黒猫ノワール
黒猫ノワール
更新日: 2024/01/30 06:12現代ドラマ
本編
リビングで本を読んでいると、優子の部屋から鼻歌が聞こえてきた。私はそっと聞き耳を立てる。私が聞いていると知ると、恥ずかしがって歌うのをやめてしまうから。
インテリアデザイナーをしている優子は、機嫌がいい時や仕事が順調な時は鼻歌を歌う。そのレパートリーは最近のJ-POP、昔のフォークソング、ドラマの主題歌、映画音楽、CMで流れる無名のBGMなど、幅広くて多種多様だ。でも、必ずどこかで「Fly Me to the Moon」を挟む。前にそのことを言ったら、「そう?」と不思議そうな顔をしたので、多分無意識だろう。
優子の鼻歌を聞くのは久々だ。最近はスランプで、全然いいデザインやアイディアや思い浮かばず、「このままだとクライアントから契約切られちゃう」と頭を抱えていた。そして鼻歌のかわりに聞こえてくるのは、大きなため息と「あーもう!」と言う、ストレスを含んだ叫び声だった。
デザインというものに縁がない仕事をしている私は、その苦労を理解してあげることができず、歯がゆかった。結婚する前、友人に「趣味も仕事も全然違うけど、大丈夫かな」とボヤいたら、「共通する部分があると、逆にケンカになるよ。ウチらみたいに」と言うので、申し訳ないと思いつつ、なんか笑ってしまった。
本の文字を目で追っていると、黒猫のノワールが膝の上に乗って来た。優子に構ってもらえなかったんだろう。
「仕事に集中させてあげような。俺の膝の上で我慢しとけ」
そう言うと、ノワールは大あくびをして丸くなった。
1年前、女の子の黒猫が我が家にやって来た時、「名前はクロってどう?」と言うと、「クロってなんか、事件の犯人みたいでイヤ」と、あっさり却下された。
「ノワールにしましょう! フランス語で黒って意味だから!」
猫の一声ならぬ、鶴の一声で決まった。私は心の中で「一緒じゃないか」と突っ込みながら「いいんじゃない?」と同意した。
「ちょっとコンビニ行くけど、何か買うものある?」
優子はコートを着て、マフラーを巻いている。
「アイス食べたい」
「そんなこと言うと、私も食べたくなるでしょ?」
「じゃあよろしく。俺はバニラ」
優子は「たまにはバニラ以外、食べなさいよ」と言い、ノワールに手を振る。私はノワールの前足を取り、「行ってらっしゃーい!」と手を振った。
家の中が静寂に包まれ、再び読書に戻ると、ノワールはいきなり立ち上がった。耳も毛も逆立っている。
「ん? どうした?」
落ち着かせようと全身を優しく撫でると、「グルゥ……」と低い唸り声を上げ、思い切り私の膝を蹴って玄関の方へと走り出した。慌てて追いかけるが、ノワールの姿はどこにもない。
「おーい! 出て来いよー!」
ベッドの下、本の間、ノワールが隠れそうな場所は全部探したが、ノワールはまさに煙のように消えてしまった。
途方に暮れていると、スマートフォンが鳴った。優子が交通事故に遭ったという知らせだった。いろいろ言われたが、もう右から左に流れていくだけだった。タクシーで病院に向かう途中、私はあらゆる事態を想定して戦慄(せんりつ)した。
――コンビニなんて行かないで、仕事してればよかったんだ。
歯が粉々に砕けるんじゃないかと思うほど強く噛み締め、赤信号にイラつく。病院に着くと、運転手に1万円を放り投げて走った。
遠くの方で警察官が手を上げていのるが見えて、勢いそのままに病室に飛び込むと……そこには、優子が椅子に座り、驚いた顔で私を見ていた。私は肩で息をしながら「はぁ?」と間抜けな声を出すと、医師が「あの……かすり傷です」と言うので、余計に混乱した。
警察官は「トラックが信号無視をしましてねぇ。目撃情報では『女性が轢かれた』とのことだったんですが……」と言う。おそらく、優子も含めた全員が今の状況を理解できていない。
呼吸が収まった私は優子に近付き、両手を肩に置く。優子は震えていた。
「ノワールは?」
その言葉に、「こんな時まで猫の心配か?」とさすがに怒りがこみ上げる。
「ノワールはどこ!?」
優子は私にすがり付く。
「どこって、家にいるよ?」
「本当に?」
私が「もちろん」と言うと、優子は声を潜めた。
「実はね、ノワールが助けてくれたの」
「え……なんでノワールが?」
「トラックが突っ込んで来た時、目の前をノワールが横切って……気が付いたらトラックが電柱に衝突してた」
私の中で、点と線が繋がった。
「優子、落ち着いて聞いてくれ」
隣に座り、ノワールが突然消えたことを話すと、優子は「そう……」と力なく項垂(うなだ)れた。私は優子を抱きしめた。私に出来ることは、これだけだった。
家に戻り、2人でノワールを探したが、やはりノワールの姿はどこにもなかった。リビングのソファに座ると、さっきまでの出来事が、まるで夢だったんじゃないかと思えてくる。ただ、私と優子の膝の上にノワールがいないことが、現実である何よりの証拠だった。
「黒猫が前を横切ると不吉なことが起こる、なんて言うけど、あれは嘘ね」
「優子の命の恩人――恩猫(おんねこ)だね」
優子は「何よ、おんねこって」と笑い、「コーヒー入れるね」と言ってキッチンに向かった。私が天井を仰ぐと、キッチンから鼻歌が聞こえてきた。
「案外、ひょっこり戻って来るかもしれないよ?」
努めて明るく言うと、優子は「そうね」とポツリとこぼした。
――優子を守ってくれてありがとう。
