傲慢の者
公開エッセイ、ノンフィクション
概要
渇望は満ちるか?
本編
私は今日も真夜中と明け方の狭間に目を覚ましてしまった。時計を見ると三時間と眠っていなかった。しかし、もはやこれにもすっかり慣れてしまっていた私は布団の中で二時間ほど安眠への無駄な抵抗をしてみせ、ルーティーンのように外套をひっかけるとコンビニへ向かった。道中、空き缶を山程に積んだ自転車とすれ違った。
自活。やってできぬことはないが……いや、きっとできぬだろう。
私は飢えていた。ただ、名誉に。私が求めるのはささやかな日々を送る以上の金ではない。承認、肯定、歓声。それらにこそ、飢えていた。口では「誰に認められることも求めない」などと大層な言葉を強がって吐いているものの、やはり、足りない。そんな生を幾十年も続けたくはない、というのが私の本心であった。群衆になどもてはやされたくないと虚勢をはりながら、私はやはりそれをこそ、渇望しているのであった。なんと惨めなことか。
コンビニでただ安いだけの悪い酒と煙草を買うと、再び私は薄明るい、凍るような師走の街を歩き始めた。贅沢をする金など要らぬ。名誉が欲しい。ただ、名誉が。それが得られるならば、私の寿命五十年と取り換えたって安い。しかし、同時に私には解っていた。私の創作の刀は錆び過ぎている。昨今のディジタル、ヴァーチュアルな世間にそんな古びた刀で立ち向かうなぞ、まるで不可能である、と。認めたくはなかったが、私はそれをこの四、五年のうちにすっかり認めさせられてしまったのであった。皮肉にも私が黙殺したつもりでいた群衆に。全く、笑い話にもならない。
私は人間本来の弱さ、愚かさを群衆よりもはるかに解っているつもりである。そして、その美しさも。しかし、私がそれを表現するための手立てはただ、筆だけである。錆びきったこの刀で一体、何ができようか。才能、とは私が最も軽蔑している言葉の一つでありながら、私はそれを持っていると信じて疑わない。無様にも。本来ならば馬鹿な群衆こそ、私の才能を認めるべきなのだ。嗚呼、奢りが過ぎたか? いや、そんなことはあるまい。
何かの間違いで私が群衆にもてはやされる日が来るならば、その時、私はきっぱりとこう言ってやる。
私は努力なぞしていない。成すべきことを成したまでだ。
この言葉こそ、私が魂を削って表現するべきことなのだ。即ち、苦悩礼賛の否定。
窓の外では日がすっかり昇りきったようで、明るい。鳥もさえずり始めた。酔いもわずか、まわってきたが、とうとう今夜も眠れなかった。
自活。やってできぬことはないが……いや、きっとできぬだろう。
私は飢えていた。ただ、名誉に。私が求めるのはささやかな日々を送る以上の金ではない。承認、肯定、歓声。それらにこそ、飢えていた。口では「誰に認められることも求めない」などと大層な言葉を強がって吐いているものの、やはり、足りない。そんな生を幾十年も続けたくはない、というのが私の本心であった。群衆になどもてはやされたくないと虚勢をはりながら、私はやはりそれをこそ、渇望しているのであった。なんと惨めなことか。
コンビニでただ安いだけの悪い酒と煙草を買うと、再び私は薄明るい、凍るような師走の街を歩き始めた。贅沢をする金など要らぬ。名誉が欲しい。ただ、名誉が。それが得られるならば、私の寿命五十年と取り換えたって安い。しかし、同時に私には解っていた。私の創作の刀は錆び過ぎている。昨今のディジタル、ヴァーチュアルな世間にそんな古びた刀で立ち向かうなぞ、まるで不可能である、と。認めたくはなかったが、私はそれをこの四、五年のうちにすっかり認めさせられてしまったのであった。皮肉にも私が黙殺したつもりでいた群衆に。全く、笑い話にもならない。
私は人間本来の弱さ、愚かさを群衆よりもはるかに解っているつもりである。そして、その美しさも。しかし、私がそれを表現するための手立てはただ、筆だけである。錆びきったこの刀で一体、何ができようか。才能、とは私が最も軽蔑している言葉の一つでありながら、私はそれを持っていると信じて疑わない。無様にも。本来ならば馬鹿な群衆こそ、私の才能を認めるべきなのだ。嗚呼、奢りが過ぎたか? いや、そんなことはあるまい。
何かの間違いで私が群衆にもてはやされる日が来るならば、その時、私はきっぱりとこう言ってやる。
私は努力なぞしていない。成すべきことを成したまでだ。
この言葉こそ、私が魂を削って表現するべきことなのだ。即ち、苦悩礼賛の否定。
窓の外では日がすっかり昇りきったようで、明るい。鳥もさえずり始めた。酔いもわずか、まわってきたが、とうとう今夜も眠れなかった。