているのに不思議と恐怖は微塵も感じなかった。
私の胸にあるのは、ただの揺らぎ。たとえるならば窓を開けた時にチリンと控えめになる風鈴のような、あるいは真っ白い紙にたったひとしずく落ちた朝顔の色水のような。日常に紛れ込んだ些細な美しさに心が和らぐ、そんな静かで優しいさざなみに似た感覚だった。
「どうした? まだ寝惚けているのか?」
彼の細い指先が、私の頬に触れる。体ごと抱きしめられた錯覚をしてしまったのは、ふわりと漂う白檀の香りのせいだ。体を包む甘い香りに誘われて、私の思考は過去と現在を行ったり来たりして定まらない。この感覚を何と呼ぶのか――経験したことはないけれど、おそらくこれが走馬灯と呼ばれるものなのだろう。
「あぁ、よかった。お前は多くの人間に愛されてきたようだ」
彼の視線を辿れば、蛍川の向こう岸に橙色の淡い光が揺れていた。蛍とは違う、人肌のぬくもりを感じる光のかがやき。川岸に咲く花のように、風にさざめきはすれど飛び立たない。じっとその場にあって、まるで誰かを見送っているかのようだ。耳をすませば、懐かしい声が聞こえてくる。
ありがとう。
おつかれさま。
さみしい。
いかないで。
だいすきだよ。
いとしい子供たちの悲しげな声が。かわいい孫の無邪気な声が。先に逝った兄の、優しかった母の。そして私を大事にしてくれた旦那様の落ち着いた声が、川のせせらぎに乗って響いてくる。
幸せな人生だった。生きることに必死ではあったけれど、それを辛いと思ったことは一度もない。私はとても恵まれていた。
ありがとう、と。そう伝えた声が届いたかどうかはわからない。けれど対岸に揺れる橙の光は左右に大きく揺れ、まるで手を振っているかのように見えたのだった。
「ひとが繋ぐ絆は、私には決して与えられぬものだ」
どこか物悲しさを孕んだ声音に振り向けば、彼は愛おしいものを見るように橙色の光を見つめていた。
「悠久を生きる私には子孫を残すという概念がない。巡る季節に寄り添いながら自然と共にあり、人々に忘れ去られるまで生きていく。お前はそんな私と共にありたいと、そう願ってくれたが――ひとである喜びを、幸せを知らぬまま、こちら側へ連れてくることは心苦しくてな」
見つめ合った濃紫の美しい瞳に私の姿が映っている。そういえばずっと前にも、こうやって愛おしげに見つめられていたような気がする。
雪深い山の奥。怪我をして動けなくなった私の前に、一匹の白く大きな狐が現れた。ふさふさの毛並みは角度によって銀色に光り、こちらを見つめる瞳は夜を溶かしたような濃紫。目元と額に赤い模様を浮かび上がらせた狐の姿はあまりに美しく、私はついに黄泉の国へ足を踏み入れてしまったのだと思ったほどだ。
けれども誘われた先は風雪をしのぐ洞穴で、狐はその大きな体を丸めて凍えた私をすっぽりと包んで温めてくれたのだ。その狐が目の前の青年と同一人物である事は、翌朝目を覚ました時に知った。
寒さに耐え忍ぶ冬に出会った私たちは、雪解けに喜び歌う春に恋を実らせた。人ではない彼と共にあることを望んで、そして同じように望まれたことに胸が躍ったけれど。
『人の一生は短く、だからこそ美しいものだ。こちら側へ来ることなどいつでもできる。けれどもお前が人である時間は今だけなのだよ』
必ず迎えに行くからと、彼は私の手を優しく手放したのだ。
『私にとって人の一生などあっという間だ。一眠りしたら迎えに行くよ。だからお前は人としての人生を楽しんでからおいで』
風が吹く。蛍が舞う。結い上げた髪は緩やかに解け、なくした色を取り戻して黒く艶めく。
「この手を取ればお前はもう、二度と人の世には戻れない」
それでも――と続く言葉を遮って、私は差し出された彼の手をそっと握りしめた。ほんの少し目を開いて驚いた彼が、ふっと口元を緩めて穏やかに笑う。
「お前は変わらないな。少し強引なところも、ひとの話を最後まで聞かないところもあの頃のままだ。……だが、それがたまらなく愛おしいのだよ」
白檀の香りが一層強くなる。衣擦れの音がしたかと思うと優しく抱きしめられ、私の心は出会った頃の少女へと戻っていく。
