玉手箱の秘密

作家: 夏凪ひまり
作家(かな):

玉手箱の秘密

更新日: 2023/06/02 21:46
詩、童話

本編


それは酷く青い鱗だった。
君はなんて残酷な人なんだ。
私の心の中は、こんなにも君だらけだというのに。
優しい思い出も、楽しい思い出も、ときめくこの想いもそのままに、私を置き去りにするなんて。
私が欲しいのは、君の一部ではなく全てだった。
君は湧き上がり消えてゆく海の泡の如く消えてしまった。

それは、水平線からやっと光が指し始めた肌寒い朝だった。漁師の私は誰よりも早く起き、前日に仕掛けた罠を見に行った。微かに震えながら私は波打ち際に目をやる。海藻、うに、アワビ。連日の雨で荒れた海は波打ち際に様々な物を運んでくる。君もその一つだった。

「あれは……人? 大変だ!おい、大丈夫か?!」

その女の薄ぼんやりと開く青色の瞳が、すぐに閉ざされる。私は血相を変えて自分の家にぐったりした彼女を運び込んだ。とは言っても、貧乏なので医者を呼んでやれる余裕もなく、苦しむ彼女の隣であくせく働くしかなかった。

三日三晩の看病の末、彼女は目を覚ました。
「ここは?……っ!とにかく水!水を探さないと!」
飯を炊いていた私は、風呂場からザバンッという大きな音がしたので、驚いて見に行くと幸せそうに水浴びをしている君がいた。たいそう面食らってしまったが、それよりも苦しんでいた彼女が笑顔でいることの方が幸せだった。

元気になるまでは、好きに使って良いからと彼女を自由に過ごさせた。
最初はかなり警戒していた彼女も、話をしていくうちにすっかり打ち解けてしまった。

「私は、人間じゃない。セイレーンという化け物よ?私が恐ろしくないの?」
「私には、無邪気に笑う君が恐ろしかった事なんて一度もないよ。」
「変な人。」
「君が望むならいつまでだって、ここにいてもいい。もうひとつ贅沢を言うなら、私の女房になってくれないか。」
「……本当に変な人ね。」

彼女は歌で船人を惑わして食べる化け物だというが、そんな一族が嫌で逃げ出してきたらしい。どこにも帰る場所がないなら、ずっとうちにいればいいと思った。彼女との幸せな未来を想像するのが好きだった。なのに。

『乾く……乾く……酷く喉が乾く……人間……欲しい、肉が血が……私を潤して……』

「君が……好きだ……」

「……っ!」

『あぁ……あなたは……私があなたを食べようとしている時に、幸せそうに眠って、私を好きだと言ってくれるのですね。』

私が朝目覚めると隣で眠っていたはずの君がいなかった。急いで探しに行ってみたもののついに姿を見ることはなかった。代わりに酷く青い鱗が布団の上に一枚残されていた。これを売れば相当なお金になるだろう。暮らしには困らないだろう。でも、そんなこと私には出来なかった。私は、彼女の面影であるその鱗をそっと箱にしまい込んだ。

それは、水平線からやっと光が指し始めた肌寒い朝だった。こんな日は決まって、君を探しに海に出た。美しいあの声をどうしてももう一度聞きたくて。でも、どこにも君はいない。
君はなんて残酷な人なんだ。
私の心の中は、こんなにも君だらけだというのに。
せめて、面影に触れようと青い鱗をしまっていた箱を取り出す。そっと箱を開けると、突然、真っ白な煙に視界が包まれた。驚いて顔を洗おうと水面を覗くと、そこには真っ白な髪の老人が水面に映っていた。私は80歳の老人になっていたのだ。
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