足跡はどこまでも
足跡はどこまでも
更新日: 2023/06/02 21:46詩、童話
本編
夜明け前の森を一人の旅人が歩いていた。
木々の隙間をぬって、暗い小道に雨がしとしとと降り注ぐ。
長く降り続いた雨は剥き出しの土に染み込み、ぬかるんだ道は旅人の歩いてきた道のりを足跡として残した。
全身を覆うマントで体を隠した旅人は、雨に濡れぬよう、フードを深くかぶり、俯いて歩く。
やがて森を抜け、旅人の目の前には草原が現れた。
夜の帳に隠されて道の先は見えないが、黄土色の小道は草原の向こうへと続いているのだろう。
旅人はそこで足を止めた。雨足が徐々に強くなっているのを感じる。
遮るもののない草原を、風雨に晒されながら歩く気にはなれない。
旅人は森に引き返した。出口辺りの大きな木の根元に、丁度いい大きさの石を見つけ、腰を下ろす。
幾重にも重なった木の葉のおかげで、雨粒はほとんど落ちてはこない。
背負っていた荷物を脇に降ろし、足元に目を落とした。
泥の付いた靴。くたびれたマント。濡れそぼった手足。ざあざあという雨音。
疲れが全身を支配している。そのうちに、自由を得た意識がふわふわとどこかへ飛んでいくのではないか。そんな気がした。
火でも起こそうかと思ったが、この湿気では種火も点かないだろう。幸いにも凍え死ぬほどの寒さではないから、これ以上雨に濡れなければそれでいい。
急くような目的がある訳でもない。一眠りしようかと目を閉じる寸前。
ぼやけた視界の片隅に、暗闇を弾く白い何かが見えた。
目を擦り、暗がりを透かし見る。
花だ。一輪の白い花。
固く閉じた花弁を俯かせ、それはまるで雨粒の重さに耐えかねているかのようだった。
―――なんだ。自分にそっくりじゃないか。
旅人は自嘲気味に、力無く笑った。
旅に出る。そう決めたときの気持ちはもう思い出せない。
ただ力強い灯火だけを胸に、急かされるように旅に出た。
求めたものは何だったろう? 希望か、それとも幻想か。
野を越え、山を越え、果ては海まで越えて、何かを求めてあてどなく彷徨った。
行く先々で様々なものを見て、驚き、怒り、悲しみ、そして笑った。
変わったものは多い。変わらないものも少なからず残っているだろう。
歩き続けた時間の中で、雨に晒され、風に吹かれ、胸の灯火は次第に小さくなっていった。
ふと気付くと、自分が何を求めて旅に出たのか、分からなくなった。
自分は何を糧に、これまで歩いてきたのだろう。
俯いて歩く時間が増えた。
夢へと誘うまどろみが、今は心地よい。
鳥のさえずりが聞こえる。
目を開けると、辺りはもう明るくなっていた。
雨も止んだようだ。
木の葉から落ちる水滴が、穏やかな音を立てている。
立ち上がり、伸びをした。
屈んで荷物を取ろうとしたとき、朝日に煌めく何かが見えた。
綺麗な白い花。俯いていたあの花が、木漏れ日に輝いている。
束の間、言葉を失い立ち尽くした。
今にも倒れてしまいそうだったあの花が、こんなにも誇らしげに咲いている。
その様を見て、いつか立ち寄った町で聞いた、旅の楽団の演奏が耳に蘇った。
この花のように、静かだが明るい、いい歌だった。
口ずさもうと息を吸ったとき、いつだったか、乗り合いの馬車で苦手にしていた口笛の吹き方を教えてもらったことを思い出した。
記憶を頼りに、口笛を吹き始める。初めこそ掠れた音や調子外れな音ばかりだったが、何度か繰り返すうちにだんだんと口笛に慣れてきた。
けっこう上手に吹けてるよなと自画自賛してみる。
なんだかいい気分だ。
旅人はくすりと笑った。
上機嫌で口笛を吹きながら、荷物を担いで小道に戻った。
まだ乾ききっていない道には、旅人の足跡が残っている。
思えば自分はどれほどの道のりを歩いてきたのだろう。途切れることなく伸びる己の過去を振り返った。
踏みしめてきた道の分だけ、得たものがあった。それはこの胸の中に確かに残っている。意味のあるものも、無駄なものも、それらすべてが己の生きた証なのだ。
旅人は自分の足跡をなぞるようにして、森の出口へと向かう。
そうして森を抜けると、目の前には再び広い草原が広がった。
雨上がりの澄んだ空気を風が運んでいく。
旅人は被っていたフードを脱いだ。
涼風が髪をなびかせ、マントをはためかせる。
見上げた空は笑ってしまうほど大きくて、いつか同じ旅人から聞いた言葉を思い出した。
幾度季節が変わろうとも、沈まぬ日はなく、明けない夜はない。
「そして止まない雨はない、だったかな。ああ、そういえば―――」
旅人でもう一つ思い出した。
この先の町に、美味い飯と酒を出す宿があるとも言っていた。
急げば二・三日で着けるだろう。
自然と零れる微笑。
旅人はまた歩き出した。
口笛を吹きながら。
その道のりに確かな証を残して。
足跡は続く。どこまでも。
いつか訪れる旅路の果てまで。