「おいで」
私の手を引いたまま、彼はゆっくりと歩き出した。一歩進む度に、私は現世から遠ざかっていく。皺だらけの肌は白く滑らかなものへと変わり、曲がった腰は真っ直ぐに戻る。覚束ない足取りは軽やかに跳ね、長い黒髪が艶やかに光った。
彼に導かれるままに鳥居をくぐると、私の白い着物が白無垢へと変化した。
鳥居の向こうに続く、先の見えない階段を、彼と一緒に上っていく。目の前で揺れる尻尾に触れると困ったように笑う彼が愛しくて、私はつい何度も手を伸ばしてしまった。手のひらに伝わる柔らかい感触は、あの雪の夜に私を包んでくれたやわらかさと何も変わっていない。それが嬉しくて、繋いだ手をきゅっと強く握りしめた。
葬送の送り火に揺れる蛍川。階段を上る度に、赤い灯籠に青白い狐火が灯る。
ひとつの生を終え、私はここから新しい道を歩いていく。橙色のやさしい送り火に見送られ、愛情深い狐火に迎え入れられる先は永久《とわ》の神域。
階段を上りきる手前。最期に目に焼き付けた風景は、星の海かと思うほどに光溢れる蛍川の姿だった。
――お前さま。
名前を呼ぶと、嬉しそうに尻尾が揺れた。
繋いだ手はもう二度と放さない。私は彼と、いきる。
人がわたしたちを忘れるまで、彼と共にいきていく。
0夏の夜を涼やかに彩る虫の声がする。
日中の強い日差しに照らされた地面からは熱気が溢れ、肌を撫でる夜気は少しだけ生温い。川縁《かわべり》に生い茂る緑は悠々と流れる蛍川に沿って、緩やかに蛇行しながらどこまでも続いていた。
闇夜に揺蕩う幻想的な光は、蛍だ。昔は手に届く星空のように乱舞していた蛍も、今は目にすることの方が珍しい。蛍川はその蛍にちなんで付けられたと聞いている。
毎年二、三匹見られれば良い方だった蛍だが、今夜はいつもよりも数が多かった。当たり年かなと得した気分になりながら手を伸ばすと、指先を淡い光が掠めて飛んでいく。その光に誘われるように一歩踏み出せば、いつの間にか背後に赤い鳥居が建っていた。
りぃん、りぃん――と。
鈴虫の声が、まるで水の膜をすり抜けたみたいに重なって木霊する。音は遠く不明瞭で、生温かった夜気もすっかり冷え切っている。凍えるほどではないが、肌に感じるあまりに神聖な空気に思わず着物の衿をぎゅっと掴んだ。
「ほら、思ったほど長くはなかっただろう?」
不意に聞こえた声に振り向けば、赤い鳥居の下――柱にもたれかかるようにして、ひとりの青年が立っていた。白地に紫の模様が入った狩衣を着た彼は、閉じた扇子で口元を隠している。けれども銀色の髪の隙間から覗く濃紫《こむらさき》の瞳はやさしく細められ、彼が微笑んでいるのが容易に見て取れた。
髪の色。瞳の色。時代にそぐわない衣装。加えて頭に生えた狐耳と背中で揺れる大きな尻尾が、彼の正体を雄弁に物語っているのに不思議と恐怖は微塵も感じなかった。
私の胸にあるのは、ただの揺らぎ。たとえるならば窓を開けた時にチリンと控えめになる風鈴のような、あるいは真っ白い紙にたったひとしずく落ちた朝顔の色水のような。日常に紛れ込んだ些細な美しさに心が和らぐ、そんな静かで優しいさざなみに似た感覚だった。
「どうした? まだ寝惚けているのか?」
彼の細い指先が、私の頬に触れる。体ごと抱きしめられた錯覚をしてしまったのは、ふわりと漂う白檀の香りのせいだ。体を包む甘い香りに誘われて、私の思考は過去と現在を行ったり来たりして定まらない。この感覚を何と呼ぶのか――経験したことはないけれど、おそらくこれが走馬灯と呼ばれるものなのだろう。
「あぁ、よかった。お前は多くの人間に愛されてきたようだ」
彼の視線を辿れば、蛍川の向こう岸に橙色の淡い光が揺れていた。蛍とは違う、人肌のぬくもりを感じる光のかがやき。川岸に咲く花のように、風にさざめきはすれど飛び立たない。じっとその場にあって、まるで誰かを見送っているかのようだ。耳をすませば、懐かしい声が聞こえてくる。
ありがとう。
おつかれさま。
さみしい。
いかないで。
だいすきだよ。
いとしい子供たちの悲しげな声が。かわいい孫の無邪気な声が。先に逝った兄の、優しかった母の。そして私を大事にしてくれた旦那様の落ち着いた声が、川のせせらぎに乗って響いてくる。
幸せな人生だった。生きることに必死ではあったけれど、それを辛いと思ったことは一度もない。私はとても恵まれていた。
ありがとう、と。そう伝えた声が届いたかどうかはわからない。けれど対岸に揺れる橙の光は左右に大きく揺れ、まるで手を振っているかのように見えたのだった。
「ひとが繋ぐ絆は、私には決して与えられぬものだ」
どこか物悲しさを孕んだ声音に振り向けば、彼は愛おしいものを見るように橙色の光を見つめていた。
「悠久を生きる私には子孫を残すという概念がない。巡る季節に寄り添いながら自然と共にあり、人々に忘れ去られるまで生きていく。お前はそんな私と共にありたいと、そう願ってくれたが――ひとである喜びを、幸せを知らぬまま、こちら側へ連れてくることは心苦しくてな」
見つめ合った濃紫の美しい瞳に私の姿が映っている。そういえばずっと前にも、こうやって愛おしげに見つめられていたような気がする。
雪深い山の奥。怪我をして動けなくなった私の前に、一匹の白く大きな狐が現れた。ふさふさの毛並みは角度によって銀色に光り、こちらを見つめる瞳は夜を溶かしたような濃紫。目元と額に赤い模様を浮かび上がらせた狐の姿はあまりに美しく、私はついに黄泉の国へ足を踏み入れてしまったのだと思ったほどだ。
けれども誘われた先は風雪をしのぐ洞穴で、狐はその大きな体を丸めて凍えた私をすっぽりと包んで温めてくれたのだ。その狐が目の前の青年と同一人物である事は、翌朝目を覚ました時に知った。
寒さに耐え忍ぶ冬に出会った私たちは、雪解けに喜び歌う春に恋を実らせた。人ではない彼と共にあることを望んで、そして同じように望まれたことに胸が躍ったけれど。
『人の一生は短く、だからこそ美しいものだ。こちら側へ来ることなどいつでもできる。けれどもお前が人である時間は今だけなのだよ』
必ず迎えに行くからと、彼は私の手を優しく手放したのだ。
『私にとって人の一生などあっという間だ。一眠りしたら迎えに行くよ。だからお前は人としての人生を楽しんでからおいで』
風が吹く。蛍が舞う。結い上げた髪は緩やかに解け、なくした色を取り戻して黒く艶めく。
「この手を取ればお前はもう、二度と人の世には戻れない」
それでも――と続く言葉を遮って、私は差し出された彼の手をそっと握りしめた。ほんの少し目を開いて驚いた彼が、ふっと口元を緩めて穏やかに笑う。
「お前は変わらないな。少し強引なところも、ひとの話を最後まで聞かないところもあの頃のままだ。……だが、それがたまらなく愛おしいのだよ」
白檀の香りが一層強くなる。衣擦れの音がしたかと思うと優しく抱きしめられ、私の心は出会った頃の少女へと戻っていく。
「おいで」
私の手を引いたまま、彼はゆっくりと歩き出した。一歩進む度に、私は現世から遠ざかっていく。皺だらけの肌は白く滑らかなものへと変わり、曲がった腰は真っ直ぐに戻る。覚束ない足取りは軽やかに跳ね、長い黒髪が艶やかに光った。
彼に導かれるままに鳥居をくぐると、私の白い着物が白無垢へと変化した。
鳥居の向こうに続く、先の見えない階段を、彼と一緒に上っていく。目の前で揺れる尻尾に触れると困ったように笑う彼が愛しくて、私はつい何度も手を伸ばしてしまった。手のひらに伝わる柔らかい感触は、あの雪の夜に私を包んでくれたやわらかさと何も変わっていない。それが嬉しくて、繋いだ手をきゅっと強く握りしめた。
葬送の送り火に揺れる蛍川。階段を上る度に、赤い灯籠に青白い狐火が灯る。
ひとつの生を終え、私はここから新しい道を歩いていく。橙色のやさしい送り火に見送られ、愛情深い狐火に迎え入れられる先は永久《とわ》の神域。
階段を上りきる手前。最期に目に焼き付けた風景は、星の海かと思うほどに光溢れる蛍川の姿だった。
――お前さま。
名前を呼ぶと、嬉しそうに尻尾が揺れた。
繋いだ手はもう二度と放さない。私は彼と、いきる。
人がわたしたちを忘れるまで、彼と共にいきていく。