マヤの冒険

作家: Kyoshi Tokitsu
作家(かな):

マヤの冒険

更新日: 2023/06/02 21:46
異世界ファンタジー

本編


 網状(もうじょう)都市の円環街。その片隅にマヤは佇んでいた。行き交う人妖獣神は皆、月の光を凌(しの)ぐネオンライトを受け、妖(あや)しくその姿を浮き彫りにしていた。
 夜の街を構成するあらゆる要素の内でマヤの目を惹(ひ)かぬものはなかった。しかし、その内で最も彼女の意識に鮮烈な刺激を与えたのは、この街で一等高い商業多重楼(たじゅうろう)であった。マヤはその建物の高さを目で測ろうと試みたが、たちまちに首が痛くなった。それでも、彼女は痛みをこらえて眺めていた。
 亜細亜薬剤中心
 赤一色のネオンがマヤの網膜に焼き付いて目を閉じてもなお、その残光が脳裏に鮮明に浮かび上がった。彼女はその残光に導かれるようにして多重楼の方へと歩きだした。
 多重楼を眼前にするとマヤの歩みは無意識に止まる程、それは高く、高くそびえていた。そしてその存在感に圧倒されたかのごとく、周囲がそこだけ何者の往来も無かった。多重楼は果てしない時間の流れにさらされ続けた外壁を無表情のまま誇示(こじ)しているようにさえ思われた。
 マヤは古びたエレヴェーターに乗り、目に入った四十二階のボタンを押した。モーターの回る音が響くと彼女の身体に一瞬間、重力が走り、赤錆(あかさび)にまみれた箱が上昇を始めた。エレヴェーターの内部には蛍光灯の一定間隔に点滅するプツン、プツンと言う音が単調に響いていた。マヤはインジケーターに目を据えたまま、身動ぎせず立っていた。
 再びマヤの身体に重力が走り、エレヴェーターが停まると、チン、とベルが鳴った。開いた扉の向こうには薄暗い空間。ラムプがひとつ、灯っていた。マヤは一歩、二歩と歩みを進め、暗がりに慣れるべく目を凝らした。
 背後で軋(きし)む音をたてて扉が閉まり、濃くなった闇にラムプの光が染み込んで辺りの様子が一層、克明(こくめい)な妖しさでマヤを迎えた。五、六間四方の室内。壁面の棚にずらりと並んだ瓶には種々雑多、多種多様の乾燥した葉や木の根が幾歳月を経て存在していた。そしてラムプの真下、帳場(ちょうば)に鎮(ちん)座(ざ)していたのが身の丈三尺もあろうかという大蝦蟇(だいがま)であった。彼は両生類特有のそのじっとりと湿った両眼でマヤを見据え、幅の広い口をぴったりと閉じたまま、目の前まで歩み寄った彼女と対峙(たいじ)していた。両者は時間軸から取り残されたかのように押し黙った。
「いらっしゃいまし」
 時の流れを引き戻したのは大蝦蟇の声であった。
「お嬢さん、どんなお薬をお求めでしょう」
マヤは己が何を探すでもなく、ここまでやって来たことを正直に告げた。
「アア、左様ですか」
大蝦蟇がグルッと喉(のど)を鳴らすと後ろ足で立ち上がり、ペタペタと部屋の隅へ歩いて行った。やがて小さな引き出しから幾種類かの生薬を掴(つか)んで戻ってきた。
「どうぞおかけくださいまし」
彼は薬を刻みながら四本ある指で框(かまち)の方を指した。
「貴女様は久しぶりのお客様でして、もう先にお客様がお見えになったのはいつ頃でしたでしょうか。数年、いや、十数年前でしたかな」
彼はそう言いながらも楽しげにケロケロと笑った。
「イエイエ、大袈裟じゃあ御座いません。この亜細亜薬剤中心には手前どもを含めましてなん百も店が出ておりますが何処も同じで御座います。まあ、皆、道楽半分に店番をしているようなものですから仕方ありませんな」
彼は薬を刻みながら、再びケロケロと実に軽快に笑ってみせた。
「申し遅れました。私、かはづ屋卦露兵衛(けろべえ)と申します。けちな生薬(きぐすり)屋で御座います。どうぞ御贔屓(ごひいき)に。……フム。お嬢さんは、マヤさんと仰る。ハハア。良い御名前で御座いますなあ」
そう言いながら卦露兵衛は刻んだ薬を煎じ始めた。
 徐々にマヤの知らない不可思議な香りが部屋に満ち、彼女の眉間の筋肉を刺激した。マヤがその香りの正体を尋ねる前に卦露兵衛の方が先に口を開いた。
「妙な香でしょう。おそらくマヤさんの嗅いだことのないような。それもその筈。手前どもの扱います生薬はいかに円環都市広しと言えど、ちょっと他様には御座いません。そして手前どもの薬は効能において何処にも引けは取りませぬ。と、申しますのはこの壁一面に見えます生薬の数々、これは先代の私の父親、解胡兵衛(げこべえ)がその半生、二百五十余年の歳月をかけて、各国から集めて参りました正真正銘の本物ばかりで御座います」
語りに熱の入り始めたところで卦露兵衛は己を諫(いさ)めるように頭をペチペチと叩くと「いやはや、失礼」と気恥ずかしそうに呟いた。
「どれ、そろそろできましたようで」
卦露兵衛は鉄瓶から湯呑に注いだ煎(せん)じ薬をマヤに勧めた。
「さ、どうぞ」
マヤは目を見張って湯気のたつ湯呑を見た。
「お代は頂きませんから、どうぞお召し上がりください。それは葛根湯と申しましてな、今日ではご存知のかたも少のう御座いますが、かつては健康のために広く飲まれていた薬です。味はともかくとして決してお毒になるようなものでは御座いません。このかはづ屋の暖簾(のれん)にかけてお約束いたします」
卦露兵衛はそう言うなり、自らの湯呑にも葛根湯を注ぎ、よく冷ましてから一息で飲み干した。楕円形の瞳がぐるりと回転し、彼はふうっと息をついた。
「このとおりです」
その様子を見たマヤは意を決して湯呑に満ちた液体を口に含んだ。
 それはマヤの知らない、形容し難い香りで口腔内に広がった。苦い? 渋い? 甘い? いずれでもあり、いずれでもない味。ただ、もう一度口にするのがはばかられる味であることだけは確かであった。
「美味しくは御座いませんでしょう? しかし、良薬は口に苦しと申しまして、御身体には良いのです。いや、しかし、無理にお召し上がりにならずとも良う御座いますよ」
卦露兵衛はそう言いながらマヤの湯呑へ手を伸ばそうとした。途端、マヤは少しムキになって卦露兵衛を制し、先程、彼がやってみせたように、一息で葛根湯を飲み干した。味わうことなく、喉へと流し込んだつもりであったが、彼女の口腔内にあの形容し難い妙な香りがより濃く満ち満ちた。
「オヤ……」
 卦露兵衛はすっかり瞳を丸くして固まった。片やマヤは誇らしげにわずか口角を上げて彼を見据えた。
「これはこれは……エエト、お口直し……」
卦露兵衛は立ち上がり、オロオロしながら前掛けのどんぶりを漁(あさ)りだした。
「アア、あったあった。どうぞこれを……。イエ、御心配には及びません。良い味の飴です。さ、どうぞ
 イヤハヤ、驚きました。まさかそっくりお召し上がりになるとは……。実はかつての人々もこの味がどうも口に合わなかったものとみえまして、このように煎じて飲むものは多くなかったそうです。大抵はこれを加工しましてな、顆粒(かりゅう)にして飲み良くしたようです。昔のかたですらそうなのですから、現代の我々に飲めぬのも無理は御座いません。実を申しますと、私もどうもこの味は好かんのです。……なのですが、まさかそれをマヤさんがお飲みになるとは感服いたしました」
 マヤは卦露兵衛の話もそこそこにひたすら飴をなめることに熱中していた。始めこそ葛根湯の香りと飴の甘味で口内が混沌としたものの、徐々に砂糖の風味がマヤの舌を癒していった。
「……エ、なんですって? アア、その飴がお気に召したと。それは良う御座いました。そう。それはその辺に売っているキャンデーとは違います。
マヤさんは漏斗街(ろうとがい)を御存知ですか? エエ、エエ。そうです、そうです。そこで知人が飴屋を営んでおりまして、そこの主人自慢の飴です。砂糖を使っておりましてね。少々お値段は高う御座いますが、味は確かです。そこの主人がまた頑固で、未だに古い製法を守っております故、一度に多くは作れませんのでこの網状都市では希少なものなのです。イエイエ、お気になさらず。
 しかし、マヤさんのお気に召したとは私も嬉しゅう御座います。お立ち寄りの際にはその飴屋、あり屋と申しますが、そこの千代露衛門(ちょろえもん)にこの卦露兵衛のことをお伝えくださいまし。何かマヤさんに少しはお得のゆくことがあるやもしれません。千代露衛門とは随分と長い付き合いですからな」
卦露兵衛はどんぶりからもうひとつ、飴を取り出すと大きな口へそれを放り込み、満足そうに頷いた。
「オヤ、失礼。お茶をお出ししておりませんで。今、淹(い)れますので、しばしお待ちを……。
 エ、なんと……。そうですか。もうお帰りになると、左様ですか。なんのお構いもできませんで……。アア、イエイエ。どうもお粗末様でした。またどうぞお出でくださいまし。こうしてお客様とお話しするのを楽しみに手前どもも商いをしております。
エエ、エエ。これも何かの縁でしょうから、是非とも。
お待ちしております。ア、マヤさん。少しお待ちを。どうぞお土産で御座います。心配は御座いません。煎じ薬には違い御座いませんがごく飲み良いもので御座います。お湯を注げば直ぐにお飲みいただけますのでどうぞお宅でお召し上がりください。
イエイエ。それほどのものでは御座いませんのでお気遣いなく。エエ、エエ。ハイ。ではまたお近いうちに。ヘエ。ありがとうございました」
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