0木々の隙間をぬって、暗い小道に雨がしとしとと降り注ぐ。
長く降り続いた雨は剥き出しの土に染み込み、ぬかるんだ道は旅人の歩いてきた道のりを足跡として残した。
全身を覆うマントで体を隠した旅人は、雨に濡れぬよう、フードを深くかぶり、俯いて歩く。
やがて森を抜け、旅人の目の前には草原が現れた。
夜の帳に隠されて道の先は見えないが、黄土色の小道は草原の向こうへと続いているのだろう。
旅人はそこで足を止めた。雨足が徐々に強くなっているのを感じる。
遮るもののない草原を、風雨に晒されながら歩く気にはなれない。
旅人は森に引き返した。出口辺りの大きな木の根元に、丁度いい大きさの石を見つけ、腰を下ろす。
幾重にも重なった木の葉のおかげで、雨粒はほとんど落ちてはこない。
背負っていた荷物を脇に降ろし、足元に目を落とした。
泥の付いた靴。くたびれたマント。濡れそぼった手足。ざあざあという雨音。
疲れが全身を支配している。そのうちに、自由を得た意識がふわふわとどこかへ飛んでいくのではないか。そんな気がした。
火でも起こそうかと思ったが、この湿気では種火も点かないだろう。幸いにも凍え死ぬほどの寒さではないから、これ以上雨に濡れなければそれでいい。
急くような目的がある訳でもない。一眠りしようかと目を閉じる寸前。
ぼやけた視界の片隅に、暗闇を弾く白い何かが見えた。
目を擦り、暗がりを透かし見る。
花だ。一輪の白い花。
固く閉じた花弁を俯かせ、それはまるで雨粒の重さに耐えかねているかのようだった。
―――なんだ。自分にそっくりじゃないか。
旅人は自嘲気味に、力無く笑った。
旅に出る。そう決めたときの気持ちはもう思い出せない。
ただ力強い灯火だけを胸に、急かされるように旅に出た。
求めたものは何だったろう? 希望か、それとも幻想か。
野を越え、山を越え、果ては海まで越えて、何かを求めてあてどなく彷徨った。
行く先々で様々なものを見て、驚き、怒り、悲しみ、そして笑った。
変わったものは多い。変わらないものも少なからず残っているだろう。
歩き続けた時間の中で、雨に晒され、風に吹かれ、胸の灯火は次第に小さくなっていった。
ふと気付くと、自分が何を求めて旅に出たのか、分からなくなった。
自分は何を糧に、これまで歩いてきたのだろう。
俯いて歩く時間が増えた。
夢へと誘うまどろみが、今は心地よい。
鳥のさえずりが聞こえる。
目を開けると、辺りはもう明るくなっていた。
雨も止んだようだ。
木の葉から落ちる水滴が、穏やかな音を立てている。
立ち上がり、伸びをした。
屈んで荷物を取ろうとしたとき、朝日に煌めく何かが見えた。
綺麗な白い花。俯いていたあの花が、木漏れ日に輝いている。
束の間、言葉を失い立ち尽くした。
今にも倒れてしまいそうだったあの花が、こんなにも誇らしげに咲いている。
その様を見て、いつか立ち寄った町で聞いた、旅の楽団の演奏が耳に蘇った。
この花のように、静かだが明るい、いい歌だった。
口ずさもうと息を吸ったとき、いつだったか、乗り合いの馬車で苦手にしていた口笛の吹き方を教えてもらったことを思い出した。
記憶を頼りに、口笛を吹き始める。初めこそ掠れた音や調子外れな音ばかりだったが、何度か繰り返すうちにだんだんと口笛に慣れてきた。
けっこう上手に吹けてるよなと自画自賛してみる。
なんだかいい気分だ。
旅人はくすりと笑った。
上機嫌で口笛を吹きながら、荷物を担いで小道に戻った。
まだ乾ききっていない道には、旅人の足跡が残っている。
思えば自分はどれほどの道のりを歩いてきたのだろう。途切れることなく伸びる己の過去を振り返った。
踏みしめてきた道の分だけ、得たものがあった。それはこの胸の中に確かに残っている。意味のあるものも、無駄なものも、それらすべてが己の生きた証なのだ。
旅人は自分の足跡をなぞるようにして、森の出口へと向かう。
そうして森を抜けると、目の前には再び広い草原が広がった。
雨上がりの澄んだ空気を風が運んでいく。
旅人は被っていたフードを脱いだ。
涼風が髪をなびかせ、マントをはためかせる。
見上げた空は笑ってしまうほど大きくて、いつか同じ旅人から聞いた言葉を思い出した。
幾度季節が変わろうとも、沈まぬ日はなく、明けない夜はない。
「そして止まない雨はない、だったかな。ああ、そういえば―――」
旅人でもう一つ思い出した。
この先の町に、美味い飯と酒を出す宿があるとも言っていた。
急げば二・三日で着けるだろう。
自然と零れる微笑。
旅人はまた歩き出した。
口笛を吹きながら。
その道のりに確かな証を残して。
足跡は続く。どこまでも。
いつか訪れる旅路の果てまで。
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