キッチンで鼻歌を歌う優子を見ながら、心の中でノワールに礼を言った。
0インテリアデザイナーをしている優子は、機嫌がいい時や仕事が順調な時は鼻歌を歌う。そのレパートリーは最近のJ-POP、昔のフォークソング、ドラマの主題歌、映画音楽、CMで流れる無名のBGMなど、幅広くて多種多様だ。でも、必ずどこかで「Fly Me to the Moon」を挟む。前にそのことを言ったら、「そう?」と不思議そうな顔をしたので、多分無意識だろう。
優子の鼻歌を聞くのは久々だ。最近はスランプで、全然いいデザインやアイディアや思い浮かばず、「このままだとクライアントから契約切られちゃう」と頭を抱えていた。そして鼻歌のかわりに聞こえてくるのは、大きなため息と「あーもう!」と言う、ストレスを含んだ叫び声だった。
デザインというものに縁がない仕事をしている私は、その苦労を理解してあげることができず、歯がゆかった。結婚する前、友人に「趣味も仕事も全然違うけど、大丈夫かな」とボヤいたら、「共通する部分があると、逆にケンカになるよ。ウチらみたいに」と言うので、申し訳ないと思いつつ、なんか笑ってしまった。
本の文字を目で追っていると、黒猫のノワールが膝の上に乗って来た。優子に構ってもらえなかったんだろう。
「仕事に集中させてあげような。俺の膝の上で我慢しとけ」
そう言うと、ノワールは大あくびをして丸くなった。
1年前、女の子の黒猫が我が家にやって来た時、「名前はクロってどう?」と言うと、「クロってなんか、事件の犯人みたいでイヤ」と、あっさり却下された。
「ノワールにしましょう! フランス語で黒って意味だから!」
猫の一声ならぬ、鶴の一声で決まった。私は心の中で「一緒じゃないか」と突っ込みながら「いいんじゃない?」と同意した。
「ちょっとコンビニ行くけど、何か買うものある?」
優子はコートを着て、マフラーを巻いている。
「アイス食べたい」
「そんなこと言うと、私も食べたくなるでしょ?」
「じゃあよろしく。俺はバニラ」
優子は「たまにはバニラ以外、食べなさいよ」と言い、ノワールに手を振る。私はノワールの前足を取り、「行ってらっしゃーい!」と手を振った。
家の中が静寂に包まれ、再び読書に戻ると、ノワールはいきなり立ち上がった。耳も毛も逆立っている。
「ん? どうした?」
落ち着かせようと全身を優しく撫でると、「グルゥ……」と低い唸り声を上げ、思い切り私の膝を蹴って玄関の方へと走り出した。慌てて追いかけるが、ノワールの姿はどこにもない。
「おーい! 出て来いよー!」
ベッドの下、本の間、ノワールが隠れそうな場所は全部探したが、ノワールはまさに煙のように消えてしまった。
途方に暮れていると、スマートフォンが鳴った。優子が交通事故に遭ったという知らせだった。いろいろ言われたが、もう右から左に流れていくだけだった。タクシーで病院に向かう途中、私はあらゆる事態を想定して戦慄(せんりつ)した。
――コンビニなんて行かないで、仕事してればよかったんだ。
歯が粉々に砕けるんじゃないかと思うほど強く噛み締め、赤信号にイラつく。病院に着くと、運転手に1万円を放り投げて走った。
遠くの方で警察官が手を上げていのるが見えて、勢いそのままに病室に飛び込むと……そこには、優子が椅子に座り、驚いた顔で私を見ていた。私は肩で息をしながら「はぁ?」と間抜けな声を出すと、医師が「あの……かすり傷です」と言うので、余計に混乱した。
警察官は「トラックが信号無視をしましてねぇ。目撃情報では『女性が轢かれた』とのことだったんですが……」と言う。おそらく、優子も含めた全員が今の状況を理解できていない。
呼吸が収まった私は優子に近付き、両手を肩に置く。優子は震えていた。
「ノワールは?」
その言葉に、「こんな時まで猫の心配か?」とさすがに怒りがこみ上げる。
「ノワールはどこ!?」
優子は私にすがり付く。
「どこって、家にいるよ?」
「本当に?」
私が「もちろん」と言うと、優子は声を潜めた。
「実はね、ノワールが助けてくれたの」
「え……なんでノワールが?」
「トラックが突っ込んで来た時、目の前をノワールが横切って……気が付いたらトラックが電柱に衝突してた」
私の中で、点と線が繋がった。
「優子、落ち着いて聞いてくれ」
隣に座り、ノワールが突然消えたことを話すと、優子は「そう……」と力なく項垂(うなだ)れた。私は優子を抱きしめた。私に出来ることは、これだけだった。
家に戻り、2人でノワールを探したが、やはりノワールの姿はどこにもなかった。リビングのソファに座ると、さっきまでの出来事が、まるで夢だったんじゃないかと思えてくる。ただ、私と優子の膝の上にノワールがいないことが、現実である何よりの証拠だった。
「黒猫が前を横切ると不吉なことが起こる、なんて言うけど、あれは嘘ね」
「優子の命の恩人――恩猫(おんねこ)だね」
優子は「何よ、おんねこって」と笑い、「コーヒー入れるね」と言ってキッチンに向かった。私が天井を仰ぐと、キッチンから鼻歌が聞こえてきた。
「案外、ひょっこり戻って来るかもしれないよ?」
努めて明るく言うと、優子は「そうね」とポツリとこぼした。
――優子を守ってくれてありがとう。
キッチンで鼻歌を歌う優子を見ながら、心の中でノワールに礼を言った。
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