海葬
海葬
更新日: 2023/06/02 21:46異世界ファンタジー
本編
母が死んだ。
静かな最期だった。
城の南側にある塔の最上階。そこが母の部屋だった。
記憶に残る母の姿は儚げで、サファイアを溶かしたような瞳の奥には時折物言わぬ哀愁が見え隠れしていたのを覚えている。
滅多に部屋から出ない為か、母の肌は驚くほどに白かった。小さな唇の淡い桃色が、白い肌に色を添えているくらいだ。長い髪は癖のない薄い金色で、瞳も陽光に透ける海のように薄く淡い。
全体的に華奢で儚い雰囲気の母だったが、海に棲むと言う人魚の話をする時だけは目に見えて生き生きとしていた。水を得た魚のように薄青の瞳を輝かせ、白い頬を朱に染める。その姿は、まるで海に恋い焦がれる女のようだった。
その思いが望郷の念であったことを知ったのは、母が死んでからひと月ほど経った後のことだった。
母の部屋だった塔の最上階。主のいない部屋は時を止めたまま、未だに色濃く母の痕跡を残している。
栞を挟んだ読みかけの本。
数着しか衣服の掛かっていないガラガラのクローゼット。
壁際に置かれたベッドに落ちる陰影は、窓から差し込む光がシーツの皺を照らして出来たものだ。
その光を取り込む窓の側に、一脚の椅子が置いてある。
この場所で海を眺めていた母と同じように椅子に腰掛けると、開け放たれた窓からかすかに潮の香りを含んだ風が頬を撫でていった。優しくそよぐ海風に、薄い金色の髪がさらりと流れる。
気持ちよく晴れた空の青と紺碧の海が、私の視界をどこまでも青く碧く染めていく。薄青の瞳を閉じれば、遠く潮騒が「還っておいで」と囁くように響いていた。
窓から滑り込む海の香りと、絶え間なくいざなう漣の音。
故郷を強く滲ませる懐かしい|腕《かいな》に抱かれながら、母はどんな思いでこの手紙を書いたのだろう。
たった一枚の、飾り気のない白い手紙。
けれどその白い海には、家族に対する深い愛情と謝罪が揺蕩うように綴られていた。
父を愛し、海を捨てて|陸《おか》に上がった若かりし母。
望んで望まれ、愛し愛され、授かった私を何よりも愛していたと。
思い描いていた家族。手に入れた、夢のような幸せ。
その変わらない愛に包まれていながら、いつしか手放したはずの故郷へ思いを馳せるようになってしまった自分への悔恨。
父を、私を、愛している。
けれど、心は引き潮のように故郷へ引き戻されていく。
愛している。
還りたい。
愛しているのに。
還りたい。
せめぎ合う思いの狭間で衰弱していった母は、とうとう海に還ることなく地中深くに埋葬された。
晴れ渡った青空に、白い鳥が飛んでいく。
繰り返し紡がれる潮騒に、鳥の鳴き声が弔歌を添える。
海に焦がれ、還ることの出来なかった母の思いを乗せて。
せめて最期の手紙を海へ還そう。
優しい波に攫われて、どうか母の思いを込めた文字が海にほどけていきますように。
1静かな最期だった。
城の南側にある塔の最上階。そこが母の部屋だった。
記憶に残る母の姿は儚げで、サファイアを溶かしたような瞳の奥には時折物言わぬ哀愁が見え隠れしていたのを覚えている。
滅多に部屋から出ない為か、母の肌は驚くほどに白かった。小さな唇の淡い桃色が、白い肌に色を添えているくらいだ。長い髪は癖のない薄い金色で、瞳も陽光に透ける海のように薄く淡い。
全体的に華奢で儚い雰囲気の母だったが、海に棲むと言う人魚の話をする時だけは目に見えて生き生きとしていた。水を得た魚のように薄青の瞳を輝かせ、白い頬を朱に染める。その姿は、まるで海に恋い焦がれる女のようだった。
その思いが望郷の念であったことを知ったのは、母が死んでからひと月ほど経った後のことだった。
母の部屋だった塔の最上階。主のいない部屋は時を止めたまま、未だに色濃く母の痕跡を残している。
栞を挟んだ読みかけの本。
数着しか衣服の掛かっていないガラガラのクローゼット。
壁際に置かれたベッドに落ちる陰影は、窓から差し込む光がシーツの皺を照らして出来たものだ。
その光を取り込む窓の側に、一脚の椅子が置いてある。
この場所で海を眺めていた母と同じように椅子に腰掛けると、開け放たれた窓からかすかに潮の香りを含んだ風が頬を撫でていった。優しくそよぐ海風に、薄い金色の髪がさらりと流れる。
気持ちよく晴れた空の青と紺碧の海が、私の視界をどこまでも青く碧く染めていく。薄青の瞳を閉じれば、遠く潮騒が「還っておいで」と囁くように響いていた。
窓から滑り込む海の香りと、絶え間なくいざなう漣の音。
故郷を強く滲ませる懐かしい|腕《かいな》に抱かれながら、母はどんな思いでこの手紙を書いたのだろう。
たった一枚の、飾り気のない白い手紙。
けれどその白い海には、家族に対する深い愛情と謝罪が揺蕩うように綴られていた。
父を愛し、海を捨てて|陸《おか》に上がった若かりし母。
望んで望まれ、愛し愛され、授かった私を何よりも愛していたと。
思い描いていた家族。手に入れた、夢のような幸せ。
その変わらない愛に包まれていながら、いつしか手放したはずの故郷へ思いを馳せるようになってしまった自分への悔恨。
父を、私を、愛している。
けれど、心は引き潮のように故郷へ引き戻されていく。
愛している。
還りたい。
愛しているのに。
還りたい。
せめぎ合う思いの狭間で衰弱していった母は、とうとう海に還ることなく地中深くに埋葬された。
晴れ渡った青空に、白い鳥が飛んでいく。
繰り返し紡がれる潮騒に、鳥の鳴き声が弔歌を添える。
海に焦がれ、還ることの出来なかった母の思いを乗せて。
せめて最期の手紙を海へ還そう。
優しい波に攫われて、どうか母の思いを込めた文字が海にほどけていきますように。
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