雨が降る夜に

作家: 青戸 天
作家(かな):

雨が降る夜に

更新日: 2023/06/02 21:46
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本編


雨の音、っていうのは厳密にいうと、雨の落ちる音だ。
当たるものによって、音が違う。

こんな街の中は車の音と、車の撥ねる水の音が雨音になるけども。

日も暮れて、昨今の働き方改革やらで街からは人が減る。ちょい昔なら平日でも夜中まで下を歩く人が少ないと思うことはなかったのに。

細長い雑居ビルの、通りに面した階段は踊り場が広くて、キャンプ用の椅子と灰皿が設置されている。上下のフロアの住人たちもここに避難してくることがあるくらいだ。

雨が吹き込むことも、よほどの風でなければない。

間違っても下に灰や火を落とさないように気を付けながら、手すり越しに吸い込んだ煙を街に向かって吐き出した。

「湿気てんなぁ……」

雨が降ってる夜にそんなことを言う方がおかしいでしょ。

俺の大好きな人の声がする。すぐ隣にいなくても。

「……そうだよなぁ」

夜になっても暖かい日が増えたと思ったら、すぐにこのところの湿度の高さだ。

日本はついに、四季を手放したのか。
訳がわからなくなった季節のおかげで、余計に一年が早くなった気がする。

しばらく前に外に出て買ってきたコーヒーショップのコーヒーはキャンプチェアのドリンクホルダーですっかり温かさを手放しているはずだ。

長くなった灰ごと、灰皿に押し付けて火を消した。

「……」

ずっと片手に握りしめていた携帯の画面に触れる。

耳に当てるとコール音が聞こえてきて、胸がざわざわした。

出るかな。

出るだろうな。

忙しい時は逆に出てくれないことが多い。でも、こういう時は必ず電話に出る。そんなふうに自分に言い聞かせていても不安はそれを乗り越えて来ようとする。

続くコール音に不安になりかけた時、コール音が途切れた。

『……はい』

耳元で息を吸う音と、少し押さえた声を聞いて、ふっと息を吐いた。

「俺です」
『うん』
「今、いいかな」

電話の向こうから帰ってくる答えを待ちながら、静かだな、と思う。

都会の真ん中で、人が少ないとはいえ、まだ宵の口で、車の通りもまだある。
それなのに、こんな小さな機械でつながったこちらとあちら側だけは、ひどく静かだ。

『……うん』
「あの」
『なに?』
「さっきの電話だけど」

別れたい。
やっぱり一緒にいられない。

その言葉に、考えさせて、と言って一度、電話を切った。

「いやです。俺は別れたくない」
『なんで』
「それは俺の方がいいたい。何があったの?どうしたの」

少し時間を置いたからか、随分落ち込んでいる声は変わらなくても、突っぱねるだけだった先ほどとは違う。

ぽつり、ぽつりと聞こえてくる理由に、目を閉じて額に手を当てる。

「うん……。そういうことはあるよね。でも、俺はあなたが好きだから。別れたくない」

単純な話で、一番難しい話だ。

価値観が色々だと言われていても、大多数と言われる声は溢れていて、それが時々がんじがらめに縛り付ける呪いになるときがある。

「それをあなたに言った人の価値観はわかるけど、わからない。だって、俺はそう思わないから。あなたが俺のことが嫌いになって……、ちがうな。あなたにとって、俺がいらなくなったなら仕方ないと思うけど、そうじゃないなら俺にはあなたは必要だから」
『ちがうよ。あなたに私は必要ないんだよ』

頑なに手を離そうとする強情さを、違う方に向けてくれたらいいのに、なんでわからず屋なのかなぁ。
こんな時だけは、お互いに物分かりが悪いのは気が合うのだと言ってもいい。

むきになるわけでもなく、静かに、丁寧に言葉を返す。


「それは違う。俺の気持ちをあなたが勝手に決めないで。俺もあなたの気持ちを尊重したいけど、あなたが本当にそうしたいわけじゃないなら譲れないよ」
『でも、私は』

世の中にはたくさんの普通があって、そこから少し離れることがあると、まるで抜け穴でも見つけたようにそこに目が向いてしまうのはわかる。
わかるけど、それで離れるならこの想いはどこに行けばいいのだろう。

「あなたがそうやって、ネガティブになる要素は、俺にとってはなんでもないことで、それよりも好きなことがたくさんあるよ。だから、俺はあなたから離れないよ」
『……ばかじゃないの』
「俺とあなたの間に、俺とあなた以外の意見も価値観もいらないんですよ」

馬鹿だ。

電話の向こうで繰り返す言葉に違うよ、と繰り返す。
ふと、その向こうの音に耳を澄ませた。

「ねぇ、今、どこにいるの」

言いながら、まさかという一抹の願望を抱えて、そのまま階段を降り始めた。

少しずつ、足が速くなって、一段飛ばしに地上に近づく。
ビルの人間だけは開けられるロックを外して周りを見回した。

「ねぇ」

なにしてるの。

滅多に会えないくせにこういう時だけは、今にも泣きそうな顔でそこにいるのはズルい。

『だって』
「もう、携帯越しの意味ないでしょ」
「……ごめん」
「いいよ。ご飯は?食べた?何時からいたの、こんなとこに」

折り畳みの傘を握る手を引き寄せて、そのままビルの中へと連れてはいる。職場のフロアまで連れてあがり、廊下で足を止めた。

「一緒に帰ろう。おいしいもの食べよう。いくらでも話を聞くから」

携帯越しに話していた時よりも、自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。

何度も目を瞬いてから、黙って頷いた頭をそっと撫でてから荷物を取りに行く。

雨がまだ降っていてよかった。
折り畳み傘に二人で入る距離が愛おしいから。

雨は、優しい。